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『慶長之掟書』其の四!☆その後、書き加えられた条目を読み解く!
虚無僧が虚無僧でなり得た、家康お墨付きの掟書を探求する!
『慶長之掟書』シリーズ、其の四です!
1〜3のシリーズはこちらをご参照下さい↓
其の一
初期の掟書を読み解きます。
其の二
『掟書』が承認(黙認)されていった経緯を探ります。
其の三
第一条だけは本物?!「虚無僧は武士なんだから同格に扱え」との掟書きは一体どんな理由で生じたのかを探ります。
この掟書のおかげで、虚無僧は治外法権的な立場を主張し続けてきたわけですが、江戸時代初期から後期までのおよそ200年の間に、内容も勝手に書きかえられて進化(?)しました。
今回はその、後半の頃の掟書を、読み解いていきます!
なんと、本物が手元にあるので、それを解読していきます。
この掟書は、名古屋の虚無僧こと牧原一路氏が、資料提供して下さいました。
感謝です🙏
因に、一路氏は最近ユーチューバーになっているそうです!すごい。
3月のミニ講座で当日生配信として非公開としておりましたが、一ヶ月経ったということで、公開です!
是非、ミニ講座当日参加もお待ちしております❤️
さて、早速本題に入ります!
が、その前にその背景をざっと見ておきます。
其の一でもご紹介しました代表的な掟書はこちら↓
徳川禁令孝の「掟書」9条
内閣文庫所蔵の「掟書」10条
甲子夜話の「家康公御定」16条
琴古手帳の「家康公御定」17条
鈴法寺の「御掟書」20条
年代順にどういうものか紹介すると、
琴古手帳の「家康公御定」17条
(1740~1816年)
「琴古手帳」は琴古流3代目黒沢琴古(1722~1816)の手記にかかる備忘録で、この中に記載されている。文政8年(1825)の滝沢馬琴・山崎北峯の「兎園小説」の「虚無僧御定」も17条で「琴古手帳」とほぼ同じ。
『兎園小説』とは、兎園会で話し合われた異聞奇談の記録や考察を、馬琴が編者として(本名である「滝沢解」の名義で)まとめたものである。
滝沢馬琴についての詳細はこちら↓
また、この「琴古手帳」はどこから見つかったかと言うと、
大正8年、河本逸童師が尺八展覧会を開催するにあたり、初代琴古7代の孫に当たる黒澤栄太郎氏方の仏壇の中から発見されたものだそうです。これは、2世琴古の備忘録に3世が追記したもの(故に「父琴古」「祖父琴古」が混在)で、題名なしの縦2寸、横5寸程の横綴じの小手帳であったようです。現在、原本は行方不明となっており、中塚竹禅師の筆写をもとに塚本虚堂師が100部限定で影印出版したものが現存する資料となります(虚無僧研究会にて復刻、発行)。
甲子夜話の「家康公御定」16条
(1821年以降)
「甲子夜話」とは、平戸藩主だった松浦静山(1769~1841)の随筆。1821年に書き始めたもの。その著書の中で「家康公御定」と題した「慶長掟書」を写し取っていて、それを林大学頭に見せたところ、以前に見せた「掟書」とは異なるように思うという、林大学頭は感想を記している。
【林大学頭】とは、林 復斎のこと。江戸時代末期の儒学者、外交官。幕府朱子学者林家当主。
鈴法寺の「御掟書」20条
(1831年)
1792年の掟書を寺社奉行に提出してから約40年後の1831年に、鈴法寺院代で安楽寺住職の戢我が寺社奉行に提出したもの。「琴古手帳」のものに近い。
…、とあちこちから見つかっている掟書です。
総合的には社会との調和を規定している部分も多くなっている。それは逆説的にはそれだけ虚無僧の反社会的行動が問題になっていたことを示すものであろうが、社会との調和をうたう面はあるものの、本質的には虚無僧に都合のよい条文。
十五世紀から存在が確認される虚無僧は、江戸時代にはいると盛んに活動するようになるが、それに伴って、その弊害も次第に無視できないものとなっていた。
