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明暗寺系創始文献「虚鐸伝記」を読み解く!其の一

普化尺八、虚無僧尺八の始まり創設のことが書いてある文献の一つが「虚鐸伝記きょたくでんき」(漢文)と言われている。それに注解されたのが「虚鐸伝記国字解きょたくでんきこくじかい」(日本語、かな文字に解釈した本)。




山本守秀注釈・河本逸童増補『虚鐸伝記』 
国立国会図書館所蔵



そして、この文書は1900年初頭に、偽書であるという指摘がなされ、今ではそれが通説になっています。

 
 


『虚鐸伝記国字解』の偽書の可能性は栗原広太が「尺八史孝」大正7年(1918)の中で指摘し、断定したのは中塚竹禅「琴古流尺八史観」昭和54年(1979)。

理由は、虚鐸伝記の年代の記入が無く、著者遁翁の伝記、記事の材料の出所が不明であること。一篇の戯曲小説に過ぎないものとのこと。

 

 


ところが、

流派によっては現在でも『虚鐸伝記』に書かれた宗祖を祀っているわけですから、そこのところは度外視できません。

 



一体何が書かれているのか、

『尺八伝記』ならぬ『虚鐸伝記』

を、細か〜く読み解いていきます。




戯曲とまで揶揄されるくらいなので、結構面白い。




まずは、


虚鐸とは?




尺八の異称のこと。



普化禅師の振る鐸(鈴)を慕って尺八の音に写したというわけですから、

虚(にせ)の鐸(すず)で、虚鐸。




普化禅師について詳しくはこちらをどうぞ↓





因みに谷派(谷狂竹から西村虚空の流れの流派で長管2尺6寸を吹く)で、尺八の事を虚鐸とよんでいるのは、西村虚空師が、1954年に在東京の『文化人の集い』(棟方志功、三角寛、小山勝清、小山寛二、赤坂小梅等など)に招かれ、有楽町の日本クラブで『西村虚空の竹を聞く夕べ』にて、阿字観を吹いた時に、彼らに、尺八とは似ても似つかぬ、長さも長い、音も違う、竹の縦笛本来のものというような名称をつけろと言われ、『虚鐸伝記』の話をしたら、その虚鐸こそふさわしい名前だということになり、西村虚空師のつくった尺八は虚鐸と名づけることになったとのこと。




『虚鐸伝記』の内容は?



 
遁翁(トンオウ)なる禅僧が記した文献で、漢籍(漢文形態)で普化宗の起源・歴史、虚無僧の起源・系譜、普化尺八曲の由来などが記されている。

 


遁翁については、

遁翁と云ハ僧の名なり、此人ハ無風乃師なれば寛永年中(1624~27)の人なるべしといふ。

「虚鐸伝記国字解」木幡吹月編
日本音楽社


とあるだけ。
 



 
遁翁さんの伝承経路の図式がこちら↓

村上専精 著「日本仏教史綱」下
国立国会図書館


 一応、普化禅師から寄竹を経ての弟子。



『虚鐸伝記国字解』とは



『虚鐸伝記』なる漢籍に国文の注解を施した尺八の文献。山本守秀著。安永8 (1779) 年起稿、寛政7 (95) 年京都にて刊行。原典は存在しない。


 



以下、目次。

普化和尚小傳
法燈國師傳記
虚無僧の祖楠正勝
普化禪師系統
普化宗の作法
虚無僧の本寺と末寺
本則之寫




今回は、『虚鐸伝記』「普化和尚小傳」の、普化禅師と張伯の出会いまでを詳しく読んでいきます。


 

 

山本守秀注釈・河本逸童増補『虚鐸伝記』 
国立国会図書館所蔵




以下、

『虚鐸伝記』漢文と注訳と現代語訳




『虚鐸伝記』(漢文)
『虚鐸伝記国字解』(解釈)

そして現代語訳です。


 

曲名虚鈴以舊摹鐸音命之器命之曲而為虚鐸

世に尺八というは此きょたく(虚鐸)の事なり。其おこりは、此曲の名を虚鈴という。もと鈴(れい)の音をうつしたるものゆえ名付けたり。これを器(き)に命じこれを曲に命じて、虚鐸とすは、しかる故に、虚鐸と名付けて、笛の名にもしたり、又曲の名にもしたる事なり。


