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アンダラ伝説

びーむ完成版

アンダラ伝説
 乃木坂46 アンダーライブ セカンド・シーズン
 2014.10.05 – 2014.10.19

01 Overture


「それでは 発表します」

 その時 井上小百合は思い出していた。

「2017年 第59回 日本レコード大賞は…」

 まりか ひめたん ねねちゃん せいたん らりん…
 ここにいない仲間たちのこと。

「乃木坂46!」

 そして 彼女たちと過ごした あの あまりにも特別な日々を。
 アンダーライブ 2ndシーズンのことを。

「インフルエンサー!!」

 どよめきが鳴りやまない会場。歓喜に沸きかえるメンバー。
 その中で、井上はひとり身じろぎもせず思っていた。

 ああ
 できることなら あの頃の私たちに伝えてあげたい。

 ずっとずっと先のことだけど
 こんな素敵な出来事が待っているよ…って。

 真夜中に台風の中を歩くような かすかな光も見えない毎日の中で
 ボロボロになりながら それでも必死に 明日に向かって手を伸ばし続けた
 あの頃の私たちに。

「やった!やったよさゆちゃん!」

 新内眞衣が泣きながら抱きついてきて、井上はようやく我に返った。
 心ここにあらずという表情の井上を見て、新内がいつもの調子を取り戻した。
「ほら、しっかり!立って、ステージに上がらなきゃ!」と手を引く。

 自分も泣いているくせに急にお姉さんぶる彼女の姿に、ふっと井上の頬が緩む。

「…うん」

 そして穏やかな笑みを浮かべた井上は、まっすぐに前を見つめ呟いた。

「行こう」

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 2014年 秋。

「18公演!?」
 レッスン場に、メンバーの悲鳴が響き渡った。
「そう 今回のアンダーライブは2週間で18公演を行なうことになります」

 アンダーライブ 通称アンダラ。

 乃木坂46ではシングル曲の「選抜」(=歌唱メンバー)に「選ばれなかった」メンバーのことを「アンダー」と呼び、このアンダーメンバーのみで行なうライブがアンダラである。
 2014年春、8枚目シングル『気づいたら片想い』リリース時に初めて開催され、10枚目シングル『何度めの青空か?』のアンダラは「2ndシーズン」と銘打たれていた。

 白石麻衣や西野七瀬、生駒里奈のような選抜メンバーに比べ、彼女たちアンダーは圧倒的に知名度が低く、メディアに載る機会もほとんどない。そのためこの当時のアンダーにとって、アンダラはほとんど唯一といっていい、光のあたる場所だった。

「そんなにお客さん来てくれるかな…」
「絶対体力もたない…」

 不安げな表情でざわつくメンバーたちに対し、スタッフは告げる。
「ハードなスケジュールだけど、これはみんなへの期待の表れと考えてほしい」

「…そうだね 不安がっててもしょうがない」
 永島聖羅が、自分に言い聞かせるように呟いた。
 永島はアンダラが始まった時からずっとメンバーを引っ張る存在であり、一部では「アンダーのキャプテン」と呼ばれていた。
 そんな永島を見ながら井上は思う。らりん(永島)は凄いな。でも私は。

「やるしかないよ! 寧々も最後なんだし みんなでいいものを作ろう!」
 その声に、みな一斉に振り返った。

 視線の先にいる伊藤寧々はアンダラ最終日をもって卒業することが決まっていた。今もレッスン場で一番後ろの列で体育座りをしているような、その控えめで落ち着いた性格で誰からも愛された彼女。だからこそ、その決断はメンバーにもファンにも大きな衝撃を与えた。

「うん、寧々のためにも頑張ろう」
 彼女に近寄り、口々に言うメンバーたち。
「ありがとうみんな。私も精一杯頑張る」
 寧々も目を細め穏やかな微笑みを浮かべた。

 寧々の周りにできた人の輪を少し離れたところから眺めていた井上に、永島がそっと歩み寄った。
「小百合も、頼むぜ!センター」

「う…ん」
 そう言われて井上は自信なさげな表情で曖昧にうなずくことしかできなかった。

 そう、井上は次の10枚目シングルに収録されるアンダー曲『あの日 僕は咄嗟に嘘をついた』のセンターに指名されており、それはこれから始まるアンダラ2ndシーズンでも、いわば座長として中心的な役割を担うことを意味していた。

 しかし、井上は怖かった。

 伊藤万理華が、怖かったのだ。

 万理華は8枚目9枚目シングルのアンダラ(便宜上「1stシーズン」と呼ぶ)でセンターを務めた。彼女を中心としたライブはその熱量でファンの心を揺さぶり、数か月前には無料でも全然客を呼べなかったアンダラを「今、一番熱いライブ」と言われるまでにしていた。

 「アンダーの概念をぶっ壊す」と宣言し、そのしなやかなダンスと圧倒的な存在感で言葉通りにアンダーの地位を上げてみせた万理華。彼女は「アンダーのカリスマ」と絶賛され、アンダラを観たファンから絶大な信頼を勝ち得ていた。

