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雅楽書「體源抄」の尺八を読み解く☆其のニ📖飛鳥〜室町時代


『體源抄』国立国会図書館所蔵
『體源抄』国立国会図書館所蔵


昔聖徳太子生駒山ニシテ尺八モテ蘇莫者ヲアソハストイヘリ。即法隆寺ノ寶物ノ中ニ尺八一管コレアリ、昔ノハ物ト云ヘリ。又山神出テ舞大峯ニ蘇莫者ノタケト云テ今モアリト云々 天台山ノ慈覚大師音聲不足ノアヒダ、尺八ヲモテ引聲阿彌陀經ヲフキツタヘシメ給、成就如是功徳荘嚴ト云所ヲエフカセ給サリケル。常行堂ノ相扉ニテフカセ給タリケルニ ソラノ中ニ音アリテ告テ云ク、ヤノ音ヲ加へヨト云テ、自此如是ヤト云ヤノ音ハ加ルナリ。
貞保親王又コレフカセ給、王昭君ト云ハ楽ハ絶テ侍リケルヲ、彼親王尺八ヨリ横笛ニウツサレタリ。王昭君ノ悲ノ音ナンドト世人云ハ一向ナキコトナリ。
禪定殿下ノ仰ニ云ク、尺八二アリ、長ハ太笛ニ似リ、短ハ篳篥ニニタリト云々。尺八ニテ樂ヲ吹事昔ハアリケレトモ近比ハナキ事ニテ侍ヲ、保元三年正月廿三日内裏ニ左近將曹清原助種カ子ニテ侍リケル者、仰ヲ承テ古譜ヲモ吹タリケル、メツラシカリケル事ナリ 
新鏡ト云文ニ云ク、保元三年正月廿日内裏ニ尺八ヲ吹ト云々。
仰尺八切事賀茂切トテ侍、大略当家ニ用圖ナリ。當家ニハ故量秋堪能ナリケルトカヤ。放生會試樂ニ下向シテ山上之兒達同道シテ拇尾焼尾ナンドニテ鹿ヲ吹ヨセ侍ル。必ス吹ハ万虫アツマルナント申。コレハ不可疑事ナリ。他流ノ敦秋モ量秋弟子ナリ。田樂増阿ト云シモノハ量秋弟子ナリ。其後又頓阿彌吹之。實ニハ聞阿ト云シ者調子ニキトクナル者ナリ。自身サトリシレル事悉道ニカナヒ侍、予ニ近付テ因縁古事皆傳之。朝夕之知己ニテアワレフカキ者ナリシ。昔ニモアリカタキ耳ナリシソカシ。穴ノ中取コト予ニ傳之、妙ナル事共ナリ。クゝミタルヲツムルハヤスシ、カリタルヲ直ハアルマシキ事ヲ案シ直シ侍、ウタ口ノ上ノ両方ノカトヲイサゝカ切ヘシ。半律クゝムベシ。又四アケ一アケノ高音ノヒ聲ヲハ面ノ穴ノ一ニ間ヲ聞テ、穴ノ上ノ方ヲトルへシ。押穴ヲハイツレヨリモカゝヘテサヌミトルベカラス。穴ノ中トリスキヌレハ音出ヤスクテタモツ音ノアヤツリスケナクキコヘテワル〔イロ〕シ。用ニシタカヒ手ニシタカヒテヲモ/\トシテホシキホトツ、出ルヲ吉ト云、下ハ少上ヨリクゝミタルヲ吉トス、有口傳。シカモ吹合ヌルニ三所合ヤウニ切ヘシ。只穴ノ中ニテシアワセ侍シ。
又云、後堀河院御代マデハ尺八ニテ樂ヲ吹トアリ、其吹タル者不知之


今回は、国立国会図書館所蔵の『體源抄』628〜630頁の赤いカッコの中の文を、分割して読み解いていきます。

昔は一体誰によって吹かれていたのか、聖徳太子から順番に書かれています。


昔聖徳太子生駒山ニシテ尺八モテ蘇莫者ヲアソハストイヘリ。即法隆寺ノ寶物ノ中ニ尺八一管コレアリ、昔ノハ物ト云ヘリ。又山神出テ舞大峯ニ蘇莫者ノタケト云テ今モアリト云々

