51~55 全公開まとめ記事 カタカムナが解き明かす カタカムナと古事記との関係~カタカムナが解き明かす カタカムナ文明 現代もまだ作れない 日本古鏡の技術

51.カタカムナが解き明かす カタカムナと古事記との関係
52.カタカムナが解き明かす カタカムナ文化の概説 カタカムナ人の表象物
53.見えない世界の認識 八咫鏡 カタカムナ図象 認識の訓練が幸運をつかむ源泉
54.カタカムナが解き明かす 互換重合 対向発生  カタカムで 眠っている脳を開く
55.カタカムナが解き明かす カタカムナ文明 現代もまだ作れない 日本古鏡の技術


51.カタカムナが解き明かす カタカムナと古事記との関係


カタカムナと有名な古事記との関係について書いていきます。

古事記については我々が大いに認識を改める必要性のある問題点だからです。

それは、カタカムナという文明や文化の内容が、超古代から所詮口伝によって伝えられたものではなく、上古代人が創造したカタカムナと称する音標文字による記憶として、上古代代々により、かきうつされて現在に温存されていたという事実です。

私たちの判断では、そのカタカムナの記録は、古事記の序文に記されています。

「先代旧辞」の日本の異本の範疇に入る記録であったと思われます。

古事記によれば旧辞の書物は、真実を誤って伝えているということになりますが、恐らく上古以降の後代人には、カタカムナの音標文字が読めず、その記録内容は理解できなくなっていたと思われます。

一般に、上古以降の人類は、直感的に真相を掴む「直観知性」が劣化しました。

そして、変わって進化し始めたのは、思考性能で判断する「思考理性」です。

しかし直感知性に変わった思考理性が幼稚な時代は、(神秘思想)が人類に共通した思念となりました。

我が国において後代人もその例外ではなく、上古代人が把握した高度の直感物理をときえなくなったのです。

そして、上古代人の伝えた直感物理の用語を、神秘思想で歪曲して解釈し、今日古典として伝えられているような「神話物語」に置き換えてしまったものと思われます。

その意味で漢文字に改められた古事記は、上古代人の高度の知性文化の深層を誤って伝えるこの傾向にとどめをさす結果を招くものとなったのです。

しかしそれにしても、神話に登場する神々の名が、私たちが直観物理を考究する上に確かな手がかりとなったことは不幸中の幸いでした。

たまたま平十字より私たちの手に伝えられ、解読するに至ったそのカタカムナの文献とは、日本に現存するカタカムナ神を奉祀する人たちが密かに保持していたものです。

ところで、古事記の記述については、古来多くの論議がなされてきましたが、私達が最も重要視する点は、即ち古事記編纂の原資料となった「本辞、旧辞」言われるものが、どのようなものであるか?

漢字渡来以前に、それらのものがどのような文字で記されて伝えられていたか、という点に関する学者の追求は、はなはだ不徹底なものでした。

そのために一般には古事記日本書紀が、日本の最古の文献であって、それ以上以前に日本には文字がなく、語り部による口伝えのみだったかのごとくに思われています。

今日の進歩的学者の研究によっても、旧辞本辞の選録ということを「漢字の読み方のおんくんの違いや」政治要件、漢字と初期の頃の関連のから、そのようなことも当然あったと考えられますが、古事記の原子料の問題は、もし仮に古事記について漢字の音と日本語の君との違いとかでかいするとしても、それならばその漢字と漢字に書き写した原資料があったはずです。

そしてそれが、語り部の口伝だけでは決してなかったということが私たちのカタカムナ文献解読によって、はっきりと判明したのです。

そして、古事記編纂の原資料となったものにこのカタカムナ文献が入っていたこと。

しかし、当時すでにその解読は不可能な状況にあったことが、明らかに推定されるのですが、どうしてそんなのことになったのかという点になると、それは今のところ計り用のないことで、大きな天変地変か民族の闘争などが考えられます。

今わずかに、古事記に残された文面から引かれるもう一つの点を挙げるとすれば、稗田の阿礼に勅語して読みならはしめたとあることです。

おそらく彼は、当時の最高級の学者として、漢字の文字に通じていたに違いありません。

しかしカタカムナの歌の伝統は既に途絶え、神のなや国や島のなと伝えられていた当時の判断に従うしかなかったと思われます。

もし、この時カタカムナ文献の意味が正しく読まれていたら、それは天皇家の方にとってなんら抵触するものではなく、討伐されなければならない理由はなかったのです。

それどころか、もしカタカムナ文明の伝統が正しく伝えられていたなら、後の日本民族のあり方は根本的に違ったものになっていたであろうと思われるほどのものです。

しかし、何らかの形で保存を図るべきであったと思われますが、いまとなってはしかたのないことです。

少なくとも意味不明の者は、そのままの形で残しておくべきであったので、現代の古事記以前の資料はすべて失われ、日本最古の文物と言える正倉院にも全く見当たらず、飛騨の阿礼も殺されたという歴史の事実は極めて遺憾なことでした。