 しかし、9枚目シングルで選抜に選ばれていた井上は、その熱いライブに参加していなかった。アンダーメンバーたちがステージ上で汗だくになりながらファンと向き合っていた頃、彼女は冠番組のスタジオで選抜メンバーのひとりとして、ひな壇の端に所在無げに座っていた。

 自分の無力さを噛みしめながら。

 9枚目シングル期間を通じ、井上の発言が冠番組でオンエアされることは一度もなかった。選抜に選ばれた喜びと、それをはるかに凌ぐ挫折。
それが、井上にとっての9枚目シングルだった。

 だから井上は思っていた。

 みんなが必死に闘っていた時そこにいなかった自分が、せっかく選抜されたのに何もできなかった自分が。
 真ん中で 万理華の前で踊っていいのか。

 いいわけがない。
 そんな資格 あるわけがない。

 井上は 万理華の目に恐怖すら感じていた。

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 心の中の恐怖を振り払うために井上ができるのは、ただひたすらに練習することだけだった。

 準備も佳境に入ったある日、井上はひとりレッスン場でダンスを踊っていた。かなり前から練習していたのであろう、全身汗びっしょりであった。

 不意にドアが開き、ヒョコっという感じで斉藤優里が入ってきた。

「あれぇ?さゆにゃん早いね」
「ゆったんこそ」
 振り向きながら答える井上に対し、なぜか照れくさそうな表情で
「や~ケガで出遅れちゃったから不安で」と優里が答える。

 彼女は神宮球場でのライブでステージ上の階段から転げ落ち、両足を捻挫していた。

「足は大丈夫なの?」
「う~ん 正直まだちょっと。でもこれ以上休んだら本当に間に合わないから」
 その天真爛漫な明るさと独特のハイトーンボイス、そして短い手を元気に振り回して踊る愛らしい姿でいつも周囲を(とりわけ鈴木絢音を)笑顔にする優里が、珍しく深刻な表情を見せた。

 優里だけではなかった。夏のツアーで両太ももを肉離れしていた齋藤飛鳥や右腕を痛めていた山崎怜奈など、他にもケガや体調不良を抱えるメンバーは多かった。全国ツアーから初の神宮球場ライブという夏のハードスケジュールが、確実にメンバーの身体に疲労の跡を残していた。

 そして井上も、両足に痛みを抱えていた。
 2ndシーズンのテーマであった激しいダンスに、幼いころから故障がちであった彼女の足は悲鳴を上げていた。

 それでも井上はがむしゃらに練習を続けた。恐怖から逃れるために練習し、すればするほど痛みは増した。やがて彼女の故障は周囲の目にも明らかなものとなった。

 痛みに唇を噛み、脂汗をにじませながら踊り続ける井上の姿を見かねた幾人かのメンバーが彼女を気遣う言葉を発する。しかし、それすら井上の耳には届かないようだった。

 やるしかない。やらなきゃ。やらなきゃ。

 心配そうな表情で自分を見るメンバーたちに見向きもせず、井上は鏡に向かって一心不乱に踊り続けた。

 気がつけば井上は勝手に自分を追いこんで、ひとり 恐怖と痛みに震えていた。

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 2014年10月5日 六本木ブルーシアター アンダーライブ2ndシーズン初日。

 開演前の客席は、初日特有の期待と興奮が渦巻いていた。キャパ800と決して大きくはないブルーシアターだが、チケットは全公演完売。1stシーズンのアンダラがどれほどファンの間で評判を呼んだか、ここからも窺い知ることができる。

 控室のメンバーも、期待と興奮、そしてそれ以上の不安に包まれていた。
 それを振り払うように、全員で円陣を組む。

「せーの!」永島の号令に、
「努力!感謝!笑顔!うちらは乃木坂上り坂!」
「フォーティー シーックス!」
 叫びながら手を上にあげるメンバーたち。

 談笑するもの、緊張に震えるもの。思い思いに控室から舞台袖に向かうメンバーたち。
 中でもひときわ不安そうな顔をする井上に、永島が歩きながら声をかけた。
「そんな泣きそうな顔しない!」満面の笑顔を作り、
「大丈夫。みんなで支えるから、小百合は真ん中で堂々と踊ってりゃいいの!」
 この永島の言葉に、周囲で聞いていたメンバーたちがうなずく。
「うん…頑張る」
 それでも井上は弱々しく微笑むのが精いっぱいだった。

