91~95 全公開まとめ記事 カタカムナ人 自然との共存 何故日本だったのか~カタカム時代から続く 日本語 造語方法

91.「カタカムナ人 自然との共存 何故日本だったのか」
92.「カタカムナ人 直感の力 現代人に伝承する困難」
93.「カタカムナ文明と現代物理学の重合 による新文化の創造」
94.「カタカムナに戻ろう 天然自然との調和 欲望と願望を物理の方向へ正せ!」
95.「カタカム時代から続く 日本語 造語方法 」



91.「カタカムナ人 自然との共存 何故日本だったのか」

今日は、神秘性も重視性も全くないカタカムナウタイの書いていきたいと思います

世界中で、日本ほど火山の多い国はなく、日本列島くまなく火山にとりまかれ、火山の数は158、噴火記録あるもの48、地震、台風、大水は年中行事的で、雷も多い。まことに、海にかこまれ、地球上のあらゆる民族のふきだまりに位置し、食物に事かかず、山川草木、四季寒暖の変化にめぐまれて、混血、熟成された日本民族にとっては、このような自然環境が、つとに、彼らの経験を多様にし、直観を練磨する大きな条件となって居たことは充分に考えられます。
そして、上古代人といっても、我々の現代と異なる人種ではなく、人類は少くとも十万年前、既に現代の我々と変らない発達をとげて居たとされているのです。現代人も都会生活を避けて、大自然のフトコロに唯一人くらして、大地大気の息吹きを直に体覚してみたなら、その想像が、決して私達の荒唐無稽な独断ではないことを、同感されるに違いありません。

カタカムナの上古代の世界にふれた私達には、エジブトやスメルもギリシヤやウパニシャッドも、我が国の神代さえも非常に人間クサイものに思われます。それらの、一般には「古代」と言はれるものは、カタカムナの世界からみれば、古代と言うよりはむしろ我々の方に近く、質的にも我々の近代と同種であるという気がします。
太陽を最高神と崇めるのが古代人に共通の心理といわれますが、しかし、カタカムナの人々にはそのような偏見はなく、太陽もアマの働きに関わる大きな秩序の中に観て居ました。

我々にとって太陽の恩恵がいかに偉大であろうとも、太陽がすべての根源ではないことを達観して居たのです。そこには所謂古代人に共通の神秘性呪術性は全く感じられません。私達はこの感動を、現代に私達よりも有能な人々にカタカムナの直観物理の把握内容を伝えたいのですが、私達は過去の知識や概念を、一応サラリと払拭して切り換へられる人か、又は、全く専門知識を持たなかった為に、素直に受け容れられる人かを対称に話しかけるしかありません。過去の概念を固守する智識人には、私達のいかなる誠意も全く無力なのです。
苦労して獲得した知恵を、自ら否定することは、……もしそれがもともと純粋の好奇心に基く場合であれば何の抵抗もない事でありますが、……普通には、非常に勇気の要ることです。
まして世間の通念に反してまで、それをなすには、大きな勇気以上の決意がなければ叶わない事です。
あからさまに言えば、私達は、カタカムナの直観物理を学ぶことにより、現代の知識人たちの知識というものも、案外シャープなものではなく、基本的なところはアイマイのままでお茶をにごし、あるいは無意識のうちにゴマカシながら築きあげた楼閣を地位して居る場合が多いことを感じるようになりました。
又、たとえ誤りがあっても社会的な権威で通用し、専門外のことにはロ出しせぬのが学者の良識とされ、そして、生活に忙しい一般人には批判能力はありません。あるいはここにもる「知らぬが仏」の安全装置が、無意識の裡にオートマチックに彼らに働いて居て、危険なところまで知ろうとはせず、めいめいの立場を自衛し、将来的なあるいは、努力しての「善意」によってそれがカバーされて居るのかも知れませんが……しかし、いやしくも真実を探求するに当っては、知らぬが仏ではすまず、まして基本的な間違いをウヤムヤのまま、善意や努力や、権威の上塗り等で、頑張り通すということは、正当ではないと思います。

ところが、もし敏感にその欠点や罪を感じたり指摘したりすれば、身に危険が及ぶ「さはらぬ神にタタリなし」になるのもムリがないことです。かくて、いつの世にも、正論を言う者は無視されて表面には現はれず、地に潜んで、民族の 『根』を育てるコヤシとなって居たのでしょう。日本民族が今日まで存続し得たのも、表面に現れた歴史のかげの、こうした人々の支えがあったからこそと思われます。

今日はここまでです。

92.「カタカムナ人 直感の力 現代人に伝承する困難」


 
今日は、数日前に「人間が地球に住めなくなる日」という書籍が発売されたことについて楢崎皐月先生と、宇野先生はそのことを心配して、昭和46年に文章を残しています。そのことについて、書いていきたいと思います。
 