しかしながら、当時選び抜かれた隠された人に思われた「本辞旧辞」は、その一部が数千年間、世に出る機会を待って秘弊されて守られていたのです。

カタカムナ文献のみならず、多くの神代の古文書が敗戦後の天皇家に対するタブーの解除と共に、各地から出現し、さらに一方では新しい考古学の発見によって、弥生縄文時代より数万年前にすでに日本の地に高い文化を持つ民族の存在したことも判明しつつあります、というのが現状です。

戦後それらの古文書の研究も表面化して進んでいますが、私たちのカタカムナの文献が他の古文書とまったく趣を異にする点は、まずその年代は桁違いに古いことと質的にも非常に高度の文明的なようであること、さらにその表現方法が、他の古文書の如き単なる象形文字まがいの神秘的な音標文字の脱いではなく、現在理学も及ばぬほどの高度な物理的内容による抽象文字を持ってなされているという点です。

後代のいかに優れた 学者といえども、このカタカムナの文献という資料なしに現在伝えら れている古事記日本書紀などを持って、日本の上古代を正しく究明することは不可能であったはずです。


52.カタカムナが解き明かす カタカムナ文化の概説 カタカムナ人の表象物


我が国超古代には、数多い物理の表象物が作られ、後代に残し伝えられている内容について書いていきます。

鋭い直観と巧妙な抽象の仕方で、それらの表象物は天然自然の物理を模型的な形で表現しています。

その中に三種の神器と言われるものも含まれ(カタカム)抽象方式の表象物と、(フトマニ)抽象方式の抽象物に分類でき、すでに述べたように、我が国超古代のカタカムナ人は天然自然の複雑混沌の相(スガ タ)から「共通の真相」や「実相」を鋭い直観によって描き出し、その抽象内容を秩序化し、極めて簡素に整理整頓していました。

その「抽象の原理」を人々にわかりやすく工夫して示したのが「表象物」なのです。

ところがそれらの表象物に対し、上古以降の後代人は、古事記編纂の当時すでにその抽象の意味が解からず、そのような 表象物を作った 超古代人の 心は 理解出来なくなっていたと思われます。

近代現代の学者たちにとってもそれは 謎のままです。

例えば、単玉形式(一つの丸いタマ)、七つ種類のかたで表現した「ヤサカ ノマガタマ」や 双珠形式(フタツのタマ)、十一種の型で表現した「イホツノミスマルノタマ」など、その中に三種の神器と称されるものも含まれ、(カタカム)抽象方式の表象物と、(フトマニ)抽象方式の抽象物に分類できます。

所詮勾玉に託して表現内容を理学的な内容とは気がつかなかったからです。

既に我が国 の方が述べた様に、カタカムナ人は天然自然の複雑混沌の相(スガタ)から「共通の真相」や「実相」を鋭い直観によって描き出し、その抽象内容を秩序化して極めて簡素に整理整頓していました。

一般の人々は支那から伝わる前に日本に勾玉があったと思っていません。

また勾玉とは、古代人の装飾品くらいにしか理解していません。

くるりと曲がった形を考えています。

今日天皇家に伝わる、三種の神器がいかなるものかはわかりませんが、おそらく古事記当時、すで にその表象物としての意味が分からなくなっていたのです。

カタカムナ人の表象物としての勾玉とは、マノタマの抽象であり、それは七種の球形で示され、大宇宙創成の相の直観を表象していました。

それに対してミスマルノタマは、十一種の双珠によって地球上の生命発生の相の直観が示されていました。

その意味する内容は、現在まで全く謎でありましたが、カタカムナの代表的な表象物です。

「ヤタノカカミ」と「フトマニ」について再び「カタカムナ」の図象文字についても説明していきます。


53.見えない世界の認識 八咫鏡 カタカムナ図象 認識の訓練が幸運をつかむ源泉


日本の天皇家の宝物ものでもある、八咫鏡について書いていきます。

上古代人の悟りの特徴は、すでに述べたごとく、現象に対する現象背後の(アマ)始元量の存在を把握したことであり(アマ)の諸性質を知ったことです。

そして、時間空間量の統一や生命と物質の統一など幅の広い「自然さ」の物理を体系化したことにあるのです。その物理のサトリを、上図に示すような抽象的図によって表現しています。

