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第三話 銀座線ラプソディ【THE ASAXAS CHAIN SAW MASSACRE】

 陽気な太鼓と三味線の音がこだまする。
 出囃子が鳴り始めた。
 柳平が重たい瞼を開く。
 今日はなんだったか。先輩の噺家が柳平の体を揺らす。
「おめぇ、なに寝ぼけてんだ。次は、二つ目のお前の出番だろい」
 おおそうだった、俺は二つ目に上がったんだ。
 急いで身支度を整え、舞台袖に向かう。後ろから声がした。
「リュウ」
「蘭満……」
「本当にあの噺やるのか」
 あの噺とは、なんだろう。疑問の前に口が動いていた。
「ああ」
「本当に馬鹿野郎だ」
 共に研鑽した兄弟子、桜蘭満が背中を叩く。柄になくその眼は潤んでいた。
 ありがとう。あんたの分までやってくるよ。
 柳平が舞台に上がる。
 照明が眩しい。
 割れんばかりの拍手に包まれる。
 今日も落語の神様に感謝しねぇとな。
 舞台に立つまでを振り返る。
 思えば長い道のりだった。高校を卒業し、浅草大笑閣の楽屋口で師匠に頼み込んだ。はじめはすげ無く断られ、五度目でなんとか入門できた。それから前座見習いになっても、着物畳み方を間違えて何度も雷を落とされたものだ。
 あまりに間違えるもんだから師匠に外に吊し上げられたっけ。あれは真冬で寒かったなぁ。
 柳平は笑いを噛む。
 長いようで短かった生活が過ぎていく。
 座布団につき一礼する。マクラを一つ。柳平が扇子を出したときだった。
 がしゃり。
 右腕に機械の重みがかかる。
 手にしているのは真っ赤なチェーンソーだった。
 慌てて客席を見る。照明の加減でお客がどんな顔をしてるか分からない。
 意に反して柳平はチェーンソーを客に構える。
 何やってやがる。
 どるんどるるるるん
 制止を振り切ってエンジンがかかる。
 だめだ、それはだめだ。
 思いに反して体は舞台を降り出す。
 客の顔は、夜薙屋の連中だった。
 骨を斬る鈍い音と、肉の潰れる音が響く。
 断末魔の代わりに、笑い声が舞台を揺らす。
 ははは、ははは、ははははは
 夜薙屋の連中に混じり、頭の割れた轢轢斎が嗤う。
「あんたはな、斬ることが大好きな根っからの人殺しなんだよ」
 有無を言わさず、轢々斎の右眼に回転する刃を突き立てる。エンジン音と笑い声が混じり、地獄の旋律を織りなす。
 目が覚めると、蛍光灯の光が眼を刺した。
 柳平は菊の湯の脱衣場に寝かされていた。顔を上げ時計を見る。すでに時刻は23時30分を回っていた。度重なる夜薙屋との死闘により、身体が限界に達して失神していたのだ。柳平は首を回し、肩を回す。疲労はわずかに取れていた。
「ちょいと」
 声のするほうに向くと、手になにかが飛び込んできた。慌てて受け止めるとフルーツ牛乳が掌中にあった。
 投げ渡したのは番頭だった。
 柳平は深々と礼をすると、瓶に口をつけた。冷えた牛乳と甘味が乾いた舌にしみる。底についた滴まで飲み干した。
「うまい」
「牛乳はフルーツ牛乳にかぎるよ、旦那」
「俺はコーヒー牛乳も好きだがね」
「コーヒー牛乳は美味すぎるんだ。それがよくない」
「人の飲み物に口をだすたぁ、おかしな番頭だ」
「よく言われるよ。あんた名前は」
「柳平だ」
 柳平は返事もそこそこに、立ち上がって芬弥の持ち物を漁る。
「幽閉さんか」
「みんな知ってるんだな」
「浅草の人間であの伝説を知らないやつはいない」
「そうか。伝説と会ってどうだい」
「光栄だね」
「なら風呂汚したのも許してくれるか」
「そりゃダメだ。ちゃんと拭いてくれ」
 柳平は床を見る。脱衣所の長椅子から、風呂場の入口まで赤い足跡が続いていた。磨りガラスの向こう側には薪のように夜薙屋の連中が積み上がっている。
「だよなぁ」
 柳平は懐からくしゃくしゃになった瑞相亭京馬の名刺を出す。
「こいつを持って落語協会に駆け込みな。掃除の手間賃くらいなら出してくれるぜ」
「頂戴するよ」
 番頭は特に確かめることなく受け取った。
 浅草の顔役の名刺を偽造するような阿呆はいないと踏んだのだろう。そう柳平が考えていると、芬弥の籠にある板切れから間抜けな木琴の音がした。画面には「夜薙屋金烏」とある。柳平が対応しかねていると、番頭が板を押すジェスチャーをした。見様見真似で押す。
「芬弥、今すぐ離れろ。師匠が来る」
 男の声だった。柳平が黙っていると、声は言葉をついだ。