〈訳〉
昔、聖徳太子が生駒山にて尺八で蘇莫者を吹いたと言われている。法隆寺の宝物の中にその一管の尺八がある。又、山の神が舞い大峯に蘇莫者の竹というものも今もあると言う。


聖徳太子と尺八については、長〜くなるのでこちらをどうぞ↓



天台山ノ慈覚大師音聲不足ノアヒダ、尺八ヲモテ引聲阿彌陀經ヲフキツタヘシメ給、成就如是功徳荘嚴ト云所ヲエフカセ給サリケル。常行堂ノ相扉ニテフカセ給タリケルニ ソラノ中ニ音アリテ告テ云ク、ヤノ音ヲ加へヨト云テ、自此如是ヤト云ヤノ音ハ加ルナリ。

〈訳〉
慈覚大師は歌が上手では無かったので、尺八で引声の阿弥陀経を弟子に吹き伝えられた。阿弥陀経の「成就如是、功徳庄厳」の部分を吹くのが煩雑で、常行堂の辰巳(南東)の松扉(「體源抄」では相扉)にて吹いていると、空中から声がして「やの音を加えよ」と言う。これより「如是」という箇所に「や」の音が加わった。


慈覚大師の音声不足のことは、1212年頃の書かれた源顕兼の『古事談』に書かれています。

慈覚大師、音声不足におはさしめ給ふ間、尺八を以て引声いんぜいの阿弥陀経を吹き伝えしめ給ふ。「成就如是、功徳庄厳」と云ふ所をえ吹かせ給はざりければ、常行堂の辰巳たつみの松扉にて吹きあつかはせ給ひたりけるに、空中に音こえ有りて告げて云はく「やの音を加へよ」と云々。此れより「如是や」と云ふや「や」の音は加ふるなり。

『古事談』より


常行堂とは、円仁が建立したお堂。
本尊は孔雀に乗った阿弥陀如来像。


『體源抄』の内容は『古事談』とほぼ同じですので、そのまま写したと思われます。


慈覚大師円仁、『古事談』についてもこちらをご参照ください↓



禪定殿下(1)ノ仰ニ云ク、尺八二アリ、長ハ太笛ニ似リ、短ハ篳篥ニニタリト云々。尺八ニテ樂ヲ吹事昔ハアリケレトモ近比ハナキ事ニテ侍ヲ、保元三年正月廿三日内裏ニ左近將曹清原助種(2)カ子ニテ侍リケル者、仰ヲ承テ古譜ヲモ吹タリケル、メツラシカリケル事ナリ [朱]後白川院御在位歟
新鏡ト云文ニ云ク、保元三年正月廿日内裏ニ尺八ヲ吹ト云々。


〈訳〉
禅定太閤が言うには尺八には二つあるとのこと。長いのは太笛に似ていて、短いのは篳篥に似ている。尺八の演奏は、昔はあったが今はない。保元三(1158)年一月二十三日、御所で清原助種か(子であるか)、命令を受けて古い曲を吹いた。珍しいことだった。
新鏡という書物には、保元三(1158)年一月二十日に内裏でにて尺八を吹くと言われている。

  1. 【禪定殿下】摂政や関白であった者が、仏門に入ったときの称。禅定太閤ぜんじょうたいこう

  2. 清原助種 きよはらのすけたね】とは、平安時代後期の雅楽家。 宮中の笛師(ふえのし)で笛と尺八の名手であった。保元(ほうげん)3年(1158)雅楽にひさしくもちいられなかった尺八を,古譜にしたがって演奏したという。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

清原助種については、辞典にも同じことが書かれていますので、出典元はこの『體源抄』でしょうか。



仰尺八切事賀茂切トテ侍、大略當家ニ用圖ナリ。當家ニハ故量秋かずあき堪能ナリケルトカヤ。放生會試樂ニ下向シテ山上之兒達同道シテ拇尾焼尾ナンドニテ鹿ヲ吹ヨセ侍ル。必ス吹ハ万虫アツマルナント申。コレハ不可疑事ナリ。