今日、人類の波亡の危期が云々されるときに当って、この時代に生まれ合せ、はからずもカタカムナの文献に啓発された私達は、我々人類のとりわけカタカムナの人の子孫としての日本民族の保全という、当然の願いから、この際、生物のすべてに通じる正当な直観知の大事さを、人間智の尊重に優先して、過去のゆきがかりにこだわらずに、素直に認める態度を、人間の常識とすべきだという、まことに当たり前の反省のできる心ある人々にのべて居るのです。
 
だからと言って、科学智識が無用だなどと言うのでは勿論ありません。直感性能の衰えた我々は、カタカムナの直観物理に学ぶことによって、劣化した直感では、ともすれば陥りがちな錯覚や誤解を正す役を、理性的な思考や知恵が経験的に果すことで、相伴って人間のマトモな 『知識』が構成されるということを、民族の根となる、こころある人々に訴えたいのです。
 
それは、自分自身のスナホな直観に照して観じるという態度を、優先させてほしいということです。この場合の直観とは、単なる動物的な直感のみではなく、自分自身の過去のあらゆる経験のこもった、体験的な 『勘』として働くものです。
理性的な 『知識』による判別は、素直な 『勘』を補助する参考として役立つべきものです。
とは言っても、刺激になれ、忙しさに追われる現代人には、「一々そんな事をして居るヒマは無い」とうそぶかれるかも知れません。
ところが、実は、知識による理性的判断よりも、体験的直観による 『勘』の方が、どれだけ敏速に働くか知れないので、その為にも、正しい 『勘の養成』則ち相似象学に基づく鍛練が、最も能率良く、楽に、しかも、マチガヒなく人生を生きるコッとなるのです。
 
スナホなカンと、厳正な批判眼とは矛盾するものではありません。真の批判眼は、真のスナホな態度から養はれ、刻々に生命を保存して、幸福な寿命を全うする 『勘』となって働くものです。ぬらゆる学問、智識、芸術、技能等の習得の前提として、私達は、この 『勘』の養成という事を、人間の子の教育の基本とすべきであると信じて居ます。
 
「本能」の正当な鍛練が、「勘」の養成につながり「知性」を育てる。思えば、一般に、明治以前の、学問の普及しなかった時代にも、又現代にも、むしろ庶民の人々の間に、オヤからコへと代々教へつがれて、民族の根のように浸透して居たものが、この 『勘』であって、おそらく日本のみならず、どの民族に於ても、こうした基盤が、全く目立たないながら、危っかしい近代化のカゲに在って、人類を支へる力となって居ると思はれます。
 
 
今日はここまでです。

93.「カタカムナ文明と現代物理学の重合 による新文化の創造」


 
今日は、カタカムナウタヒ、現代物理学の重合による新しい文化の創造について書いていきたいと思います。
 
孔子の教えも釈迦の教えもキリストの教えも、又、古今東西のもろもろの宗教や哲学の思想も、要するに、天とか、仏とか、神とか、霊とか、絶対、太極、永遠、根元、秘奥……等の用語によって、 『アマ』を象徴し、 『アマの心』に相似することを説くものに他ならなかったことがわかってみれば、自分の宗教のみが正しく、自分の認識のみが真理であるとして、さまざまのトラブルを起こす必要は全く無かったのです。
又、「真理はヒトツ」とか、「登る道は異れども同じ高嶺の月をみる」と達観した人々も、それなら、その真理とは何か?同じ高嶺の月とは何か?と追究されれば、漠然とした、文学的神秘的表現にまぎらわすしかなかったのも、実は、それらの人々が、 『相似象学』という、「ハッキリとした認識」をもたなかったからです。
 
私達は、現代の自然科学を否定したり、敵対するような、大それた、又ある意味では、「前近代的」に素朴な考えで言って居るのではありません。
そうではなく、むしろ私達は、自分自身科学を学んだ近代人として出発し、たまたま、はがらずも触れたカタカムナの文献により、深く自らの態度を反省させられた立場からの発言なのです。
 
要するに、自然科学が、その従来の態度のままで、生命や宇宙の因を実証的につきとめようとしても、それは不可能なのだという事実を指摘したいのです。
なぜなら生命や宇宙の根源は、現象界の中にあるのではなく、それは、天然(アマ)の潜象の中にあるといふ、カタカムナの直観物理の方が、正しいと思はれるからです。
天然(アマ)に関して、「自然科学」が、実証的になし得ることがあるとすれば、それは、そうした手法では、天然(アマ)の構造や性質は、把握できるものではないという、「逆」の証明のデータを揃えることであると思います。
自然科学は文字通り「自然を探求する学」であるから、いはば自然が天然の「一部」であるように、近い将来に於ては、自然科学の諸部門は、天然を相手とする 『天然科学』の一部分を受けもつことに、それぞれ整理されるであろうと思われます。
 