「柳平さんがくる」
「……そいつは大変だなぁ」
 男の声が止まった。
「驚いた。ご本人かい?」
「ただの与太郎さ」
「落語は上手いのに嘘は下手だね」
「へっへっへ」
 電話の向こうで〈神田〉のアナウンスが聞こえた。
「車内での通話はマナー違反だろう」
「幽霊とのおしゃべりは例外さ」
「独り言ってわけかい」
「へへ、そうだよ」
 柳平は頭をぽりぽりと掻く。これから殺しあう人間と談笑していると思うと、調子が狂った。
「ちょっと代わるよ」
 声が離れ、しばらくしてから別の男が出た。
「もしもし」
 柳平の体が固まる。電話を持つ手が、鉛のように重くなった。
「おう」
 二文字を発するのがやっとだった。
「久々なのにつれねぇじゃねぇか。30年のお勤めは大変だったろ」
 自分は電話越しの男を知らないはずだ。声帯が思うように動かない。
「お前もう見たか。墨田区には馬鹿でかい塔が立ったんだぜ。登ってみろ。雲に小便かけられるぞ!」
「蘭満……お前……」
 柳平が発したのは、かつての兄弟子の名前だった。不意に先刻の夢が蘇った。
 桜蘭満。背の小さい、笑顔が素敵な男だ。自分が血を吐く思いで落語を続けられたのは彼がいたからだ。
 柳平の返答に男が吹き出した。
「ははははは。嵐平次だよ。俺ぁ、夜薙屋嵐平次っつうんだ」
「やめろってんだ蘭満。夜薙屋を名乗ったら……。俺はお前を」
「蘭満ってのは誰だ」
 蘭満が出さない底冷えするような声に豹変した。
「夜薙屋殺りに来るなら、腹括れや……」
 柳平が沈黙していると、嵐平次は続ける。
「芬弥は楽に死ねたかい」
「……脳味噌まき散らしてたよ」
「そうかい。次はリュウ、お前の番だぜ」
 そう言って電話は切れた。最後に聞こえたのは「浅草駅で待つ」という言葉だった。
 番頭は待ちあぐねたようで、フルーツ牛乳の瓶を片手に揺らしていた。
「終わったかい」
 柳平は番頭に向かった。
「あんた、車持ってるか」



 外がやけに涼しく感じる。顔に当たる風もあるだろうが、やはり先のサウナ地獄を経たのが大きいだろう。
「うちはタクシー屋じゃないんだぜ」
 番頭は、仕事着のまま猛スピードで軽自動車を駆る。厳戒態勢の浅草に速度制限はなかった。
「お足は弾むよ」
「あと車検代もな。血脂はクリーニングじゃなきゃとれないんだ」
 柳平は自分の体臭に気付くまで時間がかかった。柳平の体は夜薙屋との連戦で、強烈な血の臭いを纏っていた。
「臭うかい」
「ああ。獣を乗せてる気分だ」
「迷惑料も乗せねえとな」
「銭湯の売上を超えちまうな」
 二人は笑い合った。力が抜けたせいで、あくびが出そうになる。
 体はへばっていたが、思考は澄んでいた。
 柳平は電話の相手を反芻する。
 奴は嵐平次を名乗った。しかしあの声は桜蘭満に間違いなかった。
 兄弟子は靄だった。掴みどころがなく、知らぬうちに包み込んでいるそんな男だった。埋もれていた記憶が姿を現す。
 ある時、夜道で前座の二人が殴り合いの喧嘩を始めた。食い詰めた奴らの喧嘩と言ったら金に決まっていた。
 どうやら借りた金は、とっくに天井に行っていたようだった。貸していた弟子が焼き鳥の串を持ち出す。借りた側は拳を固める。
 串といっても、握れば立派に凶器だ。怒号と罵声で周囲がどよめく。張り詰めた緊張の最中だった。
 酒の臭いをまき散らし、蘭満が二人にぶつかった。千鳥足で完全に酔っている。
「さっきよぉ!パチンコで大当たりしちまったよ」
 今にも爆発寸前の男たちを前にしても、蘭満はとびきりの笑顔だった。その表情を見て、前座ふたりの戦意はなくなっていた。
「飲みに行くぞ」
 三人は夜通し飲み明かしたという。
 翌日、蘭満は顔を真っ青にしていた。師匠に借りた金で呑んでいたのをすっかり忘れていたのだ。この話は、桜一門で長い間語られていた。
 兄貴肌だが、抜けている。掴めないあの男を表すエピソードだった。
 その蘭満がなぜ独立したのか。なぜ裏落語に落ちたのか。
 考えれば考えるほど、疑問は尽きなかった。
 柳平は目を瞑る。
 ──次はリュウ、お前の番だぜ
 あの男は、かつてもそう柳平を呼んでいた。
 だが、夜薙屋である以上は……。
「仕方ねぇな……」
「柳平さんよ。本当にいいのか」
「ああ、このまま飛ばしてくれ。それと」
 柳平は親指と小指を伸ばし、ジェスチャーをとる。
 番頭から携帯を借り、電話番号を押す。
「使いづれぇ」
 コール音が5回続くと繋がった。