この世にある尺八は、虚鐸の事である。その始まりは曲の名前を虚鈴という。鈴の音を写したからそう名づけた。




鐸鈴以相似後世誤為虚鈴

これはたく(鐸)とれい(鈴)とは器物のよく相似たる故に、後世ついに其名を取りちがへて、きょれい(虚鈴)とよびたるなり。即ち器物の名と吹く曲の名とをうちまぜていひなら(言い習)わせるなるべし。(尺八の本曲に虚鈴となづくるもの多くあるによりかくいへるなり)


これは鐸と鈴とは形がよく似てるために、後世にその名前を取り違えて、虚鈴と呼ぶことになる。つまり、物の名前と曲の名前を混合して言われてきた。尺八本曲に、ナントカ虚鈴といわれる曲名が多くあるのはこのせいである。




且以器名称尺八唯為曲名大失其真者眞乎

かつ近来此の笛の名を唐にて洞簫の如く。日本にて尺八というにより。いにしえの名を取り違えうしなふて、吹く曲の名ばかりになるは大きに誤りなり。


最近この笛の名前を唐の洞簫みたく、日本で尺八というようになり、古来の名前を取り違え失い、曲名だけ残った。それは大きな間違いである。



(尺八研究家の神田可遊氏著の「虚無僧と尺八筆記」によると『虚鈴』という曲は本来は無かった。要は、虚鐸と虚鈴がよく似いるため、「虚鈴」という名ばかり後世に残って、虚鐸という尺八の名前がなくなったことを嘆いている。)




普化禅師当世之一大知識也

これより虚鐸の起こりを云わんがために、普化禅師の事跡を誌したるなり。
普化禅師は唐朝の人なり。当世とは、其時代にて禅師は一方の知識にてあった。其末が虚無僧の因縁となるがゆえに濫觴をこゝにのぶるものなり。



ここから虚鐸の始まりを説明する為に普化禅師の事を記す。普化禅師は唐代の人。その時代で禅師は並ならぬ知識の持ち主だった。後世に虚無僧の由来となるからその起源ををここに述べるものである。




在于鎮州而自甘狂逸

鎮州にあってとは、普化の住み給いし所は鎮州といふ国なりといふ事なり。みづから狂逸をあまんじとは、狂は物くるひにあらず。気徹の高き事をいひ。逸とは禅機のすぐれたるをいひしものにて。よそ目には物狂わしきたわむれを好む様に見ゆるが、気性の関わらぬ高き所なり。されば化度も一かたならぬ自在を得給えりといふ事なり。


【禅機】禅における無我の境地から出る働き。禅僧が修行者などに対するときの、独特の鋭い言葉または動作。
【化度】人々を教え導いて迷いから救うこと。


鎮州とは、普化禅師の住んでいた国のこと。「自ら狂逸を甘んじ」の「狂」とは気が狂っていることではなく、気鋭が高いということで、「逸」とは禅僧の優れていることを言う。はたから見ると気狂いになってふざけているように見えるが、性分ではなく、もっと高尚なことである。それゆえ人々を教え導いて悟りへ到達させることも、人並みに無く思いのまま与えてくださるという事である。




振鐸遊干市對人毎日

鐸とは金口木舌(きんこうぼくぜつ)とてかねにて作りて舌は木なり。鈴の舌はかねなり。形は相似たり。振とはふり動かして音を発する也。市に遊んでとは鎮州市街に出でて諸人に対する度毎に、鐸を振って次にある句を唱へられしなり。


鐸とは、外側は金かねで、舌が木でできている。鈴の舌はかねで形はよく似てる。振とは、振り動かして音を発すること。市に遊んでとは、鎮州の市街地に出て人に会う毎に鐸を振って次の句を唱えることである。




明頭来明頭打  (みょうとうらいやみょうとうた)
暗頭来暗頭打  (あんとうらいやあんとうた)
四方八面来旋風打(しほうはちめんらいやせんぷうた)
虚空来連架打  (こくうらいやれんかだ)

