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『カーミラ』の序盤を読んで

 AmazonKindleで序盤を読んだ。道の途中で、病気で倒れていた美少女を主人公の一家が助けるまで。

 その序盤までの感想や考察になるので、少し雑語りになるかも知れないがご容赦を。

 この小説は1870年代に書かれた。今から150年ほども昔である。今の小説、ライトノベルではない一般文芸と呼ばれる大人向けの小説と比べても、序盤の展開は遅い。

 祖国のイギリスを離れて、ヨーロッパの田舎の土地に移ってきた主人公の語りで物語は始める。

 ここでは物価が安いので貴族のような暮らしができると語る主人公の一家は、美しい土地の広大な屋敷に住んでいる。

 と、そのあたりの情景描写が最初から長く、そしてゆっくりと語られる。退屈とは言わないが、今の小説を読み慣れた身にすれば、かなりスローテンポに感じられるのは否めない。

 それでも、表現と語り口は上品で美しく品がある。訳も良いのだろうが、少しずつでも読んでしまう。ゆっくりでいいから、最後まで読みたいと思わせられた。まあ、長編ではないのもあるのだが。

 ここで語られるヨーロッパの田舎の風景や主人公を取り巻く情勢、情景は、主人公のために存在しているのではないと感じさせられる。

 おかしな言い回しに思えるだろうか?

 主人公のために存在している世界とは、要するにゲーム的な世界観で語られる物語である。

 私は、自分の書くハイファンタジー小説も割とそうだと思っている。

 主人公(たち)が活躍するための舞台。そんな意図で世界は創られる。

 元々若い頃に読んで影響を受けたハイファンタジー小説も、ゲーム的な世界観の小説が多かった。

 『ロードス島戦記』も『ソード・ワールド短編集』も、海外翻訳の『アイスウィンド・サーガ』も『ドラゴンランス戦記』もそうだった。

 ゆえに、私の小説の書き方は、背景世界を、主人公たちが活躍するための舞台装置として書く傾向にある。

 ゲーム難度はハードだったり、時にはイージーだったり、解決はできたり、できなかったり。

 ラストの演出は、霧や闇の中に消えるように不明瞭な場合もあれば、時には明快にする時もある。

 その点はいろいろだが、基本的にはゲーム的な世界観のハイファンタジー小説が基礎になっている、と思う。

 聞くところによれば、このゲーム的な世界観は、今ではより広範に、そしてよりライトになって特にウェブ小説の世界に広がっているらしい。

 だから、ハイファンタジーの世界設定と言えばこのような『主人公の活躍の舞台のための設定』を思い描く人が多いだろう。

 でも、そうではないハイファンタジーもあっていいのではないか。
 
 世界は主人公とは関わりなく、厳として存在する。

 それは別に、作者が主人公や読者に押し付けたマイルールではなく、現実のこの世界が、私たちのために存在するのではないのと同じである