 会場の照明が消えた。
 ウォーッという大歓声が巻き起こり、それに被さるように流れ始める『Overture』。

 舞台袖で井上は胸に手を当て、緊張でこわばった顔で深呼吸していた。
 手の震えが、止まらない。

 オイ!オイ!
 『Overture』に合わせ、サイリウムを振り上げながらコールするファン。加速度的に高まるボルテージ。

 メンバーたちが舞台袖から出て、幕の後ろでスタンバイ位置につく。

 井上が目を閉じて最後の集中をしようとしたその時。
 震える彼女の左手に何かが触れた。

 万理華が、井上の手を握っていた。

 ハッと顔を上げた井上に対し、万理華は正面を向いたまま、かすかにうなずいた。

「…うん」井上の目が潤む。

 そして井上は強く強く、万理華の手を握り返した。

 『Overture』が終わり、ファンからウオォォォーーーー!!と怒号のような歓声が上がる。

 まっすぐに前を見つめた井上の瞳には、凛とした光が宿っていた。

「行こう」

 そして あの あまりにも特別な2週間の幕が上がろうとしていた。


02 あの日 僕は咄嗟に嘘をついた


 音もなく幕が上がり、流れ始めたのは『あの日 僕は咄嗟に嘘をついた』の美しいイントロ。アンダラ2ndシーズンのテーマ曲と言うべき楽曲である。

 あ~この曲、好きすぎる!
 踊りながら、斉藤優里は思った。
 初めて聴いた時から、優里はこの曲のすべてが大好きだった。

 抒情的で美しいメロディライン。

 ドラマチックでありながら抑制の効いたアレンジ。

 失くしてしまったもの、二度と取り戻せないものへの身を切るような後悔を感じながら、それでも胸の内に残るものを抱いて生きていく決意。切なくて悲しくて、それでもどこか希望を感じさせる歌詞。

 そしてダンス。
 翻るスカートに感情の流れを乗せ、どこまでも可憐で美しく。収縮と拡散を繰り返すフォーメーションの中、ひとつになった瞬間に放出される眩いばかりのエネルギー。
 強い意志を感じさせつつも、儚くて切なくて胸が締め付けられる。そんな、乃木坂が乃木坂であることを証明するようなダンス。

 時が過ぎて初めて気づくことがある。

 3年半後、記念すべき20枚目のシングル『シンクロニシティ』で乃木坂のダンスはひとつの到達点へと至った。超絶テクニックでも超ハイスピードでもない、ただわけもなく涙があふれるような美しさ。
 生駒里奈がMV(ミュージックビデオ)を見て「ああ…乃木坂だ」と呟いたそのダンス。そこで結実する要素の片鱗が『咄嗟』には確かに存在していた。

 MVの出来も評判を呼んだ。
 映画『櫻の園』をモチーフにしたストーリーで、女子校の演劇部を舞台に、役に選ばれた者と選ばれず裏方に回る者、それぞれの葛藤と揺れ動く思いが情緒あふれる映像で描き出された。その内容は10枚目シングルで選抜に「選ばれなかった」彼女たちにとって、残酷なほど現実と重なるものだった。

 齋藤飛鳥演ずる「選ばれし者」は劇中で主役に抜擢され、重いプレッシャーと「選ばれざる者」たちへの気遣いで苦悩し逃げ出そうとする。しかし「選ばれざる者」たちの説得によりステージに戻り見事に大役を果たす。

 「選ばれざる者」を演じたのは万理華と井上のふたり。悔しさをにじませながら平静を装う万理華。自身の悔しさを押し殺して、明るく万理華に寄り添おうとする井上。踏みにじられたプライド、与えられた場所で最善を尽くそうという意地と心意気、それでも割り切れない思い。見えない未来。

 私だって、選んでさえもらえたら、きっと。

 夕暮れの屋上で涙する万理華をそっと後ろから抱き締める井上。ふたりの瑞々しい演技が、彼女たちの置かれた現実と重なって観る者の胸に迫り、このクライマックスシーンは乃木坂の全MV中でも屈指の名場面と称される。

 この話には続きがある。

 「選ばれし者」を演じた飛鳥は2年後の夏、15枚目シングル『裸足でSummer』のセンターに抜擢され、一気に名実ともに乃木坂の中心人物のひとりとなった。
 その同じシングルで、「選ばれざる者」井上と万理華は揃ってアンダーに落ちる。ふたりに与えられたのは『行くあてのない僕たち』という楽曲であり、この曲のタイトルと歌詞を見たふたりは「何年も必死で頑張ってきたのに、まだ私たちには行くあてがないのか」と号泣したという。

 恐ろしいほどのシンクロ。すべては2年前から決まっていたとでもいうのか。現実とは、そこまで残酷なものなのか。

 そして『行くあて』のために30分に及ぶショートムービーが作成される。そこで描かれたのは前作と同じ湯浅弘章監督による『咄嗟』MVの続編。2年後の世界で今なお苦悩と葛藤を続けるかつての「選ばれざる者」たちの姿であった。ふたりがあの屋上を再び訪れるシーンで、多くのファンが時の流れに涙した。

 『行くあて』、そしてこの後の井上と万理華の闘いの日々について語るべきことは山ほどある。山崎怜奈ならば夜明けまで語ってくれることであろうが、ここでは話を2014年の秋に戻そう。

 優里は思う。
 あの屋上のシーンは泣くよなぁ。
 
 だからこそ。
 どこかギクシャクしている井上と万理華を見るのは辛かった。

 井上は明らかに選抜から落ちてきてセンターに指名されたことに引け目を感じ、またアンダラ1stシーズンに参加していない自分のパフォーマンスに不安を感じていた。

 優里には井上の気持ちが痛いほどわかった。
 彼女自身、デビューから3枚のシングルは連続して選抜されたものの4枚目でアンダーとなり、5枚目のアンダー曲『13日の金曜日』のセンターに任命されるという経験をしていた。そして、井上同様に9枚目シングルで選抜され、アンダラ1stシーズンに参加していなかった。