その一つは「ヤタノカガミ図象」または「カタカムナ」と言われる図象であり、他の一つは「フトマニニ」と言われる図象です。

文献の原本にはこの図象を中心にしてそれぞれ次のように記されています。

ヤタノカカミカタカムナカミ フトタマノミミコト フトマニニ

この両図象は部分的にも総合的にも一切の物理関連を巧妙に説明したものであり、カタカムナの物理を知る規範を示しているのです。

しかしこの物理のサトリは、少なからず現代人の思考を超えた点があり、現在人の想念とは異なるところが多い。

そこでこのような図象を表現している物理を説明するためには、かなり横道に入った関連を注釈する必要があります。

まず、ヤタノカガミという図象の名から述べてみましょう。

全体としての意味は「飽和安定または恒常保全の極限率」という自然の摂理を表明しています。

「ヤタ」のヤは図象においては、八個の小円で表現していますが、「八の数値で全ては規制される」という自然則を意味しているのです。

そして、八百、八千代、すなわち「数の多い世界」という思念を表す言葉、ヤでもあり、飽和安定やすらぎの思念を表すヤでもあるのです。

また、ヤタのタは類(タグヒ)のタ、匠のタ、確かのタなどに表れる、思念が基底になる。

従ってヤタとは、自然における無限的に多い万象万化は、八の数で飽和安定した姿で有り、確かな存在となるというわけになります。

すなわち八が恒常安定の姿であり、自然の摂理であるという想念を表しているのです。

そして鏡というのは、模範の意味です。このことは現代理学においても一致しています。

即ち八の数字で規制されるという自然則を「オクタント」と称していますが、オクタントという言葉は、自然の摂理一般の代名詞ともなっています。

八の数で全てのものを 規制されているということの最もよく知られている例は、音における8段階オクターブであると思われます。

また、化学に参与する原子外側の価電子数の(オクテットタイプ(八隅位型)とは、原子が単音で価電子八個を持つ場合で、アルゴンガスのように他の原子と化合しない飽和安定原子であると言えます。

また、原子の化合により、分子における価電子の和が八個に達すれば 化学的飽和安定の状態となるなどが八規制の例です。

また元素には、周期的に同性質となる周期律があります。

この同じ性質を分類すれば、ゼロ属から七属までの八種類という相に規制されています。

その他、物質の結晶構造における対称軸、対称面、対称中心、および四面の廻映軸など、八種類の対象要素が規制され、いずれもオクタントとの法則にしたがっているのです。

宇宙空間の構成などの、天体の配置も実はでたらめにあるのではなく、オクテットタイプになっているのです。

また、日本語には環境全周を八分割して八方という八法固めとか、八法破れ、八方美人、 等々 の言葉はいずれもオクタントとの法則に従っています。

ヤオ、八千代、八重、八十八屋などという言葉も、数の極限的な意味なのです。


54.カタカムナが解き明かす 互換重合 対向発生  カタカムで 眠っている脳を開く


今日はカタカムナ図象の(カタ)と(カム)「現象」と「潜象」(見えるも の)と(見えないもの)についてカタカムナ人の考えを書いていきます。

カタカムナ図象で残されたカタカムナ文明は、カタが現象でそれはこの世の半分で、目に見えないカムが潜象という残り半分という意味です。

現象界には現象の背後界が内在するという意味なのです。

この世には、現象とアマ始元量を発生させる潜象の世界と我々が五感で見ている現象は、その中の半分で現象に内在するアマナ(アメ、アマの分身)を架け橋として、絶えずアマと交流することによってカムからのエネルギーを受けて存在するものなのです。

それをカタカムナ人は図象符で表しています。

図象では「アマの全象」を大円で表現していますが、アマの正反の循環運動を縦線の象で示し、天然性のめぐり運動を横線の象で示しています。

同時にそれらの半円の組み合わせは、現象と潜象を表すものですから、両方を組み合わせた正反対向の背後にある「自然発生」の姿を表現しています。 

別の意味では十字の横線は、地界線として物質系を表し、十字の縦線は人界腺として生命質系を表しますが、その両系をあらわす十字の象は、物質と生命質の潜象基底にある「心(アマノ微粒子ココロ)の正反配偶の交わり」を示し、「物質と生命質の自然発生のサトリ」を表明しているのです。

そしてまた、十字の縦と横の線は、時間空間をも意味し、十字象には「時間空間の重合」の意味があり、「時空量を統一した《マ》は 時空量をを重合し、その旋転と循環によって時間量と空間量とが非常な高速度で交互に現れる」という「時空の互換重合の自然則」を表明している事になります。

