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第3回『「自分」と「他人」』

こんばんわ。思考帝です。

突然ですが、「自分」と「他人」ってどうして認識できるのでしょう。

身体が異なるから?

ということは他人の定義は「体の違い」だけなるのでしょうか。そんなはずないですよね。例えば意識や考え方の違いだってあるはずです。我々はなぜ鏡を見たら「これは自分だ」と認識できるのでしょうか。

毎週radiotalkでこんな話をしているのでぜひ覗きに来てくださいね。またTwitterも更新しているのでぜひ見に来てください。「語ルシス」で検索すれば出てきます~。それでは今週のradiotalkで話した『「自分」と「他人」』の話に戻りましょう。

思考帝『自分が自分を認識するときっていつですかね?例えば2歳の時ですかね?覚えてないですよね。前提として、自分を認識しないと他人て認識できないんですよ』

ニセ『なるほど。まあこれ自分なりの結論なんですけど..』

思考帝『もう結論ですか?w』

思考帝、ニセ『www』

ニセ『それについて考えるとどうしても辻褄が合わなくなるんです。だって「自分」が「自分」を認識するって不可能じゃないですか』

ニセ『つまりは「他者」を認識することで「自分」を認識できるんですよね。つまり仮に他者のいない世界ではそもそも自分て認識できないですよね』

思考帝『まさにそうですよね。そもそも自分を認識するには、客観視しているもう一人の自分が必要ですよね。誰しもがもう一人の自分を飼っているんですかね。』

思考帝『少し話は変わりますが、親は元々は親じゃなかったですよね。少なくとも自分が生まれるまでは。生まれてからも親じゃなかったかもしれないです。少なくとも自分が「親」だと認識するまでは。つまり「自分」を認識しないと「家族」すらも認識できないですね』

思考帝『他人の痛みとかも結局わからないですよね』

ニセ『そうだと思いますよ。一般的な痛みのレベルを想像してパターンに当てはめてるわけです。同じワクチン接種するときに「痛い」って思う人と「痛くない」って言う人がいるように、結局知覚でも自他を区別できるかもです。』

思考帝『とか話してたらすごいことに気付きました。今の会話から行くと自分って「死なない」ですよね』

ニセ『?』

思考帝『自分の死は認識できないじゃないですか?つまり自分が死んだって自分じゃ捉えられないんですよ。そういう意味では自分は死なないんですよ』

ニセ『確かに.....仮にそうだとして少し話を広げると、死の恐怖も「死」自体じゃないかもしれないですね。外部要因への不安とか。この話も次はしたいですね。』

ここで時間になってしまいました。いかがでしたでしょうか。「自分」と「他人」の話をしたら、自分の認識が世界を作っているというところにまで会話が発展しました。これって間違ったことは言ってないと思うんです。だって自分の認識がないと「我々」も存在しなくなってしまうのですから。

回を追うごとに思考は深みにはまっていきます。思考にゴールはあるのでしょうか。次回の『死の恐怖』についての会話にも乞うご期待ください。

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