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一休禅師と尺八


上記の一休さんの画像は、栗原信充画『肖像集』より。(国立国会図書館蔵蔵)。持っている棒のようなものは、尺八ではなさそうです😅


一休


こちらも一休さん。

名古屋の虚無僧、牧原一路氏からいただいたものです。

アニメの一休さんとは程遠い(笑)貫禄のある僧侶の一休禅師です。(似た人知り合いに一人くらいいますよね)


写真の一節切は一休さんが吹いていたものとされるもので、京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院、酬恩庵しゅうおんあんの宝物殿にあるそうです。このお寺は、正応年間(1288年 - 1293年)に南浦紹明(大応国師)が開いた妙勝寺が前身で、元弘年間(1331年 - 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、1456年に一休宗純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号したそうです。一休寺と称されています。



一休宗純いっきゅうそうじゅん (1394-1481年)は、臨済宗大徳寺派の僧、詩人。狂雲子きょううんし瞎驢かつろ夢閨むけいなどと号した。
後小松ごこまつ天皇の落胤らくいんともいわれている。

  • 落胤とは父親に認知されない庶子、私生児のこと。


自らを「狂雲子」と号し、形式や規律を否定して自由奔放な言動や奇行をなしたが、その姿は当時の形式化、世俗化した臨済の宗風に対する反抗、痛烈な皮肉であったといえるそうな。

一休さんの生涯については、長くなりそうなのでまたの機会に!

今回は、一休さんと尺八についての探究です。

一休さんが残した詩集『狂雲集』『狂雲詩集』『自戒集』の中に尺八のことが幾つか書かれています。



『狂雲集』『狂雲詩集』『自戒集』とは?

一休宗純の作品集。『狂雲詩集』が漢詩の集であるのに対し、『狂雲集』はじゅ、賛などの集である。頌や偈は仏教の教えや自己の宗教的境涯を詠むもので、外形はまったく詩と変わらない。詩が情緒や感覚によって詠まれるのに対して、頌、偈は思想や精神の境涯が表出される。『狂雲集』には収録作品数の異なる11の諸本があるが、作品はすべて七言絶句である。内容は狂雲の名にふさわしく、自信と悔恨の間に揺れ動く激情と、飲酒おんじゅ肉食にくじき女色にょしょくの破戒と、偽善と腐敗を暴く非常識と、求道ぐどう真摯しんしさとの、熱烈な精神に満ちている。
(参照・『日本大百科全書』中本 環)

  • 七言絶句しちごんぜっくとは漢詩の形式の一つで、1句に7語、全部で4句28語、五言絶句に次いで短い詩形の漢詩です。
    ここでは、訓読で表記します。


まずは『狂雲集』より。


『狂雲集』

尺八
一枝の尺八 恨みへ難し 吹いて胡笳寒上こかさいじょうの吟に入る
十字街頭 うじの曲ぞ 少林門下 知音少ちいんな

<訳>わずか一管の尺八が、辛抱し切れぬほど懐かしい思いに、わしを引き込んでしまうのは、必ず胡笳寒上の曲となるためである。雑踏の街角でその曲を吹いているのは、いったいどこの何某なのか、胡笳寒上を経てきた達摩門下にも、その音色をききわける友人が、すでにまったくいないのである。

(哀愁に満ちた一管の竹の響きが、肺腑を抉るがごとき感慨を詠んだもの。雅楽系の尺八とは異質な曲調と想像される。)泉武夫

  • 【胡笳】中国古代北方民族の胡人が吹いたという、あしの葉で作った笛。琴の曲名。  


(泉武夫氏も書いているように、心の奥底を抉られるほどの尺八の音色…。そんな音、聞いたことあるでしょうか。いや、尺八ならありえる話だと、自分自身でいうのも何ですが、そう思いました)



次の詩は普化禅師に関するものです。



 風鈴、二首。

静時に響無く 動時に鳴る 鈴に声有るか 風に声有るか 驚起す 老僧が白昼のすい 何ぞ日午に三更を打することをもちいん

<訳>風がやむと声をたてず、風が出ると鳴るのは、鈴が音をたてているのか、風が音をたてているのか。/ボクの昼寝をさまたげるなら、正午に夜半(三更)の時を知らせてくれるのには及ばぬ。