 あたしも『13金』の時に感じた申し訳なさは忘れられないな~。ましてや当時と違ってアンダラの座長でもあるから、かかる責任もファンの期待も段違いだもんね。そりゃ怖いよ。

 でもね、さゆにゃん。
 自分のセンター曲って、宝物だよ。
 大事な大事な、宝物になるよ。
 迷ったことも苦しんだことも含めて、忘れられない思い出になるから。
 こんな素敵な曲のセンターだなんて、あんた幸せもんだよ。

 葛藤と不安を抱える井上に対し、万理華はアンダラ1stシーズンでの堂々たるセンターぶりで「アンダーのカリスマ」と称され確かな自信を手にした。

 はずだった。

 ネット配信番組『のぎ天』における「アンダーライブ前に精神修行をしよう」という企画の中で、修行の締めくくりとして滝行の立候補者が募られた時。敢然と手を上げた井上に対し、万理華は迷いながらも立候補することができなかった。

 井上は自らに言い聞かせるように「10枚目アンダー曲で真ん中に立たせていただくので責任を持って頑張りたい」と発言した。突然のアンダーセンター発表にネット上でファンがどよめく。
 その陰で万理華は自分を責め、番組の最後で「引っ張っていく存在として期待してもらっているのにまだそういう存在になれず、こういう場面で前に出れない自分が不甲斐ない」と言いながら泣いた。

 誰もが羨む溢れる才能を持ち、それを自覚しながらも、万理華は自分を100%信じることができなかった。それには少し彼女は賢すぎたし、優しすぎた。

 しかし今、目の前で指の先まで美しいターンを決める万理華を見て優里は思う。
 ステージ上の万理華はすごい。本当にすごいよ。
 もう、とっくにみんなを引っ張っていく存在になっている。メンバー全員がそれを認めてる。だから、もっと堂々と「私についてこい」って、言っていいんだよ。

 井上と万理華。互いに相手の気持ちを気遣うがゆえに遠慮しあい、すれ違っていたふたり。

 そのふたりが、幕が上がる寸前、固く手を握りあっていた。
 その姿に、優里は鳥肌が立ち涙が出そうになった。

 最後のサビに入り、並んで踊る井上と万理華。井上の背中に、もう迷いはない。

 曲の最後、全員で空に手を差し伸べ、振り下ろしながら胸の前で握る。

 『咄嗟』の中で何度も繰り返される振り付け。

 何かを象徴するような、この振り付け。

 大丈夫。
 これでもう、大丈夫だ。
 そう、優里は思った。

 だが、もちろんこれで大丈夫なはずがなかった。

 この時の優里はまだ知らない。

 自分の大切な宝物『13日の金曜日』よりも『咄嗟』の方が好きになってしまうこと。
 あまりにもこの曲が好きすぎて、この年の年末に有明コロシアムで盛大に悔し涙を流す羽目になることを。

 この時は、まだ誰も知らない。

 これから始まるアンダラ2ndシーズンが、想像を絶する過酷な日々になること。

 そして『咄嗟』が、このあまりにも特別な2週間のすべてを象徴する曲として、またアンダラのアンセムとして人々の心に深く刻まれ、この先もずっと高らかに鳴り響いていくことを。


03 狼に口笛を


 初日の公演が終わった。
 ブルーシアターから吐き出されたファンが興奮した面持ちで鳥居坂を歩く。

「アンダー、すげえな!」
「マジで熱すぎる…」
「お立ち台にあしゅ(齋藤飛鳥)が来た時、可愛すぎて直視できなかった」

 ライブを観たファンによる称賛の声がネットに書き込まれ、またたく間に駆けめぐる。
 アンダラが持つ熱量が、早くもファンに伝播していた。

 しかしその同じ頃、控室で永島聖羅は顔色を失っていた。

 故障や夏の疲れを抱えたメンバーがいるのは始めから分かっていた。山崎怜奈は右腕の故障が癒えず、初日から欠席していた。いきなり昼夜2公演というタフなスタートでもあった。

 それにしても。

 初日でこれは、ヤバすぎる。

 疲労で立ち上がれないもの、アイシングをするもの。センター井上の両膝も明らかに状態が悪く、今もトレーナーの手当てを受けている。
 早くも疲労困憊のメンバーたちがそこにいた。