彼らの横暴ぶりが書かれた書物が残されています。18世紀末頃の普化寺や虚無僧たちの所業の実態について書かれた、中井積善著 『草茅危言』(1789年)にこう記されています。
虚無僧ノ本寺妙闇寺ハ、何ナル由緒来歴ノモノニヤ。自ラ武士ノ隠家ト称シ、血刀ヲ提、カケ込タル者ニテモ直ニ引受、本則ヲ渡シ修行ニ出ス由。夫故平生其宗ハ、悪党無頼ノ者ノ巣窟トスルト也。是ハ殷紂入シノ、逋逃ノ淵藪ト成シノ類ナレハ、甚タ憎ムヘキ者ナリ。又其輩、修行ノ先々ニテ狼籍ヲシ、無體ヲ云カケ、米銭ヲ子タリ取リ、假初ニモ喧嘩口論ヲスル事毎々聞及ヘリ。是ハ其宗門ニテモ堅ク誡禁スル事ナル共、無頼子故カツテ用ヒス、別テ憎ヘク厭ヘシ。
「甚だ憎むべき者なり」?!
なんとも厳しい😓
虚無僧さんたちは一体なにをやったんだ?!
詳しくはこちら!↓
その他にも…
1768年「浪人者餌差虚無僧取計之事」という触書が関八州と伊豆国村々に出される。
1770年 丹州播州作州(京都、兵庫、岡山)村々へ「浪人虚無僧の類徘徊いたし、木銭米代も相い払わず、押して止宿致し、或は合力<金品>を乞いねたり候類の族も之有る様相い聞こえ、不届に候」
1821年「和州江州勢州濃州(奈良、滋賀、三重、美濃)村々へ虚無僧共立入候儀」につき取締の検討がなされている。
このように虚無僧寺は、一般の人々の目には無頼悪党の溜まり場と映り、虚無僧体の者たちが托鉢の先々でもかなり理不尽な働きをしてしばしば社会の顰蹙を買っていたのである
このような背景があったことを理解しつつ、後期の掟書を読み解いて行きます!
なが〜い紙に書かれているので三分割です。
其の一の掟書は10条だったのに、18条と条目が増えております!
掟書の下にはその翻刻されたもの(牧原氏提供)を、プラス私が調べて分かった部分を修正してあります。
そして番号順に翻訳と、解説が下に書いてあります。
![](https://assets.st-note.com/img/1650457216834-2SrJc27see.jpg?width=800)
![](https://assets.st-note.com/img/1650507266640-4XhiaTNSE5.jpg?width=800)
定
1)日本国の虚無僧に関しては、勇者浪人一時の隠家の為、不入守護の宗門である。之に依て天下の家臣諸士の席に定める條、其の意を得るべきであること。
「日本国」という言葉が登場。第一条はどの掟書も同じ内容。
2)本寺へ宗法を出し据える場合、其段油断無く守せるべき者也。若し相背く者がいたら、末寺は本寺より、虚無僧は其の寺より、早急に宗法を以て行うべき。
New条目・宗法を守るように!とのこと。
3)虚無僧の生活に関しては、諸国所々廻行を専にする理由は、免ずること。遍歴修行の内、諸国に於いては国法といたし、虚無僧に粗略な無礼な態度(麁相慮外)や解決困難なことが起こったら子細を取り調べ、本寺に報告しなければならない。本寺にて解決しない場合は、江戸奉行所に訴えなければならない。
初期の条項の4とほぼ同じですが、太線部分は少しニュアンスが違っていて、虚無僧絶対的な優遇から、虚無僧は諸国においてはそこのルールに従えと付け加えられています。
4)虚無僧托鉢に出たり、或は道中、宿や往来に於いていづれも天蓋を取り、諸人に面を合わせてはならない。
初期の条項の5と同じ。
5)虚無僧托鉢の節、刀類一切持たさせてはならない。人を脅したり、そのような容貌はしてはならない。一尺以下の刃物は懐剣として免ずる。
こちらは初期の条項を全く真逆となりました。
6)虚無僧を改めるとして諸国に番僧を廻し、宗法行跡を改め申すべき事。
New条目・諸国に番僧を廻すとのこと。
7)若し、偽似(にせ)虚無僧がいたら、早急に宗法を行うべし、又賄賂等を請ければ、番僧たり共、重罪になすべし。
New条目・偽虚無僧を取り締る!賄賂があったら重罪!