「心眼の時はどうも」
「柳平か」
 声の主は落語協会会長、瑞相亭京馬だった。
「折り入ってひとつ頼みが」
 番頭の車が無人の浅草を飛ばす。

 ◆

「次は稲荷町、稲荷町」
 銀座線が線路を軋ませる。
 男は隅の座席に腰をおろしていた。静かに目を瞑っている。深夜の地下鉄、冷たい蛍光灯を鉄紺の羽織が吸い込んでいく。
 羽織には破れ扇の紋が施されている。
 男の名は夜薙屋金烏という。
 金烏は、池袋で惨劇を起こした後、しばらく街をうろついていた。
 熱を醒ますためだった。このまま浅草に戻れば自分の獣性が制御できなくなる。その予感が金烏を深夜まで歩かせることになった。
 深く息を吸い、吐く。組んだ腕は丸太のように太く、胸に合わせて動いた。
 眼は切長で憂いを帯びている。顔の輪郭もすらりとしており美男子だ。
 大方の人間は一目で落語家と判断できないだろう。
 黒い髪は肩まで垂れ下がり、拳には剃刀で傷つけたような傷跡が幾つもつけられているからだ。
 人をよせつけない力の塊のような印象をもつ。
 隣に小男が腰をおろす。
 禿げ上がった頭に、花浅葱の羽織を着流している。夏の暑さで動けるように紗で作られており、紋は金烏と同じ破れ扇だった。
 小男の名は夜薙屋嵐平次という。
「なぁ、金烏よ」
「……はい」
 しばらく沈黙のあと、金烏が返す。
「柳平は、なかなかやるだろう」
「ええ。柳平さんは芬弥の裏落語に分が悪かったはずです」
「そうな。老人にはおっかない男だったよ、芬弥は。ウラルの我慢坊は、急激な温度差をもたらす。ヒートショックで死なすのがアイツの十八番だからな」
「ええ」
「だが柳平は死ななかった」
「ええ」
「強いぜ。金烏、お前はやれるのかい」
 金烏が天井を仰ぐ。未だにその眼は閉じられている。
「さあ……、どうでしょうね」
「口ぶりにしちゃあ、顔がわらってるぜ」
「柳平さんには、久々にお目にかかるので」
「昂るか」
「ええ」
「稲荷町、稲荷町」
 車内アナウンスが流れる。
 ゆっくりと車両が止まった。
 駅のホームには、乗客がひしめいていた。空気が放出され、ドアが開く。
 まばらに車内のサラリーマンたちが降りて行き、代わるように人がなだれ込んだ。
 金烏は異様な空気を感じた。
 乗客たちの足音がしないのだ。全ての乗客が金烏の車両を避けて乗っている。車両は空いているから、一人ぐらいは金烏の方へ乗ってもいいはずだ。しかし、金烏は革靴の振動の一つさえ感じなかった。
 思考に割り込むように車内アナウンスが響く。
「車両点検のため、この列車は田原町駅を通過し、終点浅草駅にて止まります」
 金烏は嘲笑う。噺家でなくともわかる、白々しい嘘だ。
「瑞相亭の仕業だな、こりゃあ」
 嵐平次がつぶやく。稚児に悪戯でもしかけられたかのような口ぶりだ。
 列車が軋み、ゆっくりと動き出す。
「俺たちのことを見てるな。会社員も、キャバ嬢のカッコのやつもいる。あの学生なんざ、ポッケに扇子を隠してるのが丸わかりだ。変装にしちゃあチトお粗末だねぇ」
 嵐平次は、ひとしきり実況すると愉快そうに笑った。
 金烏は岩のように沈黙している。その姿は、嵐の前に草や虫、空が一斉に黙すような迫力があった。
 列車が走る。ごとり、ごとり、と車両が揺れる。国家権力と落語協会の境界である合羽橋を過ぎた。合羽橋を越えた先は、落語協会の管轄だ。この先で起こることは、全て警視庁の管轄外となる。
 車両同士を結ぶドアが開いた。
 床を鳴らす靴音が響く。
 金烏が目を開いた。
 切長のまぶたに収まった、酷薄な眼が動く。
 足音の先には、会社員がいた。キャバ嬢がいた。後ろには詰襟の学生、原宿ファッションのギャルが控えている。一見して普通の客ばかりだ。
「前座くずれだな」
 嵐平次がつぶやく。
 金烏もまた気づいていた。前座くずれ。彼らは落語の道に進むも、道半ばでドロップアウトした者だ。瑞相亭京馬が、体のいい鉄砲玉として夜薙屋に差し向けてきたのだ。
「瑞相亭も外道だねェ」
 嵐平次がふぇ、ふぇ、ふぇ、とフクロウのような声で笑う。この笑いは、心から笑っている時のものだ、と金烏は知っていた。
「夜薙屋ァ!」
 野太い声が飛ぶと、前座くずれたちが割れ、後ろから男が現れた。
 天井に頭を擦りそうな巨漢が近づく。山のような男だ。髪は短く刈り上げており、紅葉めいた真紅のサテンの羽織を纏っていた。
「池袋の事件、師匠を殺ったのはテメェか」
