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尺八空白の100年間に何があったのか!?
鎌倉時代(1200年代半ば)から室町時代(1300年代半ば)にかけてのいわゆる中世 に尺八という楽器のことが記された史料が無いのだそうだ。
前回の世阿弥の芸談を筆録した能楽の伝書『世子六十以後申楽談儀』も1400年代に書かれています。それ以前の鎌倉時代に書かれた「教訓抄」(きょうくんしょう)(1233成立)には「今は目闇法師・猿楽之を吹く」とある。
【教訓抄】とは、
鎌倉時代の雅楽書。10巻。興福寺の雅楽家、狛近真著。天福元年(1233)成立。楽曲の口伝・由来や楽器の奏法を記す。室町時代の雅楽家の豊原統秋著の「體源鈔」、江戸時代前期の雅楽家、安倍季尚 の 「楽家録」と合わせて三大楽書とよばれる。
詳しくはこちら↓
まずは、尺八研究家の本に記載された文章を抜粋すると…
山口正義著 『尺八史概説』(2005年)
9世紀半ばから16世紀初頭までの間は尺八の歴史上大きな空白期間であり、古代尺八と尺八(一節切)の間には諸説あり、定説までには至っていない。
上野堅実著 『尺八の歴史』(2002年)
十三世紀半ばから十四世紀半ば過ぎまで尺八の消息は跡絶えるものの、(略)
井出幸男氏の論文『中世尺八追考 伝後醍醐天皇御賜の尺八を中心に』(1992年)
空白の六十五年間(中略)実体は不明と言わざるを得ない。
と書かれている。
尺八研究家の山田悠氏が遺した「尺八・虚無僧編年史」(虚無僧研究会機関誌「一音成仏」第47号 2017年)の年表を見てみると、過去の尺八について言及した書物以外で、その時点での尺八に関する事が書かれたのは、1252年の「十訓抄」から1408年の「山科教言卿記」までの間にはない。(1358年が空白になっているのは恐らく懐良親王よって書かれた『芳野拾遺物語』のことを記述しようとしたのではと想像します)
![](https://assets.st-note.com/img/1689810322900-DhxljQdxOA.jpg?width=800)
山口正義氏の空白期間はずいぶん長いですが、
およそ百年間、
空白。消息は跡絶える。実体は不明。
ということで、
はぁ、そうですか。
と何も考えないのも詰まらないので、上野氏の言う13世紀半ばから14世紀半ば、歴史上何が起きたのか調べてみました。
12~13世紀といったら鎌倉時代。本格的な武家政権による統治が開始した時代です。鎌倉時代から室町時代にかけては芸能史的にみても、貴族社会を中心とした芸能が衰退して行く一方で、庶民の中から新たな諸芸能が誕生し発展していった時代でもあります。
1247年からスタート💨
1247年
宝治合戦
鎌倉幕府の内乱
1257年
関東地方南部 M7
なんといきなり大地震!
1268年
北条時宗が執権に就く。
1272年
二月騒動
蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。
元寇(蒙古襲来)
1274年 文永の役
1281年 弘安の役
元寇とは、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国<元朝>およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称。
当時、世界最大規模の艦隊だったそうな。
1285年
霜月騒動(岩戸合戦)
鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変
1293年
平禅門の乱
鎌倉で起こった政変
1293年
鎌倉大地震
なんと再び大地震!
関東地方南部に被害をもたらした地震。震源域は鎌倉周辺、規模はM7以上と推定23,034人もの死者がでた。
1305年
嘉元の乱
鎌倉幕府内での騒乱
1331年 - 1333年
元弘の乱
鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内戦。
1331年 後醍醐天皇、山城国笠置山で挙兵する。
1333年 5月11日 小手指原の戦い
1333年 5月12日 久米川の戦い
1333年 5月15日 分倍河原の戦い
1333年 5月16日 関戸の戦い
1333年 5月22日 東勝寺合戦。北条高時ら、自害して鎌倉幕府滅亡
1331年
光厳天皇が即位する
(北朝の初め)
1331年
京都に天然痘が大流行していた。
1333年には、
元弘の乱戦没者とみられる人骨が多数確認されているが結核であったことが判明。
天然痘、結核と感染症が流行っていた!
