111.「カタカムナが読み解く美感電圧について」

 今日はカタカムナ人が考えていた美感電圧の事について書いていきたいと思います。
 分子や原子、光量子等に当てはまるものを予言していたとか、光が粒子である等というような、アイデアをもった人は、紀元前の昔から存在し、さほど珍しい事ではありません。そして、それらは、単に個々の見解にとどまる場合もあり、又、一応その人なりの字宙観を以て体系化され、あるいは又、社会的・政治的・精神的な問題とも関連した、哲学思想に構成される場合もありました。このように、一般の常識からすればカタカムナの「直観物理」といえども、せいぜいそれらと大同小異のものに違いないとよく読みもせずに片づけられてしまいました。
 しかし、もしその程度のものにすぎないなら私達が殊更にとりあげるにも及ばないので、そのような程度のものでは決して無いという事を心ある人々に正当に説明するのが、私達訳者の立場なのです。私達は、あくまで批判者であり紹介者であって審判者ではありません。天然自然の美的成り立ちや美的機能構造天然自然というもの自身に、「美」の意識はないけれども、天然自然のなす技、つまり、空や雲や星や海や山や石や花や鳥や人体等のスガタに「美」を感じ出したところに人間の文化の発祥・人間的心情の芽生えがあり、その「美」とは何であり、どうして天然自然が、このような「美的」な成り立ちや、「美的」なハタラキを示すのか?を解明する度合いや様相を以て、その民族の文化レベルやニュアンスが表れると言えるでしょう。
 絵や彫刻や音楽詩歌等の芸術とよばれる分野は、直に、この「美」を指向し「美的なワザ」に参加するものでありますが、「美」は芸術や文学や美学等だけが扱うものではありません。各種方面の分化発達した学問や技術も又、人々の日常生活も、要するに、この天然自然の「美」に感応し共鳴するまでに内容が充実するのでなければ、真の文化とは言えないし、科学も、天然自然の美的機構も機能と構成を、充分に説明できるものでなければならないと思われます。
 画家が対象を見つめる眼は、画家の自由な選択にまかされてはいますが、しかし、ここぞと思ってキャンバスをすえて眺めるその場所が、実は、その辺で最も電圧の高い地であるという「美観電圧」の物理と一致するのです。則ちそこから眺める景色が最も美しく、人は、そこに立てば最も快くなり、それを「美」と感じ、画家は絵ごころをそそられるわけです。
 そして、そこで描かれる美の創作には、画家個人の能力だけではないその地の高い電圧、則ち、アマココロ(アマ始元量の微粒子)の「アマウツシ」があります。「天才」という言葉をつくった人は、まさにこの、「アマのハタラキ」というような直観があったのでしょう、仏像を拝するにしても、最も崇高な美を感じさせる場所があり、家を建てるのにしても、ものを置くにも最も安定した落着きを得る場所や方角がある。それに叶えば、人は健康になり精神も安らぎ何よりも気持ちがよくて、即ち、そのような場所は美し
く、そこにあるものは「美」を感じさせる美的機能構造をもつのです。
 カタカムナの上古代人は、電圧など計らなくても、自分達のスナオな勘によってそれらを知っていました。「イヤシロチ、ケカレチ」も我々は、電圧計で測定してはじめてなるほどと領くのですけれども、とにかく科学者が、現象面に表れたものや実用に役に立つもののみを追いかけ、手におえぬものは勝手にカットし見えないものは無視し「美」などは科学が扱うものではないという態度では困るのです。茶の湯の手前を「美」とみるなら、懸命に働く人々の姿や心をこめて語る人の顔からも「美」は発散しています。「美」を扱う筈の芸術や文学の作品に美でないものもあれば、「美」を扱うつもりのない学者の論文が、格調の高い美しさを示すことがあるのもおのづからその人々の人柄の「美的」レベルを表すものであるのです。

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