そしてまたその互換重合の自然則は、万物万象に受け継がれた本来性でもあるというサトリを、この十字象によって 表現しようとしているのです。

その他、十字象には万物於ける「正反の対称性」という自然則を表し、正と反の旋転により、正反性は互いに引き合い、希求(アガメ、イヤマウ心情)示し 親和(親しみ、愛しみ 笑み 惜しむ心情)という自然則を表しています。

次に、図象において大円の円周が八個の小円を貫通している象は、(アマ)が(アメ)に微分され(アメ)は(アマ)に統合されるという相を示しています。

このアマアメにおける微分統合性ばアマ始元量から分化した一切の物象に受け継がれた本性であり、「微分の 個々性と統合の全体性」という自然則を表現しています。

小円八個に対する個々の呼称 (ヒフミヨイ ムナヤ)は、物象の分化極限率と言う自然則を表しヤの極限からヒに戻り十字に帰納する意味のコトの呼称は、物象における極限循環率という自然則を表している。

以上の説明を整理すれば、次の如き八種類自然の摂理を表す事になります。 

1 物象における旋転循環の自然則
2物象における互換重合の自然則
3物象における正反対称性の自然則
4物象における正反性の親和希求の自然則
5物象における微分統合性の自然則
6物象における八数飽和安定の自然則
7物象における分化極限律
8物象における還元率(極限循環律)

またこの図象は、カタカムナ人が創造したカタカムナ声音符とその声音符を組み合わせた言葉を示す図象文字との基準になった図象でもあります。

世界に類のない、物理的造語法と合理的声音符を創造した文化は、カタカムナ文明の中でも最も高度なものであり、絶妙とも言うべきものです。

声音符の造り方はカタカムナ基準図象(ヤタノカカミ)によって表現した八種類の自然則を巧みに一つの唄に読み込み、その歌詞に誘導されて四十八の分割象を作り、それぞれに四十八の音を振り当てて作られています。

この様に、カタカムナは自然則の言霊音霊なので、学ぶ、聞く、唄う事によって、自分の潜在脳が開くので真実の幸運への道が開かれます。 


55.カタカムナが解き明かす カタカムナ文明 現代もまだ作れない 日本古鏡の技術


カガミという言葉をカタカナ人がどのように考えていたか、どのようなものを作っていたかについて書いていきます。

カタカムナ人とって「カ」は形の意味もあり、カミは起元の意味であります。

カガミとは「カタチに現れる根元」の意味からカタチ写す、手本とする、規範鑑みる、表象する意味になるのです。

なお日本の古鏡について言えば、古事記から推測して鉄製であったと考えられます。

カネと言えば鉄を意味し、銅ではありませんでした。オカネは黄金「コガネのことです」。

ロンドンの大英博物館には日本の古鏡があり、ある日ドイツの若い科学者がその鏡の前に立っていた時、おりから差し込む日光がその 鏡を通過して、こちらからは見えない裏側の文様が後ろの壁に映し出されているのを発見しました。

一般に鉄は錆びやすく、また鉄に光が当たれば 吸収散乱するのは当然であると考えられていた時代 ですから、このドイツ人が驚いたのも無理がありません。

これは当時の新聞に報道され、(明治末期)の事実でした。

このことを今なお記憶しているひともあります。

その後、軍の情報として知り得たことは、ドイツ軍は密かに日本に人を派遣して、古鏡を買い集めその製法を調べたが、ついに今日までその謎は解けていないということです。

日本古代の製鉄法の流れをくむ、多々良方(タタラホウ)の優秀さは今日も認められていますが、すでに カタカムナの上古代人はドイツの科学者を唸らせた錆びない特殊な製鉄の技術を持っていたのです。

このことを彼らは、ミトロガヘシとしてカタカムナの唄に述べています。おそらく、日本は火山国だったから、超古代人の生活圏内に自然鉄が存在し、それによって彼らの製鋼鍛造などの知恵が発生したのだろうと考えられます。

日本の古代には、大陸からの銅文化以前に鉄があって、三種の神器の鏡にはこのヤタノカカミの抽象図象が鋳込まれていたに違いないと思われていますが、なお我が国上古代の勾玉も鉄製であり、宝石ではありませんでした。

このような技術は伝統技術として、刀や包丁などになお生き続いていると思われます。

現代でも日本のようによく切れて、研磨もできる包丁を見つけることは出来ません。

古鏡のような鉄を再度作れるとしたら、潜象を理解した超高温やアマ始元量を扱えるまでにエネルギー効率を高められる科学者の出現を待つしかありません。 

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