 又。
見聞の境界、はなはだ端無し、し是れ清声せいせい隠々いんいんとして寒し。
普化老漢の活手段、風に和して搭在とうざいす、玉欄干。

<訳>見たり聞いたりの相手は、いささか気が散りすぎる、ちょうどよいのは、ぴりっと耳さわやかで、それとは見えぬところだろう。/普化老人の腕のみせどころも、風ぐるみで玉のおばしまに、ひっかけた感じだった。
(見たり聞いたする世界は捉えどころがない、その世界では普化禅師の鈴は身も引き締まるような響きであった、今も鈴は欄干の上にかかって風のままに鳴っている)山口正義


 普化を賛す。
徳山、臨済、同行どうあんいかん、街市がし風顛ふうてん、群衆驚く。
坐脱立亡ざだつりゅうぼう敗闕はいけつ多し、和鳴わみょう、隠々たり、宝鈴の声。

<訳> 普化をたたえる。
徳山の棒、臨済の偈も(普化が)一緒ではどうにもならず、町のフーテンざたは、群衆を総立ちにしてしまう。/坐って死んでも、立って死んでも、(普化のようには)到底かなわず、響きあってありありと(姿なく空にきえる)宝塔の鈴だった。


一休が生きていたのは1400年代で、普化禅師はその600年前の800年代。600年も隔たりがあると言うのに、まるでついさっきまでそこにいたように一休は普化禅師の存在を表現しています。普化禅師の記述は臨済録でしかなかったと思いますが、その想像力や信じる力と言うものは、やはり現代ではとうてい及ばないものだったであろうと想像します。

次の詩は、大徳寺に関わる偈です。一休は応仁の乱で消失した大徳寺の再興を託され住持の勅請を後土御門天皇から受け紫衣を賜ります。やむなく受けますが、入寺の形式をとっただけで、大徳寺には住まなかった。その時の偈として「室」と「退院」があります。


 室。

明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打。四方八面来、旋風打。虚空来、連架打。新長老、にい乾坤一个けんこんいっこ磊苴僧らそそう。偈一偈して云く、人の来りて相如が渇を問う無し、敲破こうはす梅花、一夜の氷。打つ。

<訳> 方丈の自室にて。
朝がくれば、朝らしく打つ、夜がくれば、夜らしく打つ。/四方八面からくれば、つむじかぜのよろしく打つ。虚空からくれば、からざお打ちだ。/新しい長老さまはねぇ。それ、それ、天にも地にも、ただ一人のがさつものとな。大声で、一喝して、司馬相如の胸の渇きを見舞う奴は、誰もなくて、梅の花が夜来の氷をみごとにぶちわってくれた。

  • 司馬相如しばしょうじょ】(紀元前179年 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。字は長卿ちょうけい。もとの名は犬子けんしと言った。蜀郡成都県の人。賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。


 退院ついえん
平生磊苴へいぜいらぞ、小艶の吟、酒に淫し色に淫し、詩も亦た淫す。主丈をって云く、七尺の拄杖しゆじょう、常住に還す。尺八を吹いて云く、一枝の尺八、知音少まり。

<訳> 住持の職を退く。
根っからがさつな、小艶の歌でした。酒におぼれ、色におぼれ、詩歌にも、おぼれていました。拄杖を(地上に)なげすてて、七尺棒は、寺の公用物でありやした、尺八をふいて、この一管の尺八の、音色の判る男はなかった。


「室」は言わば就任時の所信で、やはり普化の「明頭來、暗頭來」を掲げている。それは旧来の禅に対して梅花を打ち砕く一夜の氷を思ったのであろう。一方「退院」の方は『いつもは艶っぽい歌を吟じたり、酒や色情にも淫らで詩も淫らだ。杖を投げ打っていう。七尺の杖を大徳寺の僧に返そう。そして尺八を弄びながらいう。一管の尺八の音がもっているほんとうの響きの意味を知るものは少ない』と詠う。(山口正義)

一休は何を思って、普化禅師や尺八を、所信や退院時に持ちだしたかは、勝手に想像するのみです。



普化禅師に関してはこちらをご参照下さい↓




つづいて、『狂雲詩集』より、頓阿弥の尺八についてです。


『狂雲詩集』


 題ニ頓阿弥吹尺八像

尺八吹き来って鬼神を感ぜしむ。乾坤遊客 更にたぐひ無し。森羅万象 只斯の曲。えがき出だす 扶桑笛の人。

<訳> 頓阿弥が尺八を吹くと鬼神をも感動させ、広い天下の遊客の中で肩を並べる者はいない。あらゆる現象は只この調べに含まれ、日本一の笛吹きが描き出されている。


頓阿という名前は「體源抄」の中にも見える。體源抄には『其後又頓阿彌吹之』とあるとともに、6本の尺八図の五番目の黄鐘調切図の中に『是者増阿図ノ後頓阿弥少穴ノ内ヲトル』と尺八を直した記述があります。
『體源抄』についてはコチラ↓