カタカムナの直観物理は、この 『天然の哲科学』の成立の基礎の、草分けとも言うべきものなのです。
要は、その「直観物理」なるものが、低次のひとりよがりな信悪性の薄いものではなく、高度の自然科一学をマスターした人々にとっても魅力的あり、信頼するに足るものでなければならぬという事です。私達は、このカタカムナ文献が、立派にその期待にこたへてあまりあるホンモノである事を、アヤマリなく伝へるべき立場にあります。
 
私達は、私達の遠い祖先のカタカムナの上古代人が、その豊かな鋭い直観力によって示して居る英知を、近代人の知性を以てとりあげ、自然科学の知恵をも包含する、人類の真の 『知恵』に結集してゆくことにこそ、カタカムナ人の手孫としての当然の責務があると思うのです。
 
今日はここまでです。

94.「カタカムナに戻ろう 天然自然との調和 欲望と願望を物理の方向へ正せ!」



 
今日は、天然自然の物理が人間の欲望と願望によっていかに絶滅の方向に進んだかについて書いていきたいと思います。
 
人間にも他の動物と同様に、生存を保持する上に基本的な本能的なハタラキがありますが、人間の子のように未熟な防備で生れては、オヤの第一の役目は、ヒタスラ子を危険から避けさせ、子に危険を教えることになります。乳幼児をもつ母親が、四六時中発する言葉は、「イケマセン」「ヤメナサイ」「ダメ!」という言葉が入っており、反射的に危険を避けさせ、又経験的に危険の予知をサトラせようとするからです。
人間の感覚機能も大脳のハタラキも、要するにまずこのような方向に沿って発達し出したに違いありません。
しかし、やがて人間は、身の危や損得とは別に、身の周りの森羅万象の存在に関心が向かい、「何だらう?」「どうしたんだろう?」と背のびしてのぞきこもうとする強い好奇心の発動にまかせることになります。もしこの時、人間の直観力が豊かで鋭ければ、その自分の直感に感じたことを追究するのが当り前のことです。
大きな木の茂った高い山に登れば、何か全身にふりそそぐ、目に見えないモノを感じて快い、とすれば、「それは何だろう?」と思う。場所によって気分の悪くなるところ、元気が脱けてゆくように感じられるところがあるとすれば、「それはどうしてかしら?」男女の指先が触れたとき身内に流れこむこのヒビキは「なんなんだろう?」
こうした場合、直感の鋭い人なら、自分の感受したものから追究が出発し、それが次第に発展するのが自然で、直感に感じないものに関心がソレル暇はないと思われます。
 
まことに我々の身の周りに生起して居る現象事象は、複雑微妙でありますが、しかしながら、そこに大きなマトマリがあり、秩序があり、いくら追究しても興味の尽きるものではありません。
「このナゾを解きたい」という純粋の好奇心は、人間の最も根元的な思いであると思われます。こうした純粋な好奇心による追究は、いつか、それらの森羅万象のうちに、共通的にハタライて居る統一原理を直観する。それが物理、理であって、結果からみれば、純粋な好奇心というものは、そうした天然自一然の物理を求めて居たのだということになるのです。
 
ところが、人間が生物進化的に体覚や直観力が劣化し、欲望が派生してくると、直感の鋭い人には考えつかないような、飛びこえた観念が走ることになります。そのような観念の想像には、物理的根拠は無いし、なくても気にならないのです。しかも一般人は、直感外にハミ出た神秘観を好み、又、近代人は、スナホな好奇心をソレて発達した、理智的な思想や学問の力を、直観知の表出よりも、高等なもののように尊重しがちなのです。
しかし、ものごとの真相の把握は、何と言っても、鋭い直観力に基くものでなければならない事を、古来の優れた思想家は心を一つにして洞察し、実証して居ます。
「何だろう?」といふ人間のコワイモノ見たさに発した絶粋た好寄心が、「どうして?」「なぜ?」というスナホな疑問からソレて、「何の為に?」という欲求に任せて働き出すと、際限なく逸脱してゆく。この方向に人間的な願望が結びつくと、「神秘思想」が発生するのです。
 
