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怒られることを知らない人の恐怖

怒る、ということは相当なエネルギーを使う。

以前、子どもに魚の捌き方や料理の体験をする教室のお手伝いで先生役をやっていた時、2度ほど子どもを怒ったことがある(その教室は、悪いことをしたり、危険なことをしたらしっかり怒る方針であった)。

しかしなぜかこちらの方もかなり心臓バクバクしていた。

人を怒るということはとても大変だ。その為には、自分がそれ(怒るに至った相手の行動)に対して、自分はできているという客観的見地も求められる。

私は大学の時は体育会剣道部だったが、常に道場の中は怒りが渦巻いていた。先輩からの怒り、同期からの怒り。まあそれは、もっと気合を入れろだの練習に関してやるべきこと、先生方への配慮や準備ができていないという、しっかりとした理由があり怒られていたことがほとんどである。そして、上級生になって後輩を怒るときは、後輩を怒れるだけの努力を自分たち上級生ができているかどうかということを常に心に留めていた(なので、私自身は後輩を怒ったことがあまりない。一緒に頑張ろうやー、というような言葉が多かったような気がするが、要は怒れるほど自分に自信がなかっただけであるが)。

さて、今の大学生世代はあまり怒られたことが無いのだろう、という事象をよく見る。それは、別に今の大学生だけが特別そうであるというわけではないが、ここ最近私が講師を務める大学において何人もの学生の態度や考え方を見てそのあたりは強く感じてしまう。少なくとも、5年前は同じような大学で「怒る」まででもないが、「厳しい言葉で注意する」ことに一定の効果はあった。それは、本人たちが「怒られてしまった、、、」という態度を見せるのだが、ここ2年くらいの学生は「厳しい言葉で注意する」程度でも、「怒る」という行為を見せても『何を言われたのか、なぜ言われたのかを理解していない』態度になっていることをひしひしと感じるのだ。簡単にいうと、大人、というより自分より年上の存在を軽んじる、舐めている。それだけならまだしも、自分の行動が今後何か恐ろしい結果を招くようなことになるから「怒られている」というような意識になっていない。

ところで、最近上記のような言葉がツイッターで賛否両論(もっぱら否定)浴びせられている。

ここではそのTwitterの内容についてまでは詳しく言及しないが、私は「怒られたことのない、経験が少ない、あるいは『怒られたことによって行動変容をしたことが無い』人が『怒る』ということ」はどういうことになるだろうか、とても心配している。これは大学でも高校でも、学生に「怒る」ということで、かえって保護者や学校内での問題、生徒による教師いじめなどへのエスカレーションになることを恐れているという側面が大きいと思っている。親も祖父母も子どもを怒るということがどんどん少なくなっていると思われる。

怒られる、ということにはそれ相応の理由もある。もちろん怒られた理由が理不尽なこともある。髪の毛の色が派手だ、スカートの丈が、遅刻が、、、などのつまらないものや、単に好き嫌いでということもある。しかし、自分の行動に大きな非があり、そこで怒られたということの経験が少ない人は、どうやって怒るのだろう。それは、怒る、ということではなく「攻撃する」だけの行為ではないだろうか。

上記のリンク記事は有料なのでごく一部の引用にとどめると、怒っていいのだ、という人々は『「怒り」によって他人や世間を支配したり、自分の意見を強引に受け入れさせようとする人間は、年齢をいくつ重ねても、責任ある大人にはなれません。永遠のお客様になります。「いまなんで私が怒っているのかわかる?」と、威圧的に察させて他人を精神的に支配し、使役する人生を送ります。』という指摘をしている。私に言わせれば、攻撃性を帯びたまま、その刃を収める鞘を失くした人になる。なので、だれかれ構わず傷つけ続けることになるかもしれない。納め方を知らないからだ(不登校ユーチューバーとか、グレタさんとかこんな感じの人に見える)。

『怒る』には、対象となるものが、「変わってほしいのに変わってくれない」、そしてその対象に自分自身はしっかりと向き合っているのに、『怒る』というコミュニケーションが成立する。つまり、『ちょっと男子―、ちゃんと掃除してよー!』の世界である。もし、この掃除の場合で、自分も掃除していない人に言われたらどう思うだろうか。怒りは通じないだろう。では、怒りを向けられた人はどうするか。反省して一緒に掃除をするか、「反発」するか。