 サテンの男が金烏たちを睨む。
「それが……」
 どうかしたのか、という口ぶりだ。
 その瞬間、車両に衝撃が走る。
 男は右の拳で窓ガラスを叩き割っていた。
「俺は、啜木一門二つ目、啜木四天だ。その言葉、啜木天楽の仇と受け取った」
 怒気の充満した声で男は名乗った。
 それを皮切りに前座くずれたちは、出刃包丁や自転車のチェーンを手にしていた。
 金烏がゆったりと立ちあがる。まるで足が床に吸いついているようだった。足元のおぼつかない車内を、地面と変わらぬ滑らかな動きで前座たちと向かいあう。
「……いつでも」
 金烏が吹きかけるように言った。
 列車の遠心力が右にかかる。
 金烏は構えず両腕をだらりと垂らしている。背中を軽く曲げ、右足を半歩後ろに引く。前傾姿勢になっていた。
 啜木四天らの張り詰めた殺気に対し、金烏は凪そのものだった。何もない。多勢を相手にしながら、感情の機微を見せなかった。
 ぎゃりぎゃりぎゃり
 と、一際大きな線路の軋みが響く。
 それが合図となった。
 ふっ、と金烏が息を吐く。四天の右、会社員の懐に潜り込んでいた。出刃包丁をもつ右腕に金烏は左手を添える。攻撃の兆しを読み取り、対手の型がなる前に制していた。
 金烏の右掌底が左脇腹にとん、と触れる。
 会社員が崩れ落ちる。
 金烏は左足を軸に転換する。キャバ嬢たちの背後に回った。ほんの一瞬気をとられたキャバ嬢と、ジャージ男の首に手刀を落とす。
 そのまま、つり革に捕まる。蛇のように学生の首に脚が絡まった。捻り、折る。
 そこで前座たちはようやく金烏に目を向けた。
 五秒たらずで、四人が死んでいた。
 多勢はすでに意味をなしていなかった。金烏はわざと前座たちの間に滑りこむ。予想通り、同士討ちを恐れて、攻撃が遅れた。
 喉めがけ拳を放つ。肘で相手の膝の皿を割る。金烏は辻風のごとく、前座たちを崩していく。
「しゃっりゃあ!!」
 巨拳が迫った。金烏は肩を逸らす。拳は背後でカッターを振りかぶる前座を砕いた。四天の憤怒の顔面が迫る。鬼瓦が張り付いている。
「いいのが撃てたんだがなぁ」
「……粗い」
「どうかな」
 四天が右フックを放つ。金烏は姿勢をずらし、寸前で躱す。拳の軌道上、メガネをかけた前座くずれが吹き飛んだ。
 金烏は振り返り、近づいてきた別の前座くずれの目をつく。
 四天が金烏の脇腹へ左フックを飛ばす。金烏がつり革に捕まり、下半身を大きく上げる。振り子のように金烏の脚が後ろに持ち上がる。そして、そのまま背後にいた前座くずれの顔面に蹴りをいれた。白い歯が床に転がる前に、振りあがった足が四天の顔を捉える。四天はすんでのところで顎を引いた。
 車内は墓場と化していた。横たわる前座たちの屍が山を築いている。
 立っているのは金烏と四天のふたりだった。
「りゃあえやぁ!」
 四天が何度目かの右フックを仕掛ける。勢いは衰えない。全身にめぐるアドレナリンで顔から汗が滲んでいた。
 金烏の表情は変わらなかった。フックに合わせ、後ろに飛び退く。
 しかし、それは出来なかった。
 死んだ原宿ギャルの腕が金烏の足首に絡まっていたのだ。僅かに飛び退く距離が狂う。
 ぶおん、と鼻先を拳が掠める。
 避けきった、と金烏は思った。
 次の瞬間だった。
「しゃいらァアア!」
 四天が雄叫びとともに、左後回し蹴りを放っていた。右フックの勢いを利用した一撃だった。
 隙が大きい代わりに、相手が回避するテンポを狂わせる必殺の一撃だ。
 四天の左踵が金烏の側頭部にめり込む。勢いで頭が車窓を割る。
 そう思えた。
 だが、金烏は倒れていなかった。金烏は扇子を開き、左踵を受け止めていた。流れるような動きで扇を滑らせた。
 ずるり、と四天の左足が床に落ちた。
「あ?」
 四天が扇を見る。扇の親骨が刀の鋭い光を帯びていた。
「仕込み扇……!」
「……悪く思うな」
 四天の顔が驚愕に歪む。
 金烏の扇がゆったりとした動きで四天の顎を撫でた。
 音もなく首が床を転がる。
 驚きと失意の混ざった呻きが血の泡と消える。それが啜木四天の最後の言葉となった。
 静寂が訪れた。
 車内は惨憺たる有様だった。床には前座たちの死体が折り重なっている。ひとりひとりに人生があった。今はもうない。
 列車が左にカーブする。右に体が引っ張られる。
 膝立ちのまま硬直していた四天の体が倒れた。
 金烏は嘆息した。啜木四天、惜しい才能をなくした。
