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コムジョの尺八歴史探訪📖

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尺八の歴史をマニアックに探究中✐ 虚無僧の実態を探ります!
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記事一覧

絵巻『熈代勝覧』の虚無僧に会いに行く

『熈代勝覧』とは、文化2年(1805年)の頃の、日本橋から竜閑川に架かる神田今川橋までの通りの様子が描かれている絵巻。 当時の問屋街や人々が生き生きと描かれており、この辺りは江戸一の商店街だったそうな。 作者は不明。 1990年代にベルリンで発見され、現在はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。 こちらのサイトで、絵巻が見られます。 ベルリン国立アジア美術館の絵巻が拡大で見ることができ、とても綺麗な色彩のまま残されていることが分かる。 このウェブサイト上でも虚

三浦半島の虚無僧寺☆竜山寺『探墓行』👣

ご本尊、不動明王さまに会いに行く☆ 浦谷山竜山寺 所在地 江戸時代 相州三浦郡下宮田 三浦市初声町下宮田(元屋敷)1399 開期 寛文二年(1662年) 本寺 金先派西向寺 建物 四間×三間半 敷地 十五間×八間 本尊 不動尊 歴代 開山 竜当元珠 寛文年間 (1661−1673年)開基 道仙 中興 風味禪公 残されている墓  柳山圓水 庵主 文化七年九月廿三日 彼の墓が寺のあった所に残っているといわれている。 実相寺の古文書に記された竜山寺について

尺八吹きの羅漢さま☆川越喜多院へ

日本三大羅漢の一つと言われる川越の喜多院にある五百羅漢の中に、尺八を吹いている羅漢さまがおられるとのこと。 塚本虚堂集『古典尺八及び三曲に関する小論集』に「珍しい石造の羅漢尺八吹奏像」として昭和46年の記事が掲載されています。 尺八研究家の神田可遊師に案内していただきました。 川越は小江戸と呼ばれ、江戸の情緒を今に残し、古き良き街並みがある観光客でいつでも賑わっている街。西武新宿線、JR線、東武東上線と三つの路線があり、大変便利です。 まずは、川越喜多院の南側にある、

尺八を吹く菩薩さま☆東京・東大和市圓乗院にて

奈良の東大寺の大仏殿正面に、国宝に認定されている金剛八角燈籠という大きな燈籠があります。 幾多の戦火にも耐え続け、奈良時代創建当初からあるものとのこと。 その東大寺八角燈籠の、東西南北四面の羽目板部分には獅子が彫られ、残りの四面には音楽を奏でる音声菩薩が彫られています。 その中に、音声菩薩の中の一人に尺八を吹いている菩薩さまがおられます。 尺八の研究を少しでも始めた人なら誰でも見たことがあるであろう八角燈籠の尺八吹きの菩薩さまです。 この八角燈籠、奈良に行かないと見ら

折り紙と虚無僧🪭

前回、千葉県夷隅郡の虚無僧寺、折紙寺へ『探墓行』しましたが、折紙という名前のお寺なんて珍しい。 と、いうことでまずは地名の事を調べてみた。 全国の地名で探して見ると、青森県の大鰐町に「折紙」という名の集落や河川がある。 大鰐と言えば...、30年前に大鰐温泉行ったことを思い出します。ちょうど真冬の今頃の時期。 当時、舞台会社のアルバイトをしていたが、社員旅行の欠員が出たため急遽私が穴埋めで行くことになり、というかこれがきっかけで社員になったという人生の分かれ道であった

ふるさとの美を求めて★竹内史光師インタビュー岐阜の巻

尺八寸の鳴る竹に竹内史光 こちらの記事は「月刊(民芸)、発行 岐阜民芸通信」。 この月刊民芸に関することは詳しくは分かりませんが、岐阜地域の月刊誌のようです。値段から推測するに昭和前半頃でしょうか。 竹内史光師のインタビューが掲載されており、門下の故藤川流光師に譲り受けたものです。なかなか貴重なものですので、こちらに掲載して史光師を偲びたいと思います。 まずは冒頭部分。 細かい事で恐縮ですが、最初のカッコが何故か逆になっています。 【進取の気性(気風)】既成概念にと

古典尺八楽愛好会企画!🐾青梅虚無僧寺鈴法寺『探墓行』

6月に企画していた鈴法寺『探墓行』が、なんとドンピシャで台風到来🌀!で、延期となり、ようやく先日12月1日に実現することができました。 河辺駅から出発です。 こちらは青梅街道。 虚無僧達が歩いていた200年前とは激変でしょうねぇ。 鈴法寺跡公園 まずは、鈴法寺歴代住職墓前にて献奏。 後ろ姿で尺八吹いてるのかどうか分かりませんが、献笛中です。 ところで、今頃気がついたのですが、墓前にある花立てのこの家紋は一体どちらに由縁のの家紋なのでしょうね? 「鈴法寺井戸跡」