 永島はなんとか笑顔を作り、うなだれて椅子に座っている北野日奈子に近づいた。
「日奈子、具合はどう?」
 北野は夜公演中に気分が悪くなり途中で退場していた。

「すいません、らりん(永島)さん…」泣きはらした目で答える北野。
「謝んなくていいから。今日はすぐ帰って、ちゃんと水分と栄養とってから寝なさいね」
「はい…」

 永島は噛みしめるように思う。
 やっぱり、自分たちが中心だと全然違う。
 頭も身体もめっちゃしんどい。

 ライブなら何度もこなしてきた。この年の夏は神宮球場で3万人の観客の前に立った。
 それでも。
 それはあくまでも乃木坂の「全体ライブ」の話であった。

 乃木坂のライブは通常、開催時点での選抜メンバーが中心となる。選抜メンバーだけで披露される曲が多く、全員が登場する場合でもアンダーメンバーは後方で踊っていることがほとんどである。ユニット曲への参加も少ないため、選抜メンバーと比較して負担が少ない。
 それはすなわち目立った活躍の場がないということであり、せっかくチケットを取ってライブに来てくれた自分のファンに対し申し訳ないと感じるアンダーメンバーも多かった。

 何より辛いのは、自分の目の前にいる観客が、自分を見てくれないことだった。

 大会場におけるライブで、メインステージから伸びる花道を全力で走りファンの近くまで行き笑顔で手を振っても、「この子、誰?」という顔をされる。ひどい場合には見ているのは自分ではなくモニターの画面。こんな近くにいる自分が無視され、遠くの映像を見られるという屈辱。
 乃木坂のライブなのに。私は、乃木坂じゃないのか。

 だからこそ、アンダラ2ndシーズンでメンバーは「全員出ずっぱりの踊りまくり」の構成を選択した。モニターではなく自分たちを見てくれるファンの前で、全力で歌い全力で踊る。これまでの感謝を込めて。スポットライトが当たる喜びを噛みしめて。

 たとえその代償が、想像を超える心身への負荷だとしても。

「みんなお疲れさま!体調悪いメンバーもほんと良く頑張った!台風来てるらしいから、早く着替えて帰ろう!」

「は~い…」
 永島の声に促され、メンバーたちが顔を上げ動き出す。

 その表情を見て永島は自分に言い聞かせる。
 大丈夫だ、みんな目は死んでない。
 しんどいけど、どんなにしんどくても、あの頃のことを思えば頑張れる。

 あの頃。
 乃木坂のアンダーはかつて、無職と同義だった。

 今でこそメディアで見ない日はない乃木坂だが、グループの知名度が上がるのにはかなりの時間がかかった。アンダラ2nd当時、白石麻衣などごく一部のメンバーを除き個人での仕事はほぼなかった。

 そのうえ、アンダーは『乃木坂って、どこ?』『NOGIBINGO!』といった冠番組にさえほとんど出演の機会がなかった。シングル表題曲の歌唱メンバーではないのだから、歌番組にも出演できない。
 グループの仕事に呼ばれない。個人の仕事はもちろんない。川後陽菜がかつて語ったように、活躍する選抜メンバーを見て「乃木坂さん…いいなぁ」と呟くことしかできない日々。アピールしようにも、握手会と公式ブログぐらいしか方法がないが、そのどちらもファンの側が「そのメンバーを選んで来る」場所。

 アンダーだからメディアへの露出がなく、露出がないので人気が上がらず、人気が上がらないので選抜になれない。シンプルで残酷な負のループ。
 何をどう頑張ればいいのか、わからない。
 誰か私に教えて。

 永島自身、選抜の壁にぶちあたり、苦しみ続けた。

 ニックネームは「超絶かわいい仏の永さん」。
 この名が端的に示すように、彼女のイメージは明るく元気。友達っぽく、親しみやすいサバサバした性格、大声、汗かき、はじけるような笑顔の全力系女子。男女問わず好かれるクラスの人気者。体育祭で応援団をやるのが似合うタイプ(事実、中学生の時は応援団長だったという)。

 しかしそんな彼女の魅力は、清楚で控えめでどこか陰があるという乃木坂のイメージと正反対のものであった。さらに言えば絶大な人気を誇る西野七瀬の持つ儚さや彼女感、守ってあげたい感の対極の存在。

 彼女の個性とグループ全体の雰囲気が噛みあわず、「グループに必要な存在」として認識はされつつもなかなか「自分のファン」を増やせない。
 5枚目シングル『君の名は希望』で一度は選抜入りしたものの、それ以外はすべてアンダー。
 選抜が、遠い。

 悩み、苦しみ、もがく毎日。

 そんな真っ暗闇の日々に差す一筋の光が、アンダーライブだった。
 しかしそれは「一度こけたら、それで終わり」というプレッシャーとのギリギリの戦いの始まりでもあった。

 アンダラ1stシーズンはその始めから苦難の連続だった。

 初開催は2014年4月13日、幕張メッセにおける全国握手会の後に行なわれた。楽天カードで一定額の買い物をしたユーザーを無料招待するという、楽天カードの販促イベント。いや、当時のアンダラの訴求力を考えると、率直に言って楽天の厚意によるイベント。
 しかし、無料にも関わらず観客を呼べなかった。
 全国握手会後、すなわち乃木坂ファンが何千人も集結していたのに、多くのファンはアンダラを観ずに帰宅した。
 それが現実だった。

 やっと掴んだかすかな光が、早くも消えかかる。

 続くGW中の渋谷O-EASTにおけるアンダラ。握手券3枚と引き換えにライブチケットの抽選に応募できるという仕組み。しかし、募集を締め切られた時点でスタッフからメンバーに告げられた言葉は「まったく、埋まっていない」だった。

