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コムジョの尺八歴史探訪📖

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尺八の歴史をマニアックに探究中✐ 虚無僧の実態を探ります!
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#江戸時代

折り紙と虚無僧🪭

前回、千葉県夷隅郡の虚無僧寺、折紙寺へ『探墓行』しましたが、折紙という名前のお寺なんて珍しい。 と、いうことでまずは地名の事を調べてみた。 全国の地名で探して見ると、青森県の大鰐町に「折紙」という名の集落や河川がある。 大鰐と言えば...、30年前に大鰐温泉行ったことを思い出します。ちょうど真冬の今頃の時期。 当時、舞台会社のアルバイトをしていたが、社員旅行の欠員が出たため急遽私が穴埋めで行くことになり、というかこれがきっかけで社員になったという人生の分かれ道であった

絵画に見る虚無僧風俗の変貌★江戸時代初期篇

虚無僧というと思い浮かぶのが、天蓋(深編笠)を被って、手甲に高下駄。 こちらは辞書にあった虚無僧のイラスト。(故藤川師所蔵) こちらは歌舞伎役者の浮世絵。 派手な衣装に超太い丸ぐけ帯。絡子も大きいです。 江戸末期虚無僧スタイルのイメージというとこんな感じ。 さらには、 1700年代の伊達虚無僧の浮世絵はこちら↓ 1600年代はまたちょっと違います。 今回は江戸時代初期の虚無僧の風俗の変貌を追っていきたいと思います。 では、 まずは1600年代始め頃と思われる、

松戸市立博物館に展示されている「虚無僧寺一月寺」コーナーに行く👣

JR新八柱駅もしくは、新京成線八柱駅から歩いて15分くらいのところに、松戸市立博物館はあります。 考古学から団地まで展示してあり、とても楽しい♪ このように、虚無僧展示が常設されているのは全国でもここだけだそうなので、実際に見に行く事をお勧めしますが、尺八研究家の神田可遊氏に解説をしていただいた部分がありますので、こちらにチラリとnoteしたいと思います。 21世紀の森と広場内に博物館はあります。 〈チェック其の一〉 尺八は鞄に入れて入館すべし まずは、『探墓行』

虚無僧友鵞こと出石藩士、神谷転のお墓参りに行く。

ずっと続いています仙石騒動シリーズ其の五です! 今回は、目黒の住宅街にある天台宗のお寺永隆寺にある、神谷転のお墓参りに行きました。 出石藩の藩士であり、虚無僧友鵞となった神谷転は、裁許で勝利したにも関わらず、出石に帰ることなく虚無僧として亡くなります。 天保十四癸卯年(1843年) 善法院忠岳精雄義方居士 十月二十六日 棹石の右側面には、転の妻の戒名、没年月日。 謙敬院法譽貞将大姉、謙敬院者勝山候藩大須賀氏女来為義方君妻、 天保十三年壬寅四月十九日没。 葬干武州本郷

虚無僧が登場する御家騒動『仙石騒動』のお話📖

仙石騒動とは、但馬(兵庫県)出石藩に起きた藩政改革を巡っての守旧派と改革派の対立事件。御家騒動として知られている。 お家騒動(御家騒動)とは、江戸時代の大名家における内紛。 世間に語り継がれる、一般的な仙石騒動情報は、超簡単に説明しますと、 ・・・と、「善」対「悪」、「忠」対「不忠」とはっきり描かれており、家老の左京が悪者、虚無僧友鵞が善者となっております。 やはり、絵になるのは虚無僧。 こちらが歌舞伎の『千石船帆影白浜』。 市川団十郎演じる神谷転です。  読み物

『慶長之掟書』其の四!☆その後、書き加えられた条目を読み解く!

虚無僧が虚無僧でなり得た、家康お墨付きの掟書を探求する! 『慶長之掟書』シリーズ、其の四です! 1〜3のシリーズはこちらをご参照下さい↓ 其の一 初期の掟書を読み解きます。 其の二 『掟書』が承認(黙認)されていった経緯を探ります。 其の三 第一条だけは本物?!「虚無僧は武士なんだから同格に扱え」との掟書きは一体どんな理由で生じたのかを探ります。 この掟書のおかげで、虚無僧は治外法権的な立場を主張し続けてきたわけですが、江戸時代初期から後期までのおよそ200年の間

『慶長之掟書』を考察する☆其の三!

第一条だけは本物か?四つの根拠を探る! 『慶長之掟書』に関しては、尺八の研究者に散々不審点を挙げられ、偽書であるとの判が押されてしまっているわけですが、石綱清圃氏によると、第一条だけは、そうではないのでは?という考察がされています。 『慶長之掟書』についてはこちらをご参照下さい↓ その第一条とは、 訳は、 虚無僧に関しては、勇士である浪人にとって一時の隠家であり、警察も入る事の出来ない宗門である。よって武家の身分である事を理解すべきである。 今回は、その第一条の、虚

『慶長之掟書』其ノ二!☆江戸幕府の宗教政策と「掟」

前回『慶長之掟書』の続編です。 さて、 虚無僧の宗派、普化宗は一体いつ頃、どのようにその権利を獲得していったのかを探求しておりますが・・・ 『慶長之掟書』は一体どういうものかというと、水戸黄門の超有名台詞「この紋所が目に入らぬか!」の印籠のようなもの。それは権力のシンボルである「三つ葉葵」を見て皆がひれ伏す、あの徳川家康の『御老中達』のサイン入り特権的優遇措置が盛り込まれている「掟書」が論より証拠であるという、そんなお話でした。 何故それが江戸後半までバレずに済んだのか

虚無僧にとって何にも換え難い⁉️金科玉条の『慶長之掟書』とは!

『慶長之掟書(けいちょうのじょうしょ)』とは、かの有名な徳川家康が慶長十九年(1614年)に普化宗に付与したとされる掟書。 因に、掟書(おきてがき・じょうしょ)というのは、掟(法律・規則)を記した文書。 規則や法律、または家訓のようなものですね。それを四字熟語で表現しているのが「金科玉条(きんかぎょくじょう)」。 意味はこちら↓ 最近は、あまり使用されなさそうですが、 現代使用例を考えてみますと… てな感じでしょうか。 この金科玉条という言葉は、尺八の歴史資料の古

風陽さんの独り言。

江戸末期に生まれ、三代目黒沢琴古の高弟であり琴古四代目の、お侍さんである久松風陽 。 私は尺八を始めて5年ほど経った時に久松風陽の『獨言(ひとりごと)』に出会いました。以来、彼の言葉は私の中ではとても重要な指針となり、お守りとなっております。 まずは、 久松風陽を知るべし! 久松風陽ザッと略歴。 天明五年(1785)生まれ(本当は1791年生まれ) (「本当は1791年生まれ」というのは、尺八研究家の神田可遊氏曰く、昔は代を継ぐのに跡継ぎの子どもが若く、年数が空い