 噺家になる前に別のキャリアを持っていた人間は少なくない。四天もおそらくそうだったのだろう。巨体と思わせぬ身のこなし、仲間を切り捨てる状況判断。裏落語家であれば自分を凌ぐ才能たりえたかもしれない。
 金烏は四天の生首を見下ろす。ここで会うべき男ではなかった。
 惜しむらくは運命か。
 もし30年前、あの場所にいたら……。
 金烏は再び目を瞑る。
 30年前の金烏は迷っていた。
 幼い頃から柔術を続けていた。始めた頃から、重心の移動を心得ていたのもあり、飲み込みは早かった。父との鍛錬は夜通し続いていた。
 中学を越える頃には、道場で敵う相手はいなくなっていた。
 周りからは道場を継ぐことを熱望された。
 しかし、実家の柔術道場を継ぐ気にはなれなかった。
 柔術に熱意がなかったのだ。
 金烏は、才能と自分の心情に困惑していた。心に虚を抱えながら道場の鍛錬は続ける日々が続いた。相手が望んでいるから試合に応じる。それだけだった。
 高校2年の頃だった。
「レイジ! そんならさ! 探検行こうぜ!!」
 机を乗り出し、エイタはそう言った。クラス替えで席が隣になっていきなりだった。
 金烏自身、会って早々に身の上を話してしまったのは初めてだった。それほどエイタには魅力があった。話を聞くのがうまいというより、こちらが話をしたくなる人柄だった。
 金烏はまんまとエイタの話に乗せられ、浅草探検を取り付けられてしまった。
 不思議と悪い気はしなかった。
 金烏は稽古を抜け出し、雷門でエイタと落ち合った。
 金烏にとって初めての浅草だった。都内に住んでいても学校と道場だけが世界だった。観光客の多さに目がくらむ。
「早く来いって!」
 エイタが両手を拡声器のようにして呼んできた。金烏は駆け寄った。
「なぁ!ここの道どこに繋がってんのかな」
「やめとけって」
「大丈夫大丈夫! 俺はな、こう見えて道にだけは強いんだよ」
「嘘つけよ」
「本当だって! いいか? こうして左手を壁に当てて」
「それは違うだろ!」
「ナハハハ!」
 金烏たちは何度も迷子になりかけながら、エイタの好奇心のまま歩き続けた。
 路地と人混みをかき分けていくと、開けた場所に出た。金烏たちの前に建物が現れた。大入の文字に何本も幟旗が立っている。
 浅草大笑閣が目の前にあった。
 昼の部の掲示板を見る。「桜柳平二つ目昇進記念」とあった。開演時間はちょうど昼前だった。金烏はエイタを見る。
「行ってみようぜ」
「言うと思った」
 エイタは口角を上げると、受付に走った。金烏が追いかける。エイタといるのが楽しかった。まだ知らない場所に自分を連れて行ってくれるエイタが好きだった。
 彼となら道場も親もいない場所に行ける気がした。
 どっどるどるる、うぉおおおんうぉおぉんん
 そして、あの事件が起きた。
 あの日、浅草大笑閣で聞いたエンジン音が、今も金烏の頭にこびりついている。
 気づいた時には遅かった。
 エイタは肩から袈裟がけに斬り裂かれていた。
 金烏が支えようとすると、支えた上半身を残し、下半身がずり落ちる。ぼとぼと、と腸が床にこぼれる。時間が自分の周りだけ遅くなったような気がした。
 目の前には桜柳平が立っていた。おぞましい。その両眼が恍惚としているのに気づいた時だ。はじめは焼けた鉄の棒を押し当てられたと思った。腹を見ると、深々とチェーンソーの刃が食い込んでいた。重力が後ろにかかる。
 抱えたエイタの体温が消えていく。
 背中に衝撃が走り、意識が遠のいていく。
 金烏は目を開く。意識が電車内に戻された。
 金烏を変えた記憶とリンクするように、体に痛みが伝わっていた。
 うぉおおおんうぉおぉんんうぉおおおん
 痛みの元は傷の塞がった腹からだった。視線を落とす。
 金烏の身体をチェーンソーが貫通していた。回転する刃が臓物を掻き出そうとしている。
 金烏が振り返ろうとすると、頭を押さえられた。耳に生暖かい息がかかる。
「よそ見はいけねぇぜ」
 声の主は……、桜柳平だ。
 前座の死体に紛れて、隙を窺っていたとでも言うのか。
 ずいぶんと汚い手を使うじゃないか。
 虚のような心に熱いものがあふれた。熱は渦となり、金烏の顔に微笑として現れた。
「……待っていたぞ」
「もうお別れだ」
 エンジン音が一際大きくなる。チェーンソーの回転数が上がり、惨殺しようとする。だが、金烏は死ななかった。
 背後にいる柳平の気配が消え、代わりに大きな影が蛍光灯を遮る。エンジン音はもう聞こえない。