〈訳〉
尺八切の事を賀茂切といっている。当家に用いられる図である。
当家では、故量秋かずあきが尺八が堪能であったとのこと。放生会の試楽に参詣して、子らと連れ立って帰るとき、拇尾焼尾などで鹿を吹き寄せたそうな。吹けば万の虫が集るのだそう。これは不思議な事です。

  • 【賀茂】京都市北区上賀茂の賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)と左京区下鴨の賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(=下鴨神社)の総称。

  • 【放生会(ほうじょうえ)】供養のために、捕らえた生き物を池や野に放してやる法会。殺生戒に基づくもので、奈良時代より行われ、陰暦8月15日の八幡宮の祭りに催され、石清水八幡宮のものが有名。

  • 【試楽】公式の行事として行われる舞楽の予行演習。ふつう、賀茂(かも)・石清水(いわしみず)の臨時の祭りの二、三日前に、清涼殿の東庭で天皇の臨席のもとに行われるものをさす。

  • 【下向】社寺に参詣(さんけい)して帰ること。下山。

  • 【拇尾】京都市西部、右京区の一地区

  • 【焼尾】京都市北区。


豊原家は代々、天皇や足利将軍に笙を教えた家系で京都・賀茂神社の一節切の家元的な存在でもあったとのことで、後に書かれている図が賀茂切というもの。

量秋かずあきは、この「體源抄」の著書である豊原統秋とよはらのむねあきの三代前。


尺八吹いて鹿が寄って来るのは良いけど、万の虫はちょっと...。



他流ノ敦秋モ量秋弟子ナリ。田樂増阿ト云シモノハ量秋弟子ナリ。早世ノ後ハ敦秋ニ習テ我圖ヲ敦秋ニ云アワセテ定テ畢。當世ハヤル尺八ハ此圖ナリ。其後又頓阿彌吹之。實ニハ聞阿ト云シ者調子ニキトクナル者ナリ。自身サトリシレル事悉道ニカナヒ侍、予ニ近付テ因縁古事皆傳之。朝夕之知己ニテアワレフカキ者ナリシ。

〈訳〉
他流の敦秋あつあきも、量秋の弟子である。田楽の増阿という者も量秋の弟子である。量秋の早世の後、私は敦秋に習い、我図を敦秋に言い合わせ定める。当時流行っていた尺八はこの図のもの。その後、また頓阿弥も尺八を吹いている。実際、聞阿という者は、音律に奇特な(才能のある)者である。自身もわきまえ道を極めている。私は彼と親しくなり、由縁や古事を皆伝えた。朝夕と会って親しい間柄となったが、彼は趣深い者である。


「他流の敦秋も」とされているのは、この「體源抄」の著書である豊原統秋とよはらのむねあきは、量秋かずあき(1369生)の系統で、敦秋は、別の系統であるため。

豊原敦秋は、生年不明で1429年没。笙を主業とする京都方楽人 であり、 尺八も演奏した。「早世ノ後ハ敦秋ニ習テ」とあるが、一体誰が早世したのか分かりにくい。

田楽の増阿弥は、世阿弥と同時期、14世紀後半頃から田楽で活躍し、世阿弥と人気を争ったとのこと。その後、頓阿弥、聞阿弥と続く。

 頓阿弥の名前は、一休禅師の『狂雲詩集』にも登場し、  

題ニ頓阿弥吹尺八像 尺八吹き来って鬼神を感ぜしむ。乾坤遊客 更に倫たぐひ無し。森羅万象 只斯の曲。画えがき出だす 扶桑笛裡りの人。  

〈訳〉
頓阿弥が尺八を吹くと鬼神をも感動させ、広い天下の遊客の中で肩を並べる者はいない。あらゆる現象は只この調べに含まれ、日本一の笛吹きが描き出されている。   

『狂雲詩集』より


と、すごい名手であった事が伺われます。

その後に記載されている、聞阿弥は、敦秋とは仲が良かったようで褒めそやしていますね。


室町後期、戦国時代の能役者・能作者、金春禅鳳こんぱるぜんぽうの芸話『禅鳳雑談』に聞阿弥の談話が書かれています。

一、聞阿弥尺八(の)事。頓阿弥はうまれつきたる太息にて、太尺八を吹き候。我は息が足り走路はぬ程に、細きにて吹き候。心 (1) は胴に巌石がんぜきを持ち候やうに強く候て、息を柔かに吹き候。