1334年
建武の新政。
後醍醐天皇による親政。
1335年
中先代の乱
北条高時<鎌倉幕府第14代執権>の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。
1335年- 1336年
延元の乱(建武の乱)
後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏ら足利氏との間で行われた戦い
1336年 多々良浜の戦い
1336年 湊川の戦いで、楠木正成が戦死。
南北朝時代
南朝
1348年
四條畷の戦い
南朝と室町幕府<北朝>の戦い
北朝
1338年
足利尊氏、征夷大将軍に補任され、京都に幕府を開く(室町幕府)。
1351年
観応の擾乱
足利政権<室町幕府>の内紛によって行われた戦乱
1361年
正平地震、大津波
南海トラフ沿いの巨大地震と推定 M8.3
またもや大地震!今度は津波も!
1394年
室町時代はじまる
…と、この約百年、
内乱、内紛、蒙古襲来、政変、騒乱、戦い、戦乱、擾乱…
とありとあらゆる戦争混乱を指し示す言葉が並んでおります。
そして災害!
1257年、1293年、1361年と約百年の間に三回のM7以上の大地震!
これはたまりませんな。
加えて疫病!
天然痘、結核、古来からあるハンセン病に麻疹。
モダンメディア55巻11号 加藤茂孝 第 2 回「天然痘の根絶-人類初の勝利」によると、
京都市左京区、京都大学の近くに百万遍という地名がある。お寺の別名である。すなわち、浄土宗大本山百万遍知恩寺。鎌倉時代末期、後醍醐天皇の時代(1331 年)に大流行していた天然痘を鎮めるためこの寺は百万遍念仏を行い、見事に鎮めて、天皇より「百万遍」の寺号を賜った。近代医学導入以前においては、染症の大流行時には、鎮静を祈祷のために読経(どきょう)が繰り返された。浄土宗・浄土真宗が隆盛した倉以降は読経の代わりに念仏が多くなった。この百万遍はその典型例である。1331 年といえば、後醍醐天皇にとっては失敗した倒幕運動の元弘の変を起こした元弘元年(8 月)である。この変により後醍醐天皇は岐島に配流になるので百万遍の話は 8 月以前の話である。2 年後の1333 年、天皇は隠岐島を脱出し、足利尊氏、新田義貞の挙兵により鎌倉幕府は崩壊する。疾病と戦乱は、いつの世にも人々を苦しめてきた。
百万遍の読経で見事に鎮まったとのこと!
しかしながら、疾病と戦乱は、いつの世にも人々を苦しめてきた。 残念ながら現代も続いております。
そしてこの頃の、ハンセン病、麻疹は、
ハンセン病
日本では、古代・中世にはこの病気は仏罰・神罰の現れたる穢れと考えられており、発症した者は非人身分に編入されるという不文律があった。これにより、都市では重病者が各地の悲田院や奈良の北山十八間戸、鎌倉の極楽寺などの施設に収容され、衣食住が供された。
麻疹
古来ほとんどの人が一生に一度はかかる重症の伝染病として知られ、かつては「命定め」とよばれて恐れられたため、全国各地に麻疹に関する民間信仰が伝わっている。
と、不治の病とも言える病気でありました。
どちらも現代は治療法が確立されております。
ハンセン病とは、癩菌 (らいきん) の感染によって起こる慢性細菌感染症。感染力は弱く、潜伏期は3年から20年にも及ぶため、かつては遺伝性と誤解されたこともあった。主に末梢神経が冒され、知覚麻痺・神経痛や皮膚症状のほか、脱毛、顔面や手指の変形などもみられる。近年は有効な化学療法剤がある。名は癩菌を発見したノルウェーの医師ハンセン(G.H.A.Hansen)にちなむ。
麻疹とは、小児に多い発疹性 (ほっしんせい) の急性感染症。学校感染症の一。感染症予防法の5類感染症の一。病原体は麻疹ウイルスで、飛沫 (ひまつ) 感染する。約10日の潜伏期間を経て、発熱・咳 (せき) ・目の充血など風邪のような症状で始まり、口の中に白斑が現れ、特有の赤い発疹が出て顔から全身に広がる。肺炎を併発して死亡することもある。ワクチン接種によって予防できる。ましん。
そして忘れちゃいけないのが
宗教!