 金烏は腹に刺さる扇子を抜いた。
「すまん、遅れた」
「……危ないところだった」
 金烏が後ろを振り返る。
 彼の目の前には二足で立つ巨大な白い兎がいた。兎は柳平を片手で締め上げている。柳平の顔は鬱血して、紫になっていた。
「このまま、やっちまうか」
「まだだ」
 肩をすくめると、兎は完璧なピッチングフォームで柳平を投げとばす。車両先頭で枯れ木のような音がした。
「……師匠は逃がせたか」
「首尾よくいったよ」
「ありがとう。玉兎」
 玉兎と呼ばれた兎が笑う。その笑顔はエイタの奔放さを備えていた。
「死んじまったかな」
 玉兎が手を双眼鏡のようにして最後尾を見やる。
「まだだ」
 扉に叩きつけられた、柳平は起き上がりかけていた。ふらつきながらも、柳平の眼は金烏たちを捉えている。玉兎は口笛をならす。
「こりゃあ本気でいかないとな」
「柳平さん……。死に損なった俺たちの人生を見てくれ」
 金烏は扇を開き、顔を覆うと一言、
「裏噺『うつろ入道』」
 と唱えた。
 扇を閉じ、横向きに咥える。すると、目はぐりぐりと顔面横に移動し、皮膚から大きないぼがいくつも浮かびあがる。手足は筋肉で膨らみ、表面が鱗に覆われた。
 すでに柔術を使う寡黙な金烏の面影はなかった。いるのは車両を圧迫する巨大なオオヨロイトカゲだった。
「俺たちの晴れ舞台だ」
 玉兎が笑い、金烏──オオヨロイトカゲ──の横に並び立つ。鋭利な鱗が触れると、座席シートから綿がこぼれた。
 柳平もまた立ち上がっていた。
「案外フィジカルある。なぁ金烏?」
 玉兎がちらりとオオヨロイトカゲを見る。
 金烏は真っ赤に染まった両眼を見開き、呼応するように吼えた。

 ◆

 柳平の耳は莫迦になっていた。まるでジェット機ががなりたてているようだ。
 おまけに背中を鉄扉にぶつけたせいで、目もまわる。柳平は倒れそうな体を壁に手をついて支えた。蛍光灯が視界にちらついては、白い渦を描いた。
 作戦は失敗だった。
 柳平は京馬に頼んだのは、増援と銀座線をノンストップにすることだった。
 全て一瞬にかけるためだ。啜木四天は善戦し、前座くずれたちも目くらましになった。そして、隙をついて背後から金烏を斬るまではよかった。もう少しでやれたのに。骸と化した前座たちを一瞥し、歯を食いしばる。
 目の前にはリストにない夜薙屋がいた。
 白い兎がなにか話すと、金烏は巨大なトカゲに変わっていた。手負いの柳平には分が悪すぎる。
 再び吼え、オオヨロイトカゲが突進してくる。床や天井を破壊しながら進むさまは重機だった。柳平にあの物量を受ける余裕はない。
 車両は10両ある。今は最後尾、10両目に柳平たちはいる。柳平は9両目につづく扉を閉じ、転がるようにして前へ走る。
 爪が車両を破壊する音が近づく。
「毎度馬鹿馬鹿しい話を一つ……」
 8両目に差し掛かり、連結部分を柳平は切り落とした。
 金属音とともに切り離された、9両目が後ろへ流されていく。
 柳平は振り向かず走り続ける。
 7両目に差し掛かり、連結を切り離す。
 6両目、5両目と次々に切り落としていく。
 足が重たい。柳平の視界がぐにゃりと歪み、限界がきているのが実感できた。
「お師匠、食っちまうぞ!」
 振り返ると金烏に馬乗りになった兎が、車両に追いつくところだった。柳平はさらに前に向かう。
 揺れる車内の中、足が崩れそうになる。
 柳平は30年間の日々を思い出す。日付の感覚がない中、噺を続けるのは堪えた。終わりのない永遠の道を歩き続けるような孤独に襲われた。それでも、徒労に感じたことさえ忘れ、壁に演目を続けた。
 反応がなく、笑い声も聞こえない空間に閉ざされ、気が狂いそうになった。それは、自分の起こした惨劇によるものだった。
 だからこそ、全て自分でケリをつけるのだ。
 柳平は再び意思を固める。
 ──夜薙屋は全て殺す
「鬼さんこちら……」
 柳平の両足を踏ん張る。
 弱りきった膝が痛みを叫ぶ。
 構わず柳平は、前の車両へ飛び込んだ。
「ずいぶんと腰抜けだなぁ!」
 金烏と兎は地下鉄のトンネルを縦横無尽に駆ける。その間にも、柳平は車両を切り離し続ける。轟音に次ぐ轟音がトンネルを揺らす。
 柳平の額には玉のような汗が浮いていた。
 ついに、1両目の先頭にたどり着いてしまった。
 後方から激突音がする。振り返ると、扉が突進を受け、外れかかっていた。
 もう一度爆音がする。扉がひしゃげ、吹き飛ぶ。オオヨロイトカゲに跨った大兎が車内に滑り込んだ。