 無理もない。
 落ちるかもしれない抽選に応募するより、3回握手した方がいい。
 そう思うファンが、大多数だった。
 アンダーメンバーのファンをして、そうだった。いわんや、それ以外のファンをや。

 メンバーの懇願により2次募集が決定。そして中田花奈を始めとしたメンバーたちがブログで必死に訴える。「アンダラ、埋まってないらしいです」「埋まっていない座席を見るのは怖いです」「後悔させません、観に来てください」

 これにようやくファンが応える。結果としてO-EASTは埋まり、呼びかけに応えてくれたファンへの感謝を胸にメンバーが熱く、楽しいライブを繰り広げる。
 辛い時期も応援してくれたファンに恩返しをしたいと願うメンバーと、現状を変えようと必死に抗うアンダーを支えたいと願うファン。

 確かな絆が、ここで生まれた。

 続く6月7月にはイベントではなく有料チケットによるライブが開催。ついにアンダラの商品価値が試される時が来た。「埋まるとは思えない」そう不安がるメンバーもいたが、心配は無用だった。
 追加公演まで含め、すべて完売。

 わずか3か月で、アンダラはファンの心を掴んだのだ。

 この間、陰に日向に奮闘を続けメンバーをまとめた永島を、いつしかファンは「アンダーのキャプテン」と呼ぶようになっていた。

 1stシーズンの成功により、なんとかこぎつけた2ndシーズン開催。しかしそのスタートにおいても、勢いに水を差すような発表があった。

 「楽天カード、新規ご入会のお客様を前方席にご招待」。なんと、最前列と2列目が楽天カードの販促イベント用の席として使われたのである。一番近い場所にいる観客が、たまたま当選したから来る一見さんかもしれない。
 重ねて言うが、楽天側から見れば厚意によるイベントであろう。しかしずっとアンダーを応援してきたファンからすれば、「彼女たちの大切な晴れ舞台を安売りされた」「ろくに曲も知らないような奴が一番いい席に座るのか」ということになる。運営は、まだアンダラの商品価値をそこまで高く評価していないのか。そう思わされる出来事だった。

 控室の永島は思う。
 何度も崖っぷちを乗り越えてここまで来たんだ。
 ボーッとしてる暇はない。今、やれることをやらなきゃ。

「すいません、今日の映像、家で観たいんですぐディスクに焼いてもらえますか?」
 撮影していたスタッフに伝えてから、永島はメンバーに向け大声で叫んだ。
「今日中にそれぞれの修正点をメールしとくから、必ず朝イチに確認してね!」

「りょうか~い」
「ありがと~!」

 皆の返事に笑顔で応えながら、川村真洋に耳打ちする。
「ろってぃー(川村)は必ず全員分読んで、明日会場入りしてからみんなの修正をサポートしてあげて」
「オッケー、まかしといて」ニカっと笑い、
「でも、らりんも無理せんと早く寝なよ?」と気遣う川村。
 上京当時に1か月間相部屋だったふたりは阿吽の呼吸だった。

 川村は「乃木坂のダンス番長」と呼ばれ、グループ随一のダンススキルを誇る。

 しかし彼女は、浮いていた。
 決してダンス重視のグループではないうえに、ダンス経験者も少なかった乃木坂。
 そのグループの中で、彼女のスキルを十二分に活かす場はほとんどなかった。それだけでなく、周囲より明らかに上手いそれは時に、観る者に「自己中心的なダンス」という印象すら与えた。
 永島と同様に、自分の長所だったはずのものが、乃木坂内ではむしろマイナスに働くというジレンマを抱えていたのだ。

 そのふたりが、ついに見つけた自分のすべてを叩きつけられる場所。
 それがアンダーライブだった。

 永島は持ち前のキャプテンシーでメンバーをまとめ、ラジオで鍛えたMC力で場を仕切る。

 川村はレッスン場でダンスが得意でないメンバーに手取り足取り教え、ステージ上では水を得た魚のように踊りまくった。

 永島と川村。
 同じジレンマを抱えてきたふたり。

 ふたりはついに、輝ける場所を手に入れた。

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 帰宅した永島はすぐにスタッフが焼いてくれた当日のライブ映像をプレイヤーにセットした。
手元のメモが、あっという間に気になる点で埋まっていく。

「ここの入り、タイミングが合ってない…」
「列がまっすぐに並べてない…」
「MC中に気の抜けた顔してる子がいる…」
「ここに立っててもお客さんからは顔が見えないんだ…」
「日奈子が抜けた時、ひとりずれてれば…でもそうすると…」
 全体的な注意点。

「小百合、ジャンプの着地がキツそうだ…お願いだから無理に高く跳ばないで…」
「飛鳥、この曲はちょっと気合いが入ってないな…」
「花奈のMCが長すぎる…のはいつものことか…」
「日奈子、抜けるギリギリまで笑顔で頑張ってる…これは褒めてやんなきゃ…」
 ひとりひとりの細かな動きや表情まで。

