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『慶長之掟書』其ノ二!☆江戸幕府の宗教政策と「掟」


前回『慶長之掟書けいちょうのじょうしょ 』の続編です。

さて、
虚無僧の宗派、普化宗は一体いつ頃、どのようにその権利を獲得していったのかを探求しておりますが・・・


『慶長之掟書』は一体どういうものかというと、水戸黄門の超有名台詞「この紋所が目に入らぬか!」の印籠のようなもの。それは権力のシンボルである「三つ葉葵」を見て皆がひれ伏す、あの徳川家康の『御老中達』のサイン入り特権的優遇措置が盛り込まれている「掟書」が論より証拠であるという、そんなお話でした。



何故それが江戸後半までバレずに済んだのか?


『慶長之掟書』が承認(黙認)されていった経緯を探ります。



1665年(寛文五)7月、江戸幕府は仏教諸宗派に「掟」を出します。


これは諸宗派の違いを超えた共通の統制策。これによって幕府は仏教統制策を確立しました。


1677年(延宝五)12月、幕府の寺社奉行が虚無僧諸派本寺・末寺に宛に、法令を出す。これを延宝五年法度えんぽうごねんはっとと言う。
前回その第三条の説明をしましたが、その半年前6月に一月寺・鈴法寺が、寺社奉行側から働きかけがあったため、「掟十七條」を幕府に提出した。


それが、

掟〔普化宗門の掟〕


延宝五年(1677)六月

というもの。

こちらが『古事類苑 宗教部7』神宮司庁古事類苑出版事務所 編に記載されている〔普化宗門の掟〕掟。

『古事類苑』より
国立国会図書館蔵


内容を読み解く前に、ちょっと翻刻チェック☝️

気になる箇所が二ヶ所。

  • 〔普化宗門の掟〕とありますが、普化宗を名乗るのは1700年近くになってからなので、これは後から書き加えられたものでしょう。

  • 「右拾七ヶ條之掟」とありますが、数えると16条しか無い?


保坂裕興氏著『17世紀における虚無僧の生成』には17条で書かれていたのて、ただの行変えミスのようです😓 10条と11条が同じ行で書かれています。


古事類苑こじるいえん』とは明治政府により編纂が始められた類書、一種の百科事典なのですが、教訓として辞書が正しいとは限らない。ということですね。
虚無僧関連の情報ではままあること。

私の文章など、誤字脱字のオンパレードみたいな時もありますので人のことは言えませんが、後世に残すものと思うと気をつけねばと身も引き締まる思いでございます。



分かりやすく番号を付けました。



17条の主な特徴!


大部分は保坂裕興著『17世紀における虚無僧の生成』を参考にしています。


この内8条項(第2、3、4、5、7、8、11、16条)は、仏教諸宗派に出した「定」の条項を適宜改めたもの。

  • 仏教諸宗派と一線を画される側面があったものの、掟から見えるように仏教の一宗派として成熟していたということで、幕府は虚無僧集団を一宗と見為し、遅ればせながら他の諸宗派と同様、本寺末寺体制に編成した。これによって幕府は、末枝に至る虚無僧寺院とその配下の虚無僧を本寺に統轄掌握させ身分統制を進めた。


第6条 宗門如古法之夙晨月夕、看経看教、臥子起寅、天下泰平、国土安全、豊作長久祈祷専可勤

早朝から夜遅くまで、経を読み教え、子の刻には床に伏し寅の刻には起床する(午後23時〜午前1時には寝て、午前3時から5時起きる)生活をして、天下泰平、国土安全・豊作長久の祈祷に勤めるべし。

睡眠時間短い!


余談ですが、夙晨月夕しゅくしんげっせきによく似た四字熟語はこちら↓

花晨月夕かしんげっせき 春の朝と、秋の夜の楽しいひとときのこと。 「花晨かしん」とは、陰暦の二月十五日のこと。
雨晨月夕うしんげっせき 雨の降る朝と月の出た夕方。副詞的に用いて、折りにふれて、ときどきの意を表わす。


第7条 寺建立之時、十万壇を寄進、雖自力建立、可為其寺相応寺、

壇越の寄進による自力の寺院建立であっても相応にすべし。あまり派手な寺院を立てるなよということでしょう。


第8条 有由緒雖有弟子之望猥不可致虚無僧、若無據品於有之者能問起本決定、取證人可致師弟之誓諾事、

由緒の有る者が弟子になることを望んでも、みだりに虚無僧にしてはならない。
一方、各宗派の掟は「由緒の無い者が弟子になることを望んだ場合、みだりに出家させてはならない」と、逆になっているとのこと。

  • 幕府は仏教諸宗派の寺院に寺請制の機能を担わせるなどして積極的に人民支配に利用し、その限りにおいては温存。普化宗は、外の宗派と一線を画した厳しい態度で望んだ。

(『慶長之掟書』とは全く真逆のことが書かれていますね。要は武士などの上級身分だった人は入宗できなかったことになっています。)


第9条 従来行脚之弟子等、於先々一宿飲酒樗蒲可停止、附漫不可致夜行多語事、

行脚してる虚無僧は行く先々で飲酒、樗蒲(賭博)は禁止!

