「普通」の中の多様性 - 社会課題に主婦のわたしが向き合える?-(前編)
こんにちは!スタッフの青山(仮名)です。
2023年の4月から、業務委託スタッフとしてRootsプロジェクトに携わっています。
Rootsプロジェクトに入る前、”外国”とのつながりは、日常の中にありませんでした(と思っていました)。
そんな私がSNSで見かけた一つの記事から繋がった、
外国ルーツを持つ生徒との出会い。
不安ながらも踏み出しながら見つけた意外にたくさんあった彼・彼女らと私の共通点、そしてこの半年間接する中で生まれた自分の中の変化を文字にしました。
前編:社会課題に主婦のわたしが向き合える?(本記事)
後編:声が届く社会を作りたい
と少し長編になりますが、しばしお付き合いください💭
私のプロフィール、普通のわたしに何ができる?
43歳・共働き・ 母・会社員
夫と、2人の息子(大学2年と高3)
持ち家(住宅ローン返済中)
いわゆる「普通」の一般家庭。
高3の息子が志望校に合格したのが、数日前。
なんだか急激な空虚感。
なんだろう。
子どもが2人、高校卒業するまでの親の義務を果たしたという安堵感かもしれない。2人とも自宅から通える大学だし、学費は稼がないといけないし、これからも特段生活は変わらないのだけど。
思えば、これまでずっと子どもの成長に応じて、働きかたも働く場所も変えてきた。だから逆に子どもがすっかり成長した今、自分自身の変化を求めてるのかもしれない。
子育てが終わった主婦が、趣味やボランティア、習い事に勤しむ理由が少し分かった気がする。
わたしはこれから何をしよう?
仕事は好き、趣味もやりたいこともたくさんある。でもなにか違う。
普通のわたしに何ができる?
カタリバとの出会い
なんとなくSNSを眺めていて、カタリバの記事に目が止まりました。
どうやら、高校生をとりまくさまざまな社会課題に向き合う団体らしい。
同年代の子どもを持つ母親にとっては気になる話題。
社会問題というのはわたしにとってはニュースのひとつ。
実際に活動しているNPOやボランティアさんはすごいな、と
どこか他人事のこれまでの自分。
とありました。
子育てが一段落して、これまでの20年、
母としての経験を振り返ると、それはなんと楽しかったことか。そしてなんと辛かったことか。そこに頼れる誰かがいてくれたことで、どんなにか救われたことか。
たいそうなことはできないけど、もしわたしでも役に立つことがあるのならやってみたい、誰かの救いになりたい、いつかの、あのときの恩返しをしたいと思いました。
それがわたしのカタリバとの関わりのきっかけです。
募集記事からカタリバの説明会に参加、オンラインの面談を数回し、ご縁があって「外国ルーツの高校生支援プロジェクト」に参加しませんか、というお誘いが来ました。
ん?外国ルーツ?
わたし、英語は全然できないけど、、。
単語の聞き取りがせいぜい。
海外との関わりは、学生時代にアメリカで3週間の語学研修(という名の遊び)。卒業旅行と新婚旅行、くらいなもの。
勢いでやります!と言ってしまった。
襲ってくる不安。
わたしが持っているカードは、
・40年越えの人生経験
・子育て経験
・社会人経験(ワーママ経験?)
・教育に関わったのは、自分が受けた教育と、親として子どもたちと学校との関わり
これで戦えるのだろうか。
そんな心配をよそに少しずつリアルになる現場。最初の現場は、その年の卒業を祝うイベントでした。
卒業後の未来について高校生が語る姿は、私が思い描く「ガイコクジン」の想像は想像でしかないこと、子どもたちは息子と同じような10代で、1人1人がとても魅力的で、それを知るには十分な機会でした。
これはワクワクする仕事かもしれない。
はじまってみると、生徒の抱える課題はさまざま。
そして外国ルーツゆえの進路を考えていく上でのむずかしい問題。そんなことがあるの!?という驚きと戸惑いの連続。
その中での生徒との対話。どう受け止める?寄り添うとは?