「捕まえた」
「へっ」
「名乗り忘れてたぜ。俺は夜薙屋玉兎ってんだ」
「電話に出たのはお前だな。話し方で思い出したよ」
「ああ」
「柳平だ。屋号は捨てている。嵐平次はどこにやった」
「勝ったら教えてやるよ。さぁ、正々堂々やり合おうや。それとも畜生とは遊べねぇか」
「ああ、皮ァひっぺがして座布団にしてやるよ」
「笑止!」
 玉兎が床を蹴り、柳平に走る。金烏は鉤爪で天井をつかみ、うねるようにして逆さに走ってきた。天と地、両面から攻めることによって互いの動きを殺さないようにしているのだ。
 柳平は、チェーンソーを後ろ手に構える。そして、真っすぐ金烏たちへ投げた。柳平のチェーンソーが回転しながら飛ぶ。
「無駄だ!」
 金烏が頭をもたげ、玉兎を庇った。
 ぎゃりん、
 と音を立てて、金烏に回転刃が切り込む。
 しかし、金烏の堅牢な鱗には僅かに傷を与えただけだった。
「お師匠! 自分の武器を捨てちまうとはボケがまわったなぁ。あんたはあの日、俺たちを殺しておくべきだった!」
 玉兎の体が風をきる。金烏もスピードを上げ、回避不能な距離まで柳平に迫った。
 しかし、柳平の目は死んではいなかった。寄席のため全てを掛けた噺家としての度胸と気魄が滾っていた。
 獣たちに容赦はない。蛍光灯が破壊され火花が飛び散った。すでに柳平との距離は2メートルを切っている。
「ここで死にな!」
 この時、金烏と玉兎には聞こえただろうか。柳平の鼻歌は自分の出囃子「一丁入り」を奏でていた。
 柳平は懐に、手を伸ばす。出したのは二本の扇子だった。
「お笑いを一席申し上げます……」
 うぉおおんうおおおんうおんんんうぉおおおおんんんんうぉん
 列車の走行音をチェーンソーのエンジンがかき消す。
 チェーンソー二刀流だ。この時のために前座くずれたちから扇子をくすねていたのだ。
 柳平は両肩でチェーンソーを肩に背負い、肘が天に向いている。
 この瞬間にかけるしかなかった。
 前座に紛れていた時、金烏の身のこなしを見た。正面から受ければ、柳平の落語の腕が上でも確実に負ける。玉兎もおそらく、相当の体術使いと推測した。
 ならば、絡め手に他ない。
 逃げつづけ、策が尽きたと思わせるため、チェーンソーを投げ捨てた。捨て鉢の老人と彼らに思わせるのだ。
 丁寧に練られた噺こそ、サゲの衝撃は大きい。
「ぬぅう!」
「ポンポン切り倒しまして……」
 玉兎がバックステップで回避する。柳平との距離が30センチを切った時、本能で危険を察知したのだ。
「金烏!」
 オオヨロイトカゲの巨体は簡単に止まらない。だが、それは彼の中の獣性が危険察知を越えて優先されたためである。
 金烏は殺意の権化と化していた。鉤爪を振りかぶる。
 一際大きな火花が散り、溶接現場のようなスパークが弾ける。
 鉤爪と、二本のチェーンソーが金属の絶叫を発した。
「ばっさばっさ……」柳平が噺を続ける。
 電車を砕いた鉤爪が押されていく。
「もう一本もう一本……」柳平が噺を紡ぎながら、一歩一歩前進する。
 金烏が獣の本領を解き放つような叫び声をあげた。
「止まれ! 金烏!」
 後ろから玉兎の声がしたのと同時だった。金烏の爪は鋭い音とともに切り飛ばされた。
 振り抜いたチェーンソーの刃にひびが入ると粉々に割れた。
 天井には、吹き飛ばされた金烏の下顎が張りついていた。
 床を血が点描していくと、金烏が落下した。
「ごぉおおお」
 人に戻った金烏が、血まみれの顎を押さえ悶絶する。
 柳平は声をかけるまでもなく、チェーンソーを振りおろす。噺家の最後として惨すぎた。裏落語はおろか、もはや落語すら叶わない金烏に引導を渡したかったのだ。
 だが、金烏を斬る寸前で、刃は止まった。金烏が「待ってくれ」とでも言うように、右手を柳平の前に出したからだった。
 柳平は玉兎を見る。玉兎は金烏の最期を見逃すまいと目を見開いていた。
 金烏が着物を脱いだ。鍛え抜かれた肉体が姿をあらわす。血の混じった咳をしながら、両手を広げた。
 ──殺せ
 金烏が眼でそう告げた。
 血の一閃が、金烏の右肩から袈裟がけにはしる。
 その時だった。柳平の脳裏に、映像がフラッシュバックする。
 あの時の浅草演芸ホールだった。
 目の前で血しぶきが舞う。少年が斬られている。右肩から袈裟がけに斬られる姿は、金烏と同じだった。高校生だろう。あどけない顔にははっきりと痛みの表情が刻まれていた。
 ──おお、極楽だ!