続いて『自戒集』


『自戒集』


狗の人に於けるか、人の狗に於けるか、田楽は得法して舞手を忘る。大鼓も尺八も総て根推、斟酌す、参禅の刀玉取り
 田楽ノニアミト云者、得法タテヲシテ、同例ノ田楽トモヲ接得ス


  • 根推ねへし】文字の読めない人の意。ここでは田楽のことをさす。

  • 斟酌しんしゃく】あれこれ見計らって手加減すること。ここでは「田楽ノニアミ」が同業の「刀玉取」を強化することを言う。「刀玉取」は数本の刀子(とうす=小型ナイフ)と他の物をまじえて玉取りする曲技。(「刀玉」は今も行われる田楽わざだそうです。)


一休禅師が田楽の舞を観て感じたことでしょうか。前述にも書いたように、田楽と尺八の関係は深く、とても匠に演奏していたようですね



 一休会裏五種行
一ニハ傾城乱、一ニハ若俗にゃくぞく狂、一ニハ酒宴、一ニハ田楽師、猿楽節、ならび尺八、一ニハ口宣舞。

  • 【一休会裏五種行】とは、
    養叟会下の五種行に対して、一休会裏の禅風を言う。五種行とは五つの修行のこと。

因に養叟会下の五種行は、「一ニハ入室、一ニハ垂示着語、一ニハ臨済録の談義、一ニハ参禅、一ニハ人ニ得法ヲオシウ。」

 一休と兄弟子の養叟宗頤ようそうそうい(1379-1458)との葛藤は凄まじく、養叟が禅道を安売りしてお金を得ていると批判し、養叟が堺の新興商人を相手に陽春庵を建立した時に記したそうな。


  • 【傾城乱】「傾城狂けいせいぐるい」に同じ。「傾城」は、白拍子などの妓女を言う。遊女の色香に溺れ、遊び戯れること。

  • 【若俗】男色の相手となる若衆。少年との交情に溺れること。

  • 【口宣舞】曲舞くせまい中世に端を発する日本の踊り芸能のひとつで、南北朝時代から室町時代にかけて流行した。


先ほどに続いて、こちらの詩も田楽が登場しますね。テーマは僧侶にとっての「誘惑」のような内容ですが、尺八もよっぽど魅力的なものだったことが分かります。




こちらは、つぶやき。



月夜長睡ル 聴睦室尺八有感 

月夜に長睡し、睦室の尺八を聞いて感あり


弟子の睦室紹睦ばくしつしょうぼくは尺八の名手であったようで彼の演奏を聴いて読んだ詩。



最後に、


一聲の尺八 萬行の涙 

「千行の涙」とは、とめどもなく流れる涙。ということで、12世紀の源氏、平家の盛衰興亡が詳しく叙述された『源平盛衰記』に書かれている文句だそうですが、「萬行の涙」は、もっとすごく沢山の涙。

「尺八の一音が、めちゃめちゃ感動させる」ということでしょうか。



参考文献
山口正義著『尺八史概説』
平野宗浄訳注『一休和尚禅宗』第三巻
柳田聖山著『一休宗純 狂雲集』




さてさて、

一休禅師がめちゃくちゃ尺八が好きだったってことが、彼の書いた詩からよーく分かりました。

尺八に関する小説、映画等はいくつかありますが、近代現代において、尺八に関する詩を書いた人がいるでしょうか?

「音」を言葉にするのは難しいです。消えて無くなってしまうものですし、音は時間と空間を使って人の心を感動させるものですが、一休禅師は見事に、あらゆる方面から尺八賛辞を詩に散りばめていますね。

何にも代え難いこの魅力ある尺八を、一休禅師が生きていた頃から400年以上も超えて今も私が<感動しながら>吹き続けていると思うと、感慨深いですね〜。


『一休禅師と尺八』でした!



最後までお読みいただきありがとうございました!🙏


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