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8)虚無僧の外、尺八を吹くと申す者においては、本寺より尺八のゆるしを出し、吹かせるべし。勿論武士の外、下賎の者共に一切尺八を吹かせるべきではない。虚無僧(姿)にいたすべからず。
初期の掟書の2条目と同じようで同じで無い。「武士のほか一向坊主、百姓、町人、下賎の者を虚無僧にしてはならない」だったのが、下賎の者共のみ一切ダメとなりました。町人などには教えて本則料を取っていたからでしょうか。
9)虚無僧大勢集まりて逆意(むほん)を申し合わせする届けにおいては、早急に吟味を遂げ、本寺並びに番僧に至る迄、重罪となすべき事。
New条目・大勢集まるっていうのがダメなのでしょうか…。
10)虚無僧托鉢修行は同行二人でおこなうこと。
New条目・浮世絵の虚無僧は二人で描かれていることが多いですね。
11)托鉢に出るとき、卑劣の礼に応じない事。
New条目・卑劣な行いに応じない。カッとなってはダメよってことでしょうか。
12)虚無僧托鉢に出る際、下賎の者の痛みを顧みない托鉢、或は宿駕(旅人を乗せて宿駅間を往来した極めて粗末な駕籠)などしてはならない。殊に権威をもって酒宴遊興、勿論私欲賄賂饗応に預かる事、堅く停止(ちょうじ)也。正道一己、慎みの無い者においては、本則を取り上げる。
New条目・社会との調和を目指しています。
13)虚無僧自然互いに敵討にしたならば、吟味を遂げ還俗申付、寺内において勝負させるべし。言うまでもなく諸士以外は一切許可はしない。贔屓を以て不公平な仕方は堅く停止する事。
New条目・還俗してからなら、喧嘩(果たし合い)してもいいよってことですね。
14)諸士、人を斬り殺し、血刀を掲げて寺内へ駆け込んだならば、子細相改め、何事も武士道にて宗法にかけるべき。武士、其の主人、親殺しの咎人を一切隠し置いてはならない。もし後日に顕われ、逃れ難き場合は、早急に縄を懸けて差し出す事。
初期の8条目とほぼ同じです。ただし「事情を聞き保護をしなければならない」だったのが、「宗法にかけるべき」となっています。
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![](https://assets.st-note.com/img/1650507312301-ptuR4JLv4c.jpg?width=800)
15)虚無僧に出る際、敵討ちしたい者がいたら、其の段、子細改め許すべし。勿論、大勢集り討たない事。尤も、同行(伴)一人は免じる。諸士の外は一切許さない。
初期の7条目「虚無僧は、仇討ちしたいものがあれば、良く調べ、本寺に許可を得なければならない」とほぼ同じですが、大勢でやっちゃダメで同伴者一人ならいい、とのこと。
16)虚無僧の修行の往来に、馬、駕籠一切無用。殊に関所番所にては、無作法の無き様に仕え、本寺よりの本則従来を出し、相改させ通すべし。若し又脇道より忍びの虚無僧が有れば、早急に吟味し、曲事となすべし。
New条目・虚無僧があの天蓋被って馬に乗っていたり、駕籠に乗っている浮世絵がないわけですね。あと、掟書に書かれるくらいなので、忍びの虚無僧って沢山いたんですかねぇ〜。これは時代劇によくあるシチュエーションだ。というか、だいたい虚無僧は脇道から出てくるイメージですよね、ホントにいたんだと改めて認識です。