浜松の虚無僧寺☆普大寺『探墓行』👣

静岡県浜松市にあった虚無僧寺、普大寺について調べました。まずは現地に『探墓行』へ、今年の3月に行ってきました。 樋口対山を遡るとここに辿り着きます。 鈴鐸山普大寺場所:遠州敷地郡浜松七軒町 現在:浜松市菅原町東北端 本寺:関東虚無僧寺、総本山一月寺 菩提寺 泉松山法林寺 現在:浜松市成子町13 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ、めちゃめちゃ充実してます。法林寺の隣に普大寺があるのがとても分かりやすい。普大寺の場所は七軒町のやや小高い場所にあったようです。

絵画に見る虚無僧風俗の変貌★江戸時代初期篇

虚無僧というと思い浮かぶのが、天蓋(深編笠)を被って、手甲に高下駄。 こちらは辞書にあった虚無僧のイラスト。(故藤川師所蔵) こちらは歌舞伎役者の浮世絵。 派手な衣装に超太い丸ぐけ帯。絡子も大きいです。 江戸末期虚無僧スタイルのイメージというとこんな感じ。 さらには、 1700年代の伊達虚無僧の浮世絵はこちら↓ 1600年代はまたちょっと違います。 今回は江戸時代初期の虚無僧の風俗の変貌を追っていきたいと思います。 では、 まずは1600年代始め頃と思われる、

「明暗對山派」の曲はどこからやってきたのか。

「明暗對山派」シリーズ其の三です。 前回、前々回と樋口對山の略歴、明暗對山派の由来、明暗真法流について探求しました。 今回は、對山派の曲を整理したいと思います。 樋口對山の伝承曲は32曲。 兼友西園、東京の琴古流、九州の博多一朝軒などから曲を整譜しまとめました。 <西園流> 兼友西園ほかからの伝承 〈琴古流〉 主に荒木古童より伝承 滝川中和伝 九州地方の伝曲 主に一朝軒関係者より伝承であろう 東北地方の伝曲 伝承不明 〈解説〉 明治27〜8年、對

明暗對山派さらに深掘り☆對山はどうして明暗三十五世になれたのか。

古典本曲といわれる曲のなかでも、明暗對山派の流れはとても多いのではないかと思いますが、對山本人のことはあまり知られていない気がします。 前回は、西園流の開祖、兼友西園と、名古屋の鈴木治助、後の樋口對山について調べました。 對山は、名古屋から京都にやってきて明暗教会のトップになり、さらに三十五世まで継ぐことが出来たのは一体何故か? さらに深堀りしていきたいと思います。 では、 幕末の頃、京都明暗寺はどうなっていたのか 明暗寺住職 その頃、明暗寺には、 渡邉鶴山、

對山派って何ですか?

そんな質問が古典尺八楽愛好会の参加者の方からありました。 明暗流には二派あって、その一つが對山派であり自分たちが吹いている曲はその對山派なのだ。 もう一方は、もともとあった旧明暗寺系で、明暗真法流と呼称されている。 ところで何故そんなことになっちゃったの? 名古屋の樋口對山がいきなり京都に行って、明暗流を継ぐことができたの? 今まであった京都の明暗寺系とは喧嘩にならなかったの? と、そんな細かい疑問も沸いてきた。 まずは、 分りやすくルーツを書いてみました。

幽霊展と幡随院長兵衛の墓参り☆尺八ゆかりの台東区巡り👣

一節切を持った幽霊を見に行く👻 毎年8月の1ヶ月間のみ特別公開されている、落語中興の祖・三遊亭圓朝の収集した幽霊画展が全生庵にて行われているということで、尺八研究家の神田可遊氏に案内していただきました。 圓朝コレクションの中に、一節切を持った幽霊がいるとのこと! しかしながら、 なんと、今年はたまたま、竹思庵一静画の「一節切を持つ幽霊」展示無し! 一節切ファンの皆さま、ご注意ください。 いつもは展示されていたそうなので、今年は残念でした。 来年は展示されるといいで

なぜ古代尺八は消えたのか☆『文机談』から読み解く

『文机談』(ぶんきだん)とは、1272年前後に書かれた琵琶の西流を伝承する藤原孝時の弟子の僧、 文机房隆円が書いた琵琶の歴史物語。 藤原孝時とは、平安時代から鎌倉時代にかけての雅楽師の藤原孝道の子。父孝道は楽器の演奏・製作・修理いずれにも長じ、「管絃音曲の精微を窮す人也」と称されたそうです。孝時は二十歳の年から熊野へ詣でて、「我が芸がもし父の芸に及ばなければ、ただちに命を召しあげてください」と申され、祈請の旨が神慮にかなって、琵琶の道における第一人者となったそうな。父、孝道