是普化禅師の語にて、虚無僧の本則とする第一義なり。是をとけば第二義に落つれども、ここにいさゝかしるして其故をしらしむ。まづ、明頭來明頭打みょうとうらいやみょうとうたとは、あからさまに来たらばあからさまに打てやらふ。くらまぎれにきたらばくらまぎれに打てやらふ也。頭の字を付けたるは出あひがしらに打つという義なり。漢来れば漢現じ胡来れば胡現ずるの意なり。あきらかなる場合ならばあきらかに、くらきところならばくらまぎれに。我法は明暗にかかはらぬぞ、男女貴賤賢愚にも心あきらかなると、心くらきにもかゝはらぬというを、暗頭來暗頭打あんとうらいやあんとうたとはいうなり。四方八面来旋風打しほうはちめんらいやせんぷうたとは、四方八面よりくるときは、つじ風のまふがごとくにうついふ義なり。是市町に出たる故つじかぜとよびかけての説法なり。虚空来連架打こくうらいやれんかだとは虚空より来るときは、からさほにて、麦をうつように打となり。このうつというつえは殊の外にありがたき杖なり。此語が即人をさとす杖にて、萬人のねふりを覚ますよびこえなり。なほくはしくは宗門の道に入りて、禅法をまなび明師にあふて知るべし。

  • 【漢来れば漢現じ胡来れば胡現ずるの意なり】とは、道元が執筆した仏教思想書、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』「古鏡」の巻に書かれた、語の一つ。雪峰義存せっぽうぎぞん(唐代末から五代十国時代の禅僧)はその鏡を「胡こが来れば胡を現うつし、漢が来れば漢を現す」と言った。するとすかさず玄沙師備げんしゃしび(雪峰義存の弟子)が前に出て、「鏡が来たらどうなります?」と言った。という箇所がある。



これは普化が言ったことば。虚無僧の本則の第一義(根本)である。これを解けば第二義にいくのだが、ここに少々記してそのわけを示そう。まず、明頭來明頭打みょうとうらいやみょうとうたとは、明白に来たなら明白に打とう、暗闇で来たなら暗闇で打ってやろうという意。頭の字は、出会い頭に打つと言う道義。道元の「胡人がくれば、胡人を映す。漢人がくれば、漢人を映す。」の意味である。明らかな場なら明らかに、暗いところなら暗いままに。我法は明暗は関係ない。男も女も、金持ちも貧乏も、賢いも愚かも、心が明らかになると、心が暗いことも執着しないということを、暗頭來暗頭打あんとうらいやあんとうたと言ってる。四方八面来旋風打しほうはちめんらいやせんぷうたとは、四方八面から来たら、辻風が舞うみたいに打つという道義。虚空来連架打こくうらいやれんかだは、虚空から来たときは殻竿で麦を打つように打つということ。この打つ杖はとても有り難いものである。この語が即、人を諭す杖のようなもので万人の眠りを覚ます呼び声である。詳しくは入門して禅を学び、師に会って知るべきである。




一日河南府張伯者聞此語大慕碩徳

一日とはあるときということ也。河南鎮州の内の地名なり。府は府城のことにて、此の城下に姓は張、名は伯という人あり。官人にてはなし。城下の町人なり。此語を聞てとは普化禅師の唱えあるき給ふことばを聞て、大いにせきとく(碩徳)をしたう也。碩は大なりといふ心にて、其の道徳の言にあらわれたるを、張伯も禅機ある故に、徳をしたう志のふかきことなり。



ある時、鎮州の城下に姓は張、名は伯という町人が住んでいた。役人ではない。城下の町人。普化禅師の唱えて歩いているのを聞いて、慕っていた。張伯も禅機があるので、普化禅師の徳を慕う志は大いに深かったのである。




請従遊之禅師不許

これにじゅうゆう(従遊)せん事をこふ、とは、普化禅師に従い、あそばんことをこえども、禅師が「いやいや」といふて、ききいれざるなり。


張伯は普化禅師にその鐸の音を教えて欲しいと頼んだが、断られてしまった。




張伯嘗嗜管及聞禅師鐸音而頓制管而摹之

張伯かつて管を嗜むとは、張伯まえかたより、いろいろの笛を好んでよく吹人なれば。ぜんじの鐸音を聞に及で管を製して、これをもすとは、禅師のふりひゞかせし鐸の音を聞いて、其音を吹出さんと思えども、いろいろの笛の内に鐸の音をふくべき笛無し。夫(それ)故、にわかに竹を切て笛を作り、それを吹いて見れば鐸の音が出たるなり。其音たへにして、こゝろにかないゆけるゆえ爰(ここ)にはじめてたく(鐸)の音をうつしたる笛を得たるなり、後世尺八というは此笛のことなり。


張伯は前から色んな笛を吹いてたので、普化禅師の振っていた鐸の音を模した笛を作ってみたが、その音のでる笛は無かった。そして、不意に切ってみた竹で笛を作ってみたら、なんとその音がでた。その笛は妙なる音色で、思い通りの鐸の音の鳴る笛ができた。後世、尺八ってのがその笛のことである。