樗蒲ちょぼ】とは、中国古代のダイスゲーム・賭博で、後漢のころから唐まで遊ばれた。 サイコロのかわりに平たい板を5枚投げて、その裏表によってすごろくのように駒を進めるゲームであったらしい。 漢字表記は一定せず、「摴蒱」などとも書かれる。 後世には賭博の雅称としても使われた。

Wikipediaより



第10条 弟子等ニ大小刀不可為持、若他之虚無僧於是持は押置、急度可断師匠事、


弟子に大小の刀を持たせてはならない。そして他の虚無僧が所持していた場合には取り押さえて、師匠を糾弾すること。

(こちらも『慶長之掟書』とは全く真逆のことが書かれています)


第12条 縦雖為弟子数年在遠国為却回者能々問其意於他方失事なきに可差置事、

弟子が遠国を遍歴した後に寺院に差し置く時の規定で、帰ってきた者は十分に問いただし、間違いのないように寺に置くように。

第13条 他派之虚無僧致勤仕度由申者於有之は、堅遂糺明可抱置事、

他派の虚無僧を抱え置く時の規定で、よく糺明(罪、不正などを問いただし)し抱え置くこと。


第14条 五法相背弟子於有之は、決證據跡窺本寺可令擯罰 事、(私曰、寺院ニ脱衣擯罰ト云フ、)

五法とは

【五法】ごほう 〔名〕 仏語。
① 「楞伽経」にいう、有為、無為の一切の存在にそなわる五つの法。名(みょう)、相、妄想(分別)、正智(しょうち)、真如。五事。
② 一切の存在を整理・分類した、心法、心所法、色法、不相応法、無為法の五つ。五位。
③ 仏の理智を整理した清浄法界と大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の五つ。
④ 提婆が説いた妄法としての五つ。

精選版 日本国語大辞典

この五法のどれに当たるかは分かりませんが、これに背く弟子がいたら擯罰ひんばつ、つまり追放し罰すること。



第15条 江戸吹入之虚無僧於有之は、慥聞其師匠虚無僧之名急度断可致追却事、

江戸に托鉢・修行に入ってきた虚無僧がいた場合、師匠と虚無僧の名前を聞き、師匠にその旨を告げて追い返すことが定められる。この1677年の段階で、(よそ者の)虚無僧は江戸府内における托鉢・修行が禁止された。


虚無僧托鉢禁止?!

江戸幕府は江戸に於ける武家奉公人の確保と不必要労働者の農村への還流を行い、浪人の根絶につとめる。この頃は、まだ身分編成、組織編成が十分に身を結んでいなかったとのことで、

  • 1648年には出家・山伏・行人・願人の勧進(布教活動)、および高念仏・題目を禁止。

  • 1660年には、ねだりや盗みを働くという理由で非人の江戸町中の居住禁止。

と、下級宗教者にまで統制が及ぶ。なかなか厳しい…。


虚無僧は、江戸府内に寺院を持たなかったが、江戸近郊の寺院が府内に番所を開いて活動の拠点としたとのこと。

徳川家康の時代の虚無僧寺の番所設置
1662年 武蔵国神奈川宿西向寺・同国足立群上峰村松源寺
1677年 武蔵国多摩郡柳沢村沢水寺・下総国葛飾郡宝珠花村観念寺
1683年 武蔵国葛飾郡惣新田村東陽寺(中世までは葛飾郡は下総国)

番所に番虚無僧を6人ずつ、計54人置いていた。

↓こちらを参照して頂きたいのですが、江戸の範囲といっても、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、武家地は大目付・目付支配…というように、複雑な支配系統があったそうです。虚無僧は法の網の目をくぐって活動していたのでしょうね。

江戸に幕府の政庁が置かれてから100年足らずで町が三倍に増えたということですから、これらを統轄するお役所さんはさぞかし大変だったと想像します…。


第17条 雖近辺出剃髪僧著袈裟衣有髪之輩著袈裟或ハ脚絆を持尺八取事、

近辺に出る場合でも、剃髪の僧侶は袈裟と衣(直綴じきとつ)を着し、有髪の者は袈裟、あるいは脚布を着し、ともに尺八を持つように。
当時の虚無僧は姿形の上で浪人と区別が判然とせず、身なりについても取り決めなければならない状況だった。


岩佐又兵衛の『傘張り・虚無僧図』が、1600年代の虚無僧の代表的な出立ちですね。
こちらをご参照下さい↓

編み笠に、裙子(白い後ろ側の前掛けのようなもの)で一見、僧侶のようですが、襦袢は赤く、刀を差していますね。完全に浪人風情です。



これでザッと17条の内容を確認しました。


そして、この掟の追加となる1687年の「掟」には、番虚無僧は万事にわたって本手番所に相談して吟味するべしと書かれている。


1660~80年代にかけて、急速に番所が設置され、本寺番所の指導のもとに江戸に入来した虚無僧を統轄し、活動の基礎を築くことになった。



さて、
この17条を元にだされた法令『延宝の法度(1677年)』は、意味だけ前回に確認しましたが、『徳川禁令考』に記載されているのがこちら↓

 『徳川禁令考』
国立国会図書館蔵



また『慶長之掟書』みたいに、これも偽書ではないの?