『怒り』には、人間の性かのか、たとえ正論で「怒られた」としても、反発心というものが多少なりとも生じる

いわゆる「アンガーマネジメント」のレクチャー本には、怒りは反発や萎縮を生む、ということがよく書かれている。そのために、怒りの感情ではなく、相手にどう物事を伝えるか、、、ということがよく説かれているのだが。

ただ、人間はそういった「説諭」ですべてうまくいくことはなく、何らかの強い言葉、怒り、説教、懲罰的な言動(平手打ち、などもこの中に含む)をもってして『学習する』ということも多い。ただ、度を過ぎた懲罰的な言動と理由の理不尽さがコラボレーションしてしまうと、「憎しみ」「恨み」という心理が発生する。よく言えば反骨心だが、大概の場合大きな「憎しみ」となって、新たな『怒り』となる。その負のエネルギーは絶大である。

ちなみに悲しみも怒りの原動力となる。

ハフポストの記事で最も気になったのは、『果たして、地球温暖化は『怒りをもって』若者が変えていくような問題なのだろうか』ということである。しかし、(主観的ではあるが)若者の多くは『怒られたこと』、少なくとも『怒られた結果、変容する』という経験が乏しい。そういった若者がこの地球温暖化防止運動に『怒り』というモチベーションとともに参加するのは、未来に対して明るい結果を生まないのではないかと考える。それは先ほど白饅頭氏の指摘にもあるように、『威圧的に察させて他人を精神的に支配し、使役する人生』になってしまうのではないかという危険性があるからだ。そして、そもそも地球温暖化は一部の政治指導者に『怒り』を示したところでどうなるものでもない。この地球全ての人が全会一致で賛成するような答えが無い問題なのである。できることから、小さなことからコツコツと行うことが大切なのだが。

ちなみに、下記の記事のように、幼少期の経験で、失敗=怒られることの経験から、委縮してしまって、挫折に弱い子どもになる、、、というような指摘があり、それは私もうなずけるところはたくさんあるのだが、大切なのは『倫理』を教え、それに反した時には『怒り』ということが向けられる、という教育を受けることとは別だと思っている。そしてその『正当な機会』をもっと高校生大学生のころまでに作る必要があると思う。その年頃に『怒られる』ことが、ある意味人生最後の砦になるのだ。

大人になると、その『倫理』に反することをすると、他人からの『怒り』だけでなく、刑罰という社会的制裁を与えられる。

以前私の記事でボンボン社長の記事を書いたが、こういう人は得てして幼少期から青年時代に『倫理的なことに対して怒られたこと』の経験が浅いと思っている(あるいは、その優越的地位から、何か怒られても『自分は結局守られる』という意識が、特に悪知恵が働く年頃にできてしまい、大きな致命的行為をしてしまうこともある。少し古いものでイカリソースの事件などがあるが、実際世の中にはボンボン社長の大失敗や、我が物顔にふるまったり、会社を危うくさせた結果、株主である親から見限られ放逐されたケースはかなりたくさんある)

ハフポストの記事については多くの人が『では、その怒りは『正しい怒りといえるのか』』とか、『怒りという感情が渦巻く世の中にして楽しいのか』という指摘をしている。私もそう思う。

『正しく怒り』『しっかりと反省』していくことは必要だ。怒り、というものがコミュニケーションの一つとして昇華されていくことを願う。

ちなみにとある授業1回目の講義中に、再三の注意にもかかわらず私語が絶えなかった学生はかなりのテンションで「怒った」が、その後来なくなった(履修申告しなかったので)。先週その学生が廊下で友達といるところを通りすがったが、後ろから「当該学生:あ、しんちゃんだー」「その友人:しんちゃんって誰?」「当該学生:俺が1回しか授業受けなかった先生ー笑」という会話が聞こえた。Y村、聞こえてたからな。お前が無事卒業するならもう会うこともないかもだが、もし今度大学で出会ったら校舎の裏でマジ説教な。

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