一般に形而上学といわれるものにも、神秘思想と結び、あるいは自然科学と結び、大かたの宗教もなお神秘観や自然科学思想をまじへて居ます。「形には見えない、象をこえたものを追究する」という「形而上学」の意味が、 『カタチには見えないけれども、確かに実在するモノを直観によって探求する 』という本来の態度を超えて、超能力の超実在の神仏を想定してしまうと、真の形而上学ではなくなるのですが、現代もなほ、そのような神秘宗教や形而上学が多く存在するのは、「自然科学がいかに進んでも、それだけでは片付かぬモノが確かにある」という勘が人々にあるからです。
しかし科学では片付かぬものがあるという現実から、逆に追究して居るうちに、「こうあってほしい」「こうあるべきだ」という人間の願望や欲望が投影され、いつの間にか、人々の願望や欲望にかなう属性を具へた神仏が存在することになってしまいます。
 
つまり、人々のスナホな直感や庶民の勘で握んだ実在の『アマ 』の潜象の周りに、人間の願望や欲望の影像がくっつくのです。即ち、人々が、慈悲や、愛、衆生済度の本願、あるいは降魔の力等々、神仏の属性として居るものは、実はみな「アマの諸性質」であり、それを、人間の側から、そのように受けとって居たのです。人間の願望や欲望のあり方は、それぞれの好みによりさまざまでありますから、いろいろのニュアンスの神仏が出現するわけで、今では至れりつくせりで数え切れないほどの宗教神秘思想がありますし、科学も自分たちの限界を知らずに進み続けています。
 
しかし私達は、そのような各人の好みによる投影のイメージの、雑物をとり除けば、およそあらゆる宗教や形而上学の思想や哲学は、要するに『アマの相似象 』として観られると思って居るので、各人」の好みの問題にはかかはらぬことにしています。
 
今日はここまでです

95.「カタカム時代から続く 日本語 造語方法 」


 
皆さん、こんにちは。天野成美です。
 
今日は、日本語の造語方法、特殊なその作り方についてカタカムナから作られてきた方法論について書いていきたいと思います。
 
それは、彼らの造字や造語の方法に無理がなく、彼らのスナホな生命カンに感受された内容と、それを表明する大送作用との結びつきが、極めて自然サの多いものであったために、私たちの態度が素直になりさえすれば、私どもの心や頭も素直に導かれるのでしょう。
 
ということは、我々現代人も、カタカムナの上古代人も、基本的には変らない精神構造をもっていたということになります。というのも、カタカムナ人のような同期の精神波動を子供の時から養成していなかった私達にとって、この解説の仕事は、文字通り、寝食を忘れ、筆活につくせぬ苦労を重ねつづけなければならないのですが、ただ、それは苦労には違いないが、少なくとも過去に覚えがある大脳酷使の自虐的な疲労感とは違います。
なぜならありがたいことに、私たちはうつしの悟りがあり、常に生命力、普及の術を物理としてわきまえているからです。〈カタカムナ〉の山に登ろうとする読者に、私共がハッキリと言えることは、次の通りです。
四十八の声音の思念を身につけることが、くカタカムナ)のサトリを学習する最初の出発であり、それが又、やがて、長年の学習の最後の結実をみる際の、根源力となるものです。
 
そして又、そのことが、とりも直さず自分自身の直観鍛練の道と一致して、めいめいの人生を全うする所以となる。四十八の声音の思念の学習は、決して単なる 『古代語解読の為の方便』にすぎぬものではないということです。
 
このことは、実験者が、おそかれ早かれ実感する事実なのですが、しかし実は、このような体験は、くカタカムナ〉を知らなくとも、人間の精神波動が成熟方向向上過程をたどれば、誰でも実実感する普遍的な現象ですから、他の人々の宗教や、人生観とも重なり合うものが多いのは当然です。ただ、他のものには、〈カタカムナ〉程の「根拠」が無い為に、危さ、もろさ、あわれさ、等の、不徹底さの故の弱みがどうしてもつきまとうのです。それでも「知らねが仏」ということもありますが、しかし真に微底した<サトリ>を根拠として生きることのたしかさは、たとえようもないものであり、日本人なら出来る筈のことなのです。
 
少くも潜在アワ量のある者なら、人生の真の価値や目標が、才能や物質や名声にあるのではなく、〈ヒト〉となることである、という人生観の根拠を「物理」として知らされてることが、どれ程の救いとなるものでしょうか!それにつけても、その事に関連する具体的な手段として、私共がようやく知り得た様々な生活技法を、何とかして読者に伝えたいと切実に思っています。
しかし、いかにカタカムナのサトリには「生命力補給」や「直観鍛練」の術があるといっても、しかし真にその恩恵を享受し得ること、どうしてもカタカムナのサトリを物理として認識している者でないと、その効果が限定されてしまうばかりでなく、逆効果の危険が多いものなのです。
物理は知らなくとも、スナホな気持で正直に実行すれば、必ずそれなりの顕著な効果はあらわれる。しかしその為には、始終傍について指導し、修正する者が必要となります。
 
今日はここまでです。


 
 



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