「ああ!なんであたしこんな顔してるの!力みすぎ!」
「ヤバいあたしこの曲全然踊れてない…明日ろってぃーに見てもらわないと…」
 自分のことは一番最後だ。

 夜が更けてゆく。疲れていないわけがない。

 それでも永島は何度も繰り返し映像を確認し、注意事項を書きだしてゆく。

 「アンダーのキャプテン」。そう呼ばれることに抵抗があった。

 周囲に必要とされることは素直に嬉しいし誇らしい。だが、「アンダーに必要」はすなわち、「選抜に呼ばれない」ことにならないか。アンダラ1stを必死の思いで成功させ、2ndシーズン開催につないだ。それが皮肉にも、「アンダラ成功に不可欠」なメンバーの選抜入りを妨げているのではないか。

 アンダーに必要、じゃなくて。
 乃木坂に必要、と言われたい。
 そう、思い悩んだこともあった。

 なんでここまで頑張るのか。
 なんでここまでやらなきゃいけないのか。
 アンダラが成功しても、それが何になるのか。
 そんな疑問が今も頭に浮かんでは消えてゆく。

 でも。
 言葉にできない何かが、この時の永島を突き動かしていた。

 何が得で何が損か、そんなことわからない。
 理由なんて後から考えればいい。
 今やらなきゃ、必ず後悔する。
 心が燃えてるんだ。心が命ずるまま、死ぬ気でやるだけだ。

 深夜の映像確認は2ndシーズンの期間中ずっと続いた。

 2ndシーズンを実際に観たファンの多くが、尊敬と感謝を込めて彼女についてこう語る。

「あの時期のアンダラを支えたのは間違いなく、超絶かわいい仏の永さんだよ」

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 関東に台風が接近していた。

 そして乃木坂にも、未曾有の台風が近づいていた。


04 音が出ないギター


 2期生の伊藤かりんは、アンダラ2ndシーズンが楽しくて仕方なかった。

 2013年3月に加入し、2014年8月に正規メンバーに昇格した彼女。
 『咄嗟』で初めて自分の歌声がCDになった。
 また、研究生という立場で一部の曲にだけ参加していた1stシーズンとは違い、正規メンバーとして迎えた2ndシーズンはほとんどの曲でステージに上がっていた。

 彼女もまた、ステージに立てる喜びを全身で感じていた。喜びが溢れすぎ、勢い余って「ゴリラ界の天使」というありがたくないニックネームを頂戴したほどである。本人の名誉のため補足すると、小さな体をめいっぱい使って踊る彼女の姿があまりにもパワフルで印象的だったのがその由来である。

 楽しいだけじゃない。今回のライブは、凄すぎる。
 自身が大の乃木坂ファンでもあるかりんは、2ndシーズンに並々ならぬ手ごたえを感じていた。

 まず何といっても、フロント3人の無敵感。

 センター井上、カリスマ万理華、エース飛鳥。
 3者3様の個性を持ちながら、ビジュアル、アイドル性、可憐なダンス、可愛らしい声とすべてがハイレベル。どこに出しても恥ずかしくない、破壊力抜群のフロント。

 そう、飛鳥は1期生最年少ながらこの時すでにアンダーのエース格だった。
 あの愛らしい顔から繰り出される「おら、お前らもっと声出せぇ!」という毒舌煽りにやられるファンが続出し、アンダラ1stシーズンで会場人気が爆発。
 勢いそのままに、2ndシーズン時点ではメンバー生写真のトレーディングレートも圧倒的一番人気。当時を知るファンによれば「飛鳥の写真があれば、なんでも自分の希望するメンバーが手に入った」そうである。

 もちろん、3人だけではない。
 メンバーそれぞれの良さを引き出せるよう、全員で一生懸命考えたセットリスト。

 王道アイドルをストイックに追求する「ひめたん」こと中元日芽香のキラキラした魅力が爆発する『ガールズルール』。
 ダンス番長・川村真洋が長い髪を振り乱してダイナミックに踊る『制服のマネキン』。
 2期生は自分たちにとってのはじまりの曲『バレッタ』を特別な思いを込め歌う。
 そして去りゆく友、伊藤寧々を皆で囲みながら歌う『失いたくないから』。

 ライブ中盤では「3分MC」と銘打って、各公演ひとりのメンバーが3分間ステージを任されるコーナーもあった。特技を披露する者、フリートークで盛り上げる者…ファンに向き合い、自分を伝えようとするメンバーたち。かつて『16人のプリンシパル』で、たった1分間の自己PRがうまくできずに毎日泣いていた頃が嘘のような成長ぶりである。

 会場全体を巻き込んだ熱気も異常なほどだった。

 「清楚で可憐」そんな乃木坂のイメージをかなぐり捨て、汗だくになって踊る。
 ライブ後半には通路に設置されたお立ち台にメンバーが登場し、手が届くほどの至近距離からファンを煽りまくる。