まさにこの頃、続く戦乱で厭世観が強まり、魂の救済が求められるようになり、仏教の一般大衆化も進んだ。
浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、などなど。
すごい増えた。
この頃描かれた絵画には、遊行聖 が登場します。虚無僧の前身といわれる暮露 もその仲間です。
![](https://assets.st-note.com/img/1689767044712-2cjbr8zoOn.jpg?width=800)
国立国会図書館蔵
施しの周りに集まっている人々の中に暮露らしき人がいます。教訓抄に書かれた尺八を吹いたとされる目闇法師、いわゆる琵琶法師も『一遍上人絵伝』の中に描かれています。
暮露に関しては、noteのマガジン「暮露と文学」をご参照下さい♪
ここでやっと最初の疑問に戻りますが、
なぜこの百年間、尺八に関する史料が無いのか、個人的な見解でまとめてみると…
平安期以降、尺八が雅楽で用いられる事は絶えて無くなっていた事が伝えられていおり、貴族社会を中心とした芸能が衰退して行く一方で、庶民の中から新たな諸芸能が誕生し発展していった。ということは権力の象徴である「文字」と「史料」が繋がることを考えると、この頃の尺八奏者たちは文字の持たない人々だった。書いた物を「所持する、保存する、持ち歩く」などしなかったので史料など残っていない!
そして、続く戦乱に政権交代、以前当然のようにしてあったものがすっかり無くなるという事が起きる変革期であった。大きな災害もそれに加担しているかと推測します。史料があったとしてもどさくさに紛れてどこかへいってしまったか、燃えてしまったか、消えてしまった。
そして14世紀半ば、1358年に懐良親王よって書かれた『芳野拾遺物語』には尺八愛好の記事が書かれている。尺八は民衆から再び宮廷貴族社会へと戻ってきたのでは、と推測される論文が井出幸男氏の『中世尺八追考』によって記載されている。
ま、よかったというか、なんというか。
それにしても、こんなに色んなことがあってもよくぞ生き延びたと褒めてあげたい尺八ちゃんです。
この記事はコロナ禍の中で書いたのですが、
このコロナ騒動でも生き残るかな…古代尺八が消えたように、違う形で残るかもしれない…。
なんて書いてました。
全然大丈夫でしたね笑
消えるどころか素材の違う尺八が沢山登場しているようです。
疾病と戦乱から全ての人が救われるようにと祈り、新しい仏教の宗派が生まれたように、精神的にも皆が救われる、人の心を変える何かがこのコロナ禍という困難で生まれる事を願い、平等に全ての人が支援を受けれる事を願ったのですが…、
はてさて。
分断は益々進み、現実は増税値上げで苦しんでいる庶民たちがここにいて、なにゆえ株だけが上がっているのかよく分からないコムジョ。生きづらい世の中にどんどんなっていくような気がしてならないのですが。
今後、尺八の情報が消える100年なんて無いとは思いますが、本来の尺八道のようなものは薄らいではいくでしょう。現在は瞑想・メディテーションなど、新たな用途として尺八世界が広がっているようです。
精神性や音の探求もいいですが、虚無僧が吹き継いできた曲の伝承が途絶えること無いようにどうしたら良いのか。私は日々努力を惜しまないようにしたいと改めて思うのでした。
参考文献
山口正義著 『尺八史概説』
上野堅実著 『尺八の歴史』
井出幸男著『中世尺八追考 伝後醍醐天皇御賜の尺八を中心に』
山田悠著「尺八・虚無僧編年史」虚無僧研究会機関誌『一音成仏』第47号
井出幸男著『中世尺八追考』
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