17)住む所を離れ他国所々城下町あちこちで托鉢修行逗留、七日以外堅く無用。若し鳴物停止と告げに来たならば、宗門伝授に付、修行にも風流事は吹くべきではない。勿論、遊芸出合等で吹くべきではない。(宗門伝授の通り、むかいじの外一切吹いてはいけない)
New条目・カッコ内の(宗門伝授の通り、むかいじの外一切吹いてはいけない)は、この掟書には無いのですが、参考にした資料には書かれている文言です。〈むかいじ〉ではなく〈虚鈴〉とする掟書も多いとのこと。
18)虚無僧に関しては天下の家臣諸士の席にあるからには、常に武門の正道を失わず、何時でも還俗はできるように、面(表)には僧の形を学び、内心では武士の志を励み、武者修行の宗門と心得るべし者也。その為、日本国の往来の自由に差し許すべしこと。
New条目・結局、最後は武士と言う身分である虚無僧に対する特権を与えている内容で、第一条目とつながっています。
右
御意の趣、相渡し
意向を渡し、命令を献上する。会合の節にはよくよく申し聞かせ、守るべきもの也。
〈その他、他の掟書に書かれている条目〉
托鉢修行の節尺八定寸を離れ長短の尺八色々の竹、吹申間敷事
一尺八寸以外禁止!
これは現在も京都の明暗流では引き継がれているようですね。
谷狂竹が長い尺八で吹出したので、宮川如山に破門されたというのは、恐らくこの理由なのでしょう。「八寸でろくに吹けないのに、長いので吹くな」という観念がある人もいます。やはり偽虚無僧は、適当に竹切って尺八作っていたのでしょうか。
<翻訳の参考文献>
『家康公御掟書』(1831年)鈴法寺院代で安楽寺住職の戢我が寺社奉行に提出した掟書(上野堅実著『尺八の歴史』)
『普化宗門掟書』「田安文庫」森田洋平著『新虚無僧雑記』
はたして…
こんなに都合の良い条目、幕府は信じていたのでしょうか?
後年の、寺社奉行からの問い糺しには…、
弘化三年(1846)の寺社奉行からの問い糺しに対し一月寺・鈴法寺は「右は、宝永丁亥年(1707)月日不知、下総国小金宿消失の節、旧記什物等過半消失仕候に付、其節、慶長御掟書共、焼失仕候。・・・鈴法寺番所、元禄十六年(1703)の節、四ッ谷大横町にて旧記不残(のこらず)焼失仕候」(『普化宗雑記』)
燃えて無くなっちゃった💦
とのこと。
江戸時代後期、弘化四年(1847)には幕府自身が『慶長之掟書』の徹底した吟味を行いました。
「普化宗流弊改革之儀ニ付申上候書付」(内藤紀伊守・寺社奉行)
一体、武家の悪党寄集まり、慶長度御条目の由を以て勇士の隠家と申成し、素性他へ漏らさず、面体を隠し罷り在り候故、手荒気強の所業に及び候趣に相聞え、右掟の由も兼ねて心得難く存じ居り候次第も之あり…云々
文儀も甚だ拙陋(下手で見にくい)、三人の連名も不審、林大学頭によると、記録にない等々…
1847年には幕府より偽書と断定された!
初期の掟書が1700年始め頃に書かれたとしても、100年以上も虚無僧は幕府を騙し続けることが出来たというのが、まずスゴいですね。笑
武士と僧侶の合体型ですから、新しい身分の人たちとして世間には受け入れられたのでしょうか。
虚無僧の探求はまだまだ続きますが、一先ず『慶長之掟書』を読み解くシリーズはこれにて終わります。
最後までお付き合いありがとうございました🙏
古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