 ステージから発せられる熱量にファンが呼応し、それを見たメンバーたちがさらに力を振り絞る。
 まさにメンバーとファンの真っ向勝負。

 すべての曲が見どころで、メンバー個々の魅力満載、そしてひたすらに熱い。
 それがアンダラ2ndシーズンだった。

 この時のアンダーはフロント3人とキャプテン永島を軸にガチッとまとまり、まさに一枚岩となって闘っていた。

 彼女たちの思いを理解するには、改めて当時の状況を振り返る必要がある。

 2014年秋、乃木坂46は重要な局面を迎えていた。
 デビュー3年目に入り、少しずつ着実にグループの人気は上がっていた。シングルの売り上げは50万枚を突破し、神宮球場での3万人ライブも成功。かつて遠い夢だった紅白歌合戦初出場が、現実的な目標として手の届くところまできていた。

 しかしグループが大きくなる過程で選抜メンバーの固定化が進み、アンダーとの格差は拡がる一方であった。その暗闇に差す一筋の光がアンダーライブであり、何度も崖っぷちを乗り越えながら1stシーズンを成功させたことは既に述べた。

 そんな中、発表された10枚目シングルの選抜メンバー。

 ただのシングルではない。

 記念すべき10枚目。『君の名は希望』を超える新たな代表作として、そして紅白出場の決定打となるべく制作されたシングルはスケールの大きなバラード。総合プロデューサー秋元康が「神曲」と断言したその曲のタイトルは『何度目の青空か?』。
 さらにかねてより待望論の強かった、秘蔵っ子生田絵梨花を初めてセンターに起用。

 乃木坂運営の大勝負。まさに、この時点で出せる最強のカードを切ってきた。

 その特別な10枚目シングルで選抜に入れなかった。
 それが意味することをアンダーメンバーは噛みしめていた。

 現時点で運営が想定するベストメンバーに、自分は入っていない。
 それが、彼女たちにつきつけられた現実だった。

 10枚目の選抜発表放送直後のアンダーメンバーのブログには異口同音に「これからも必死で頑張りますからどうか支えてください」という言葉が並ぶ。
 今にも折れてしまいそうな心をギリギリのところで奮い立たせるメンバーたち。1stシーズン成功の後だっただけに、なおさら彼女たちの絶望は深かった。

 しかし2ndシーズン開催決定とともに、彼女たちは新たな闘志を燃やして立ち上がる。

 負けてたまるか。
 このまま終わってたまるか。

 私たちは2軍なんかじゃない。
 2ndシーズンを何としてでも成功させ、それを証明してみせる。

 そして
 自分と アンダーと 乃木坂の
 未来を変えてやる。

 そんな反骨心を胸に。

 逆に言えば、それほど彼女たちは追い詰められていた。
 10枚目で選抜から漏れ、もし2ndシーズンまで失敗したら、本当に自分は「乃木坂にいらない存在」になってしまうのではないかという恐怖心。

 自分の価値を、他でもない自分に対して証明するため。
 こんな自分を信じてずっと応援してくれる、ファンのためにも。
 彼女たちは2ndシーズンにおのれのすべてを懸け、必死に闘っていた。

 しかし、かりんは日々上がっていく会場のボルテージに不安を覚えていた。

 明らかなオーバーペース。いや、15日間18公演なんてスケジュール、誰も経験したことがない。ペース配分なんてわからない。
 でも、ステージに立ちファンの顔を見ると、全力以上を振り絞ってしまう。
 自分の体力には自信があったが、それでもスタートして数日でかなりの疲労を感じるようになっていた。ましてや故障や体力面での不安を抱えるメンバーもいるのだ。

 こんな状態で最終日までもつのか。

 もつわけがない。
 でも、止まれない。

 そう遠くない崩壊の予感に怯えながらも、かりんにできるのは日々全力を尽くすことだけだった。

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 そんな彼女の不安が的中したのは10月7日のことだった。

 ライブ中に、井上の痛めていた足が限界を超えた。

 自分の身体を支えられなくなり、真後ろに倒れる。
 スローモーションのようにゆっくりと崩れ落ちる井上。

 あっ…ヤバい!
 かりんがそう思った瞬間。

 四方からぶわっとメンバーの手が伸び、井上の身体をすんでの所で受け止めた。

 綺麗だな…
 大きな花が咲いたみたい。

 井上を中心にメンバーの衣装が広がる光景に、一瞬かりんはそう思った。

 いや違う!さゆちゃん!大丈夫!?

 曲が流れ続ける中、井上は足を引きずりながら舞台袖に退いていった。

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 終演後の控室で井上がメンバーに向かって告げた。

「みんな、ごめん…明日からの公演をお休みさせてもらいます」

 ぐっと口をつぐんで目を伏せる万理華。
 口を半開きにしたまま虚ろな目で井上を眺める飛鳥。
 センター不在の非常事態。その衝撃に黙り込むメンバーたち。

 この日の夜、公式ホームページ上に「井上小百合アンダーライブ欠席のお知らせ」が掲載された。


 そして、それとほぼ時を同じくして、週刊文春がネット上でひとつの記事を公開する。

 松村沙友理のスキャンダル。

 乃木坂史上最悪の日々が、始まった。


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