【サスペンス小説】その男はサイコパス 第9話

「失礼しました、時道さん。しかしあなたを助けるためでもあります」

 知也は再び手ぬぐいを老人の頭に巻いた。今度はきちんとした応急処置のやり方ではなく、適当に傷口を覆(おお)っただけだ。

「さあ行け、水樹」

 

 水樹はもうためらわなかった。掃き出し窓の外にあった庭仕事用のスニーカーを履(は)いたまま、四つん這(ば)いになっている知也の背に乗る。水樹の身長は日本人の成人男性として決して低い方ではない。

 水樹は70センチ近くの高さの台の上に乗ったのと同じで、高さ170センチの塀の上に楽に上がれた。そのまま乗り越えて、向こう側に着地する。

 すでに警官は駆けつけて来るところだった。おそらくは先ほどの騒ぎを聞いていたのだろう。

「大丈夫ですか!? 何がありましたか?」

 年配の方の警官が尋ねてきた。若い方は門の前に残してきたのだろうかと水樹は思う。

「あの、友人が、台になるから二人だけで塀を越えて逃げろと言って……。まだ友人と祖父は向こう側にいます。どうか助けてください」

「待ってください、今すぐ応援が来ますから」

「それじゃ間に合わないかも知れないんです」

 そこへ、警官よりも冷静な知也の声がした。

「とにかく、時道さんはここから出して差し上げろ。水樹、頼んだぞ」

「分かったよ」

 水樹は素直に返事をした。まだわだかまりは残っている。それでも頼りがいのある友人、そう友人には違いなかった。

 祖父が塀の上から姿を現した。警官が、手伝いますと言ってくれた。


 時道老人も知也も無防備に背中を見せる状態になっていた。知也は四つん這いで地面を見ている。忍び寄る者には気がつかなかった。犯人がかなり近くまで来た時には、直感が働いて一人の女が歩み寄るのを見た。

 それを目の隅(すみ)で捉えた。塀の向こうの水樹と警官、背を向けて塀を乗り越えようとしている時道老人は気がつかない。

 女もまた、知也に気がつかれているとは分かっていないようだ。女は美人に見えた。大きなマスクで顔の下の部分を隠し、目元にはサングラスがあるが、鼻筋が通っていて、顔の形も肌の色つやも良いのは見て取れた。

 プロポーションもモデルのようにすらりとしている。髪は濃い茶色で長い。

 女はナイフを手にしていた。刃渡りは15センチほど。かなり大型のナイフだ。幸い、女に気がついてから間を開けずに、時道老人の足が知也の背中から離れた。

 知也は待った。女がもっと近くに来るまで。

 時道翁が無事に塀を乗り越えられるかは、この際気にしている場合ではなかった。水樹と警官をある程度は信用してもいた。

 女は、こちらが気がついているとは知らない。

 そうやって油断させて。

 よし、今だ。

 知也は急に立ち上がった。手にはむろんワイン瓶がある。女の持つナイフよりリーチがある武器だ。日本人の男としては長身の部類に入る知也の方が腕も長い。

 女は不意を突かれて驚いたようだ。一瞬、硬直したように動かなくなる。そのスキを見逃しはしなかった。

 真夏の猛暑日で、女は薄着だった。膝上くらいの白の短パンに、黒いタンクトップ。知也は容赦なく、ナイフを持っている右手の二の腕に、ワイン瓶の割れた切っ先を差し込んだ。

 女は凄まじい悲鳴を上げて後ろに下がった。ナイフを持つ腕はだらりと垂れ、左手で傷ついた二の腕を庇(かば)っている。

「何がありました!?」

「知也!? 今のは一体?」

 警官と水樹の声がした。時道老人はセキュリティ会社に連絡を入れているようだ。今からでは間に合わない。どの道、民間企業にできることは限られる。正当防衛のために銃の所持が一般人にも認められるアメリカとは違う。良くも悪くも、日本は自衛を重んじる国ではないのだ。重んじないようにしている、されていると言うべきか。

「犯人がいます。ナイフを持っています」

 知也は事実だけを静かに告げた。

「早く逃げてください!」

 警官は言った。まあ当然だな、と思う。一般人に戦えとは言うまい。知也は塀を背にしながら横向きに動く。女から目は離さない。

「待ちなさい、この──喰らえ!」

 女は手にしたナイフを投げてきた。

 全く予想していなかったわけではない。女が武器を失うリスクを冒すとは考えにくかった。まだ隠している武器でもあるのだろうか。

 投げられたナイフを、かろうじてワイン瓶で弾き返す。瓶には衝撃でさらにひび割れが生じる。もう武器として使わない方がいいかも知れない。

 ナイフは知也の足元近くに落ちた。左足を伸ばしてナイフの刃を踏んだ。女は目に見えてうろたえる。女から目を離さないようにしながら、素早くかがみ込んで拾い上げた。

「勝負あったな」

 女は背を向けて逃げ出した。その背にナイフを、今度はこちらから投げてやろうかとも思ったが、さすがにやり過ぎだろう。下手をすれば過剰防衛どころか傷害罪になりかねない。もう警官も近くに来ていて、逃げろと指示されているのだ。

「犯人は逃げてゆきます。門の方です」

 その時、またパトカーのサイレンが聞こえてきた。応援が来たのか。そこは単純によかったと思う。ホッとするのではなかった。まだ何があるか分からないから油断はしない。

 ただ用心するだけでなく、スリリングな高揚感が失われていくのを少し残念にも思っていた。こんな知也の気質を水樹は知っている。彼は、不気味と思いつつも離れられないままにいるのだ。

「水樹、聞こえるか?」

 その水樹に問い掛ける。

「知也! 無事だったか!?」

「『俺』は大丈夫だよ。それより過剰防衛で逮捕されるかも知れない。弁護士さん、頼んだぞ」

 そう言って知也は、まだナイフとワイン瓶を手放さずに、何事もなかったかのように門に向かって歩いていった。


 知也が予想していた通り、彼は過剰防衛の容疑で逮捕された。その理由はこうである。

 相手は細身の女、知也は長身と言ってよい身の丈と、比較的鍛えられた体格の若い男だ。ナイフは刃渡り15センチ、大型ではあるが、知也が気がついた時点ではまだ女との距離もあり、女もあからな害意は見せなかった。

「そうよ、アタシを逮捕するなら、こいつも捕まえてよ、おまわりさん」

 ワイン瓶と水樹が残していった鉄製のフライパンで威嚇しつつ、すでに駆けつけていた警官に助けを求めつつ逃げるだけでよい。ワイン瓶の割れた切っ先で刺したのは明らかにやり過ぎで過剰防衛だ。それが女と、事情聴取をした警察の言い分だった。

 知也はナイフを投げてきた女と共に手錠を掛けられ、逮捕されてパトカーに乗せられた。

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