心は、心構えとしての意。

心構えとしては、お腹に大きな石を持っているように強く構え、息を柔らかに吹くことである。


現在の尺八の吹奏法に十分通ずるところであります。



昔ニモアリカタキ耳ナリシソカシ。穴ノ中取コト予ニ傳之、妙ナル事共ナリ。クゝミタルヲツムルハヤスシ、カリタルヲ直ハアルマシキ事ヲ案シ直シ侍、ウタ口ノ上ノ両方ノカトヲイサゝカ切ヘシ。半律クゝムベシ。又四アケ一アケノ高音ノヒ聲ヲハ面ノ穴ノ一ニ間ヲ聞テ、穴ノ上ノ方ヲトルへシ。押穴ヲハイツレヨリモカゝヘテサヌミトルベカラス。穴ノ中トリスキヌレハ音出ヤスクテタモツ音ノアヤツリスケナクキコヘテワル〔イロ〕シ。用ニシタカヒ手ニシタカヒテヲモ/\トシテホシキホトツ、出ルヲ吉ト云、下ハ少上ヨリクゝミタルヲ吉トス、有口傳。シカモ吹合ヌルニ三所合ヤウニ切ヘシ。只穴ノ中ニテシアワセ侍シ。


こちらは、尺八の製作に関する事が書かれているもよう。

ぜひとも一節切研究家の方に翻訳をお願いしたいです。


気になるのが、

「ウタ口ノ上ノ両方ノカトヲイサゝカ切ヘシ」と「両方の角」とあること。



又云、後堀河院御代マデハ尺八ニテ樂ヲ吹トアリ、其吹タル者不知之

〈訳〉
又、後堀河院御代までは、尺八の曲の演奏があったそうな。それを吹く者は今はいない。


後堀河天皇 ごほりかわてんのうとは、 鎌倉時代前期の第86代の天皇。

在位は1221〜32年なので、鎌倉時代前期くらいまでは吹かれていたが…とのことですが、

「保元三(1158)年一月二十日に内裏でにて尺八を吹くと言われている」とのことから飛んで1300年代に「量秋が尺八が堪能であった」とあるので、やはり1200年代は尺八の記録の無い時期ということなのでしょうか。

尺八の消えた時期と重なります。



今回はここまで。


前回の「體源抄」其の一では、中国からの尺八の歴史、尺八と猿の関係からはじまりましたが、其の二では日本に移ってから。
聖徳太子からはじまり、慈覚大師円仁、平安時代後期の雅楽家清原助種、室町後期の雅楽家の豊原家、田楽師の増阿、聞阿のことなどなど、主に尺八奏者の事が書かれています。


さて、次回は、最後の締めくくり『體源抄』其の三です。

最初の方に掲載してある『體源抄』631頁にもありますが、描かれた一節切(尺八)の図と、参考文献を元に、田楽との関係、疑問点など深堀っていきたいと思います。



見出し画像は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年つきおかよしとしの晩年の代表作となる「月百姿つきひゃくし」の中の豊原統秋。

都立図書館所蔵

「月百姿」は、月をテーマとして描いた100点の錦絵。日本や中国の逸話、歴史上の出来事、神話をもとに、有名な武士や女性、鳥や動物、妖怪や幽霊など、さまざまな題材にまつわる月の様相が描かれています。

国会図書館リサーチより



月と狼と豊原統秋。
一体、豊原統秋に何があったのか?!
気になるところです。



参考文献
値賀笋童 「伝統古典尺八覚え書 」 
上野堅実「尺八の歴史」
山口正義「尺八史概説」
相良保之「一節切の調べ 教訓抄と體源鈔の尺八」虚無僧研究会機関誌「一音成仏」第四十四号
相良保之「一節切『短笛秘傳譜』の吹奏法」虚無僧研究会機関誌「一音成仏」第四十三号
泉武夫「竹を吹く人々」

雅楽の豊原家については、こちらのブログ、雅楽研究所「研楽庵」を参考にさせていただきました。




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