再度確認しますと、内容は、虚無僧に対しての特権的優遇措置はなさそう。

第一条 本寺の住職は本寺と末寺の弟子仲間の評議で器量を選んで決め、末寺の住職は弟子たちが相談をして候補者をたて、本寺に伺ってから住持させることを定める。幕府の寺社奉行が住職決定に関する本寺・末寺の権限を明確にし、評議による公正な住職決定が行われるようにした。
第二条 証人制によって弟子契約をすること、その際には幕府法に背いて追放人になった者を弟子にしてはならないこと。(外の仏教諸宗派の寺院法度にはこのような弟子契約条項は無い)
第三条
 末寺の弟子が宗の法に背いた場合、小犯罪ならば本寺の指図〔一宗之法〕にしたがって処罰。大犯罪ならば寺社奉行所に通達し裁断してもらうこと。
(〔一宗之法〕というのが、同年六月、青梅鈴法寺と小金宿一月寺が寺社奉行に伺って案文を作り、寺社奉行から下された17条の掟のこと。)


連署のメンバー。


太田摂津守(1630-84年)
太田 資次(おおた すけつぐ)は、遠江浜松藩の第2代藩主。大坂城代などの要職を勤めた。掛川藩太田家2代。
延宝元年(1673年)に奏者番に任じられた。延宝4年(1676年)7月26日に寺社奉行を拝命し、兼任した。


板倉石見守(1641-1705)
板倉 重種(いたくら しげたね)は、江戸時代前期の大名、老中。
延宝5年(1677年)、奏者番兼寺社奉行に任命、延宝元年(1680年)9月に老中に抜擢される。


ふむふむ、二人はこの時期ちゃんと寺社奉行を勤めておられます。

さて、三人目の小出山城守は?


調べても、存在しない…


1677年の代のお役人小出さんを調べて見ると、第六代の小出 英安(1673-91)となるようですが、山城守ではなく備前守です。


他の資料の連署は、このように書かれています。


太 摂津印
板 石見印
小 山城印


保坂裕興著『17世紀における虚無僧の生成』より


「太田」を「太」と署名することはままあったことだそうです。
どうやら小笠原小出と間違えた模様。


三人目は↓


小笠原山城守
(1624-1678)
小笠原 長矩(おがさわら ながのり)は、三河吉田藩の第2代藩主。忠知系小笠原家2代。別名 長頼。


『徳川禁令考』の翻刻者の間違いというか、勘違いというかちゃんと調べなかったということですね。



以上、調べるにあたりご協力いただいた尺八研究家の神田可遊氏に感謝申しあげます🙏
とりあえず、『延宝の法度』は、偽書ではないでしょうとのこと。
神田氏によると、延宝の法度によって虚無僧は寺社奉行の管理下に正式におかれるわけですが、「虚無僧諸派」という宛名によると(三人の連名の左側にあります)、他宗派ではすでに発足していた「触頭」がまだ決まっていなかったと思われますが、江戸市中に番所がある一月寺、鈴法寺をそのような位置ととらえていたようです。

その後、それでも虚無僧の犯罪が相次ぐ中、特に偽虚無僧に絡む天蓋の取り締まりを両寺が申し出、寺社奉行も取り締まり通達のため、触頭を両寺が担うことになったと推察されます。(神田)


天蓋の取締りとは、1758年に、江戸幕府による深編笠の触書が出されています。 


虚無僧使用深編笠ニ付触書  1758年(宝暦8年)10月

一月寺と鈴法寺の両寺で用いている深編笠については、今後それを売買には虚無僧寺の印鑑が必要.


これはニセ虚無僧を取り締まる為に、虚無僧寺の一月寺と鈴法寺が連名で、印鑑がなければ天蓋を売ってはいけないということにしようと、寺社奉行に申し出て、寺社奉行側も虚無僧取り締まりのために両寺を使おうと、利害が一致。以後両寺が「普化宗総本山」などと称し、全国虚無僧寺の上に君臨することになった。

芝居に虚無僧が出る場合も、座元は虚無僧寺から許可を得て天蓋を借りに行かなければならなかったそうな。


この『延宝の法度』のおかげで、虚無僧は一つの宗派と認められたようです。

しかし、まだ名前は無い…。虚無僧諸派という括りの宗教集団です。


推測するに、よし!一宗派と認められたゾ!と図に乗って自分達に都合の良い『慶長之掟書』を書いたのではないのでしょうか。祈祷に勤めるべしとか、刀を持ってはいけないとか、飲酒博打禁止とかも一切書かずに、自分達の都合良いことばかりを書き並べてしまった…。


さらに虚鐸伝記きょたくでんきまで作ってしまった。
こちらもご参照下さい↓




『慶長之掟書』其の三はこちら↓


一体ドコまで条項が増え、書き換えられていくのか?!
連署に関するもう一つの物語など!




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