彼・彼女たちを理解したいと思う。現行の制度や手続きについて勉強しても、みんなの出身の国の文化を勉強しても、なかなか子どもたちとの距離は近づかない。他に何ができるのだろう。
・・・高校生たちは今、どんな気持ちでいるんだろう?
同じ体験はできないけど、わたしの中の多様性の経験を絞り出して「想像」することはできるのかもしれない!
私は「多様性」をキーワードに、これまでの自分の人生をふりかえってみることをはじめました。
私の中にもあったマイノリティ性のこと
ケアしてほしかった、過去の自分
日本で多様性(ダイバーシティ)といえば、私は何となく、女性が活躍できる社会をまずイメージします。
40代半ばの子あり兼業主婦のリアルな現場はどんなものだったか。
出産後には、子どもが熱を出せば、ほぼ早退したり休むのは母親側。学校の保護者会や役員もほぼ母親の仕事で、有休は子どもの用事でほぼ潰れる。大事な仕事であってもときには休まなくてはならず、これだから女は、、と言われる。
なんとか取り戻そうと残業していれば「お母さんなのに、ご飯作らなくて大丈夫なの?」「子ども早く迎えに行ってやらないとかわいそう」と言われ、上司の奥さま(専業主婦)やお母様と比較され、家事育児についてご高説。
妊娠中・出産後の体調変化、女性ならではの体の不調などが重なったり、できないこともあった。女だからといって甘えている、男女平等というなら文句いうなと言われかねませんが、そこは理解して欲しかったんだなと、今ふりかえって思います。
わたしは「女性」の経験しかないので、それ以外の例えば男性ならではの辛さの体験は想像するよりほかありません。たとえ同じ女性であっても全く同様の体験ではないので、やはりそこも想像することしかできません。
「想像」することは、他者との違いを受け入れる、気遣う、思いやるために必要不可欠だと思います。でも、日常ではとてもむずかしい。特に自分が体験していないことには、きっかけがないと意識をむけることもむずかしいのだと、気づきました。
「自分だけ違うかもしれない」環境
私だけかもしれませんが、通い始めのスポーツジム、スタジオレッスンに緊張して入れないことがあります。入っても自分だけがうまく出来ない気がして、緊張とあいまって全く楽しめない。
その他にも慣れない場の集まりも同様です。自分だけが新参者だと、あれ、もしかしてわたし、なんかおかしいかな、と不意に襲われる不安。
「自分だけ違うかもしれない」にとらわれて、うまくいかないことが何度もありました。
自分が異質だと感じる場で日頃のパフォーマンスを発揮するというのは、なかなかできない。
外国にルーツを持つ高校生たちは、話をきいていると、周りの生徒と同じように振る舞うことを求められていると感じているようです。生まれてからずっと触れてきた言語や文化が通じない国に突然やってきて、思い通りに振る舞えないことは当たり前。でも、そうできない自分をずっと責めている。
周囲の期待に反発したいわけでも、これまでのやり方に固執しているわけでもないのかもしれない。何からはじめたらいいか迷子になっているだけなのかもしれない。そんな風に考えると、彼・彼女らの言動の意味が、違ってみえてきました。
自分の中の多様性から、「想像」を広げること
自分の中の多様性をめぐるだけでも、生徒と同じ思いを共有することに近づける気がしてきました。
自分では変えることのできないジェンダーのこと
慣れていない場所では本来の力は発揮できないという当たり前なこと
外国、というワードに不安を感じていただけで
自分の中にあることを振り返ると、外国ルーツの子ども若者が置かれた状況を想像するヒントはたくさんありました。
後編(公開中)では、「こんな社会になれば、彼らがもっと生きやすくなるのではないか」私なりに自分の過去と外国ルーツの高校生たちとかかわる中で見えてきたことを言葉にしてみました。
お読みくださり、ありがとうございます🌻