 柳平は無意識に笑みを浮かべていた。柳平の心に罪の意識はある。だが、それ以上に、笑いよりも直接人を動かす痛覚に、柳平の脳は痺れた。
 理性では止めろと言っている。本能では次の客を探していた。
 少年の背後を見る。
 もうひとり、床に転げたままの連れの少年がいた。切長の目をしている。瞳孔に映しているのは、虚だった。
 柳平が歩み寄ろうとすると、銀座線に戻っていた。
 立ちはだかる玉兎の双眸と、記憶の少年の目が重なる。
「なるほどな......」
「お師匠、構えな」
 玉兎が首を鳴らす。
「いや、やらない」
「なんだと?」
「俺が斬るのは裏落語家だけだ」
 玉兎が首をひねる。柳平が続ける。
「松山鏡だよ。親孝行の倅が、鏡に死んだ親父の姿を見る噺がある」
「それが?」
「玉兎。お前は金烏の鏡像だろう」
 柳平が玉兎の顔を見つめる。骨格は違えど、金烏の特徴を強く残していた。
「バレていたか。裏噺『羅睺ノ鏡』、記憶を依代に自立する思念体を放つ噺だ」
「裏落語を二つ会得しているたぁ、大したもんだよ」
「そうだよ。金烏、いや、レイジはすげえやつなんだ。親友まで甦らしちまうんだから」
 親友、その言葉で気づいた。記憶に出てきた血しぶきをあげていた少年は。
「あの時、俺が斬ったのは……」
「鈍いな。エイタっていうんだ。夜薙屋金烏が、玉兎を作る根本には彼がいた。だから、エイタへの記憶は俺にも引き継がれている。せっかくだ......、聞いてってくれねぇか」
 柳平はシートに腰を落とす。玉兎もまた向かい合って座った。玉兎の両足は心なしか透き通っていた。
「エイタは八方塞がりのレイジを救ってくれたんだ。30年前の浅草大笑閣からレイジは、ずっとエイタを探し続けていたんだよ」
「ほう」
「やがて嵐平次に辿り着いた。レイジはその場で頼み込んだ。師匠は土下座するレイジの肩に手をかけて笑ったんだ。レイジは驚いたよ。全てを受け止める嵐平次の笑顔はエイタそっくりだったんだからな」
「それから裏落語家に」
「ああ。噺家の世界は、はじめて見つけた居場所だった。レイジは落語にどんどんのめり込んでいった。誰からも指図されることなく、自由に駆ける子供みたいだった」
 玉兎が噛み締めるように言った。
「この日のためにレイジの熱意は燃えていた。死に損ないにしてはいい夢が見られたんだろうな」
 玉兎は、床に落ちた金烏の扇子を拾い上げると、立ち上がった。柳平も立ち上がる。
「まもなく浅草、浅草」
 車内アナウンスが響く。
「だが、俺は我慢ならねぇ。夜薙屋玉兎は、今だけ虚像ではなく実像になる」
 そう言い終えるなり、玉兎が扇を開き、柳平に向かう。
 仕込まれた鈍色の刃が首元を狙う。
 柳平も同時に動いていた。
 うぉおおおんうおおおおんうぉおおおん
 線路の軋む音が一際大きくなる。
「浅草、お出口は右側です」
 車内放送が冷ややかに響き、扉が開いた。
 柳平は車内から転げるように出た。片膝に両手をかけ、立ち上がる。
 ふらつきながら柳平はホームを歩きはじめる。
 終点に止まった列車は、柳平を見送るように動かない。
 玉兎のいた場所には、両断された仕込み扇子が散らばっていた。

【続く】

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