恒弄其音而不敢吹他曲

つねに其の音をろうして、あへてた(他)のきょくをふかずとは、その徳したいおもんじて、鐸音をうつしたるばかりをもてあそんで、他の事はかつてふかざりし事。まことに其の意ふかく、こゝにあらわれたり。



いつも、禅師の徳を慕い重んじて、その音を鳴らして、あえて他の曲は吹かなかった。




以管為鐸韻故號為虚鐸 

くわん(管)をもってたくいん(鐸韻)をなす。かるがゆへにがう(号)してきょやく(虚鐸)とすは、その竹にたく音を吹くゆえに、きょたくとなづけて笛の名としたるなり。


「管をもって、鐸韻を成す。」そういうことで、その名も虚鐸。その竹で鐸の音を吹くということで、その笛の名前を虚鐸と名付けた。




代以傳其家十六世

代々もって其家につたふる。十六世とは、代々張伯より其家の子孫に傳え来りて、十六世を経たるなり。張伯より子の張金に傳え、又其の子の張範に傳う。其の子張権字大量という。張亮、張陸、張沖、張玄、張思、張安、張堪、張廉、張産、張章字子操、張雄、是にて十五代なり、十六代目張参なり。


代々、その家に伝わった。張伯から、その子孫に伝え続いて16世代。張伯から子の張金に伝えて、又その子の張範に。その子は、張権字大量。張亮、張陸、張沖、張玄、張思、張安、張堪、張廉、張産、張章字子操、張雄、ここで十五代。十六代目は張参である。




孫名参壮年而既熟其音

そんの名はさん、壮年にしてすでに其音にじゅくすとは、張伯より十六代目の孫の名を張参という。年三十を壮年といふ。其じぶんに右のきょたくの吹ようをおぼえて他にすぐれてよく吹きたりといふことなり。此張伯が時は、唐の代にして夫(それ)より後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代を経て張参の時は今は宋の代なり。


張伯より十六代目の孫の名前を張参という。年は三十歳。虚鐸の演奏は優れていた。張伯の生きていた時代は唐代で、それより、後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代を経て張参の時は宋の代。



且為性嗜佛教到舒州霊洞護国寺学禅于寺僧

かつ張参の性質佛のおしへをふかくこのみければじょうしょう(舒州)といふ國の中に霊洞とて名だかき所に護国寺という寺あるにより、出家はせねども居士にて往て、禅法を寺僧まなびし也。寺僧とは寺の和尚なり。もろこしにては居士にても寺に入りて佛法を学ぶ事多きなり。



そして、仏教の教えに深く信心している彼は舒州という国の霊洞として有名な護国寺に行って、寺院の僧侶から禅を学んだ。古代中国では僧侶ではなくても仏教を学ぶことが多かったのである。
 

 


張伯、意外と立派な衣裳。。。


 

張伯が吹いている尺八、唐代はまだ古代尺八といって、根っこは使われていない細身の尺八だったので、この絵は想像で描かれたのでしょう。



 

単純に考えて、普化の鐸の音を尺八に変えて16代まで伝承したんだから、普化宗の開祖は張伯なのでは?

と思います。



が、


これも伝説という事で。
 



 

唐の代から、後梁〜後唐〜後晋〜後漢〜後周〜宋と、十六代続く張さん一家の肖像画とかあったら面白いですね。衣裳も変化して。

 


 

そして心地覚心、後に由良興国寺の開山となった法燈国師が建長元年(1249)の春に入宋し、張伯の16代目の孫、張参から張家伝来の「嘘鈴」の曲を習い、建長六年(1254)「国作、理正、宗恕、法普」の四居士を伴い帰朝した。と続きます。


続きはこちら↓


 



「虚鐸伝記国字解」は原典が存在しないということで写しは色々あるようです。

こちらは名古屋の虚無僧こと牧原一路氏ご提供の「虚鐸伝記国字解」のコピーです。感謝🙏


参考文献
山本守秀注釈 木幡吹月編「虚鐸伝記国字解」日本音楽社
山本守秀注釈・河本逸童増補「虚鐸伝記」楽文堂
村上専精 著「日本仏教史綱」
神田可遊 著「虚無僧と尺八筆記」
山口正義 著「尺八史概説」

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