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隣人の壁ドンに悩まされている

  皆さんは「生活の術」という絵画をご存知だろうか。百聞は一見にしかず、実際に見てもらうと下のような絵画である。

現代アートというものは不可解なものが多いけれど、この作品も例に漏れず意味不明である。わたしが初めてこの作品を見た時は「稲中かな…?」と思ったし、生活の術というタイトルと絵画の内容の関係も一切わからず、見ていると煙にまかれているような気持ちになる。


  しかしわたしは最近、もしかしたらこの作品のタイトルとはこういう意味なのかもしれない…?と思うようなことがあった。それが壁ドンにまつわる一連の話である。



  ここで一旦時間軸が変わるのだが、わたしは2ヶ月前に現在の家に越してきてから現在までに壁ドンを通算4回受けた。

  はじめて壁ドンを受けたのは引っ越してきてから1週間も経った頃だっただろうか、荷解きもあらかた終わった昼下がり、一旦諸々の作業を休憩してゲームでもするかと布団に寝っ転がっていたときだった。わたしは友人と通話しながらゲームをするので、初めて壁ドンを受けた時は引っ越しの荷解きでバタバタしすぎたか、通話の音声が少し大きすぎたのかなと思って大して気にも留めなかった。なにしろ今わたしが住んでいる家の賃料は月3万5千円なのである、多少壁が薄いくらいは仕方のないことだろう。

  その後1ヶ月くらいは仕事も始まり、家にいる時間も少ないのでそんなことはついぞ忘れていた。問題は仕事を辞めてから今までの1ヶ月間である。わたしは1ヶ月前まで夜勤をしていたので最近でも朝の5時に目覚めてしまうことがある。そういう時、二度寝することもできないので、わたしはSwitchを起動してApexをはじめたりする。2回目の壁ドンを受けたのは、朝方に例の如くApexを起動していた時だ。

   いまの家に越してきてから、わたしは隣人の気配というものをほとんど感じたことがなかった。例えば生活していて必ず使う洗濯機やドライヤーの音とかもほとんど聞こえたことがなかったし、ということはわたしの生活音もほとんど聞こえていないはずなのだ。確かに日も昇らないうちからゲーム音を立てるというのは多少マナーが悪いかもしれないけれど、これくらいの音は多分聞こえないのじゃないかと計算できていたわたしはゲームの中で銃をバンバン撃ち、殺し合いに興じた。すると来たのである。2回目の壁ドンが。ドカンッゴガンッバンッ!!!というものすごい壁ドンはおそらくわたしだけでなくアパート中の人々を叩きおこし、こんな朝っぱらから一体誰が暴れ回っているのだろうかと首をかしげさせたに違いない。この時わたしは自分が家ガチャに失敗したことを悟ったのだった。




  けれど懲りない私は朝5時に目覚めてはゲームを起動するということをその後も数回やった。なにしろこれまで夕方7時に起きて朝の10時に眠りに落ちる生活をしていたのだから、夜に起きてしまうのはある程度仕方ないのだ。しかし2回目の壁ドンによって多少学んだ私はイヤフォンを刺すかゲーム音を半分にして流石にこれなら聞こえないだろうという音量を保つことした。けれどこの試みは失敗に終わった。3回目の壁ドンが来たのは確か夜通しスプラトゥーンをやっていた時だっただろうか。

このツイートをしたのが朝の4:49である。とんでもない時間に叩き起こされた隣人はまたもや私に渾身の壁ドンをかました。その勢いがあまりにもすごいので、わたしは「もしかして私の家の隣に住んでいるのは、人間ではなくて呪霊とか物の怪とか、そういう類の何かなんだろうか‥?」と思わざるを得なかった。どうやら私は知らぬ間に人ならざるものとの共同生活を始めていたらしい。まさかこんな音でも聞こえてるのか‥と凹んだ私は今度から夜中に起きてしまっても必ずイヤフォンを刺してゲームをしようと固く心に誓った。



  それにしてもこの隣人の不思議なところは、普段はほっとんど気配もせず、まるで静かに暮らしているところなのである。こんな些細な物音でとんでもない壁ドンをかましてくる人間と、普段の全く静かな暮らしぶりがつながらない。人間とは不思議なものである、という言葉の意味をまさかこんなところで実感するとは思わず、わたしは辟易した。こんなところではなくもう少し別なところで人間の神秘を感じたかったものである。

  そして先週の日曜日に私はまたしても例のドンドンドンッ!バンッ!ダンッ!という壁ドンを受けた。しかし今回の壁ドンは今までのものよりもさらに絶望が深かった。なにしろ私はイヤフォンをしていて、一切ゲーム音を立てていなかったのだ。「気配だ…」とそのとき私は悟った。隣人は私が早朝に起きている気配に怒って壁ドンをしているのである。「んなアホな…気配なんていう曖昧のもんどうすりゃいいねん…」と絶望した。もしわたしが”起きている”という事実が隣人に伝わっているのだとしたら、この家の壁は寝台列車のカーテンくらいしかないということになる。とすればわたしはこれから普段の日常生活でも隣人に気配が伝わっていないだろうかと怯えて過ごさなければいけないことになるし、休日に夜通し友達とゲームでもしようものなら本当に殺されてしまうかもしれない。



  そういうわけでわたしは冒頭の「生活の術」について考えざるを得なくなったのである。「気配」とかいう曖昧な概念を急に自分の生活に重要なものとして考えなければいけない現状。こんなしょうもない問題がまさか自分の精神世界にまで干渉するような切実な話になるとは思わなかった。このとき私は思ったのである。もしかしてこの絵画は「日常生活を送る上で自分も他人も無難に過ごせるような精神の持ち方」というものを示唆しようとしているのではないかと。そうだとしたらルネ•マグリットの慧眼には敬意を示すほかない。実はこの絵画には人間が生きる上で根本的な精神的命題というものは日常に深く結びついている、というメッセージが隠されているのかもしれない。

  とはいえそんなことをこれからも考え続けるのはつらい。わたしは自分が騒がしい人間だという自覚があるけれど、それにしてもこの家はなかなか酷いのではないだろうか。引っ越してきて2ヶ月しか経っていないけれどわたしはすでに2年後の契約更新の時にこの家を引っ越そうと決めた。壁ドンに怯える生活を続けるのは限界があるし、友達との通話の間ずっとビクビクしているなんてバカバカしいにも程がある。家賃35000円の家の一番良くないところは、隣に住んでいるのが呪霊だったりするかもしれないところである。皆さんも引っ越す時にはぜひその点を念頭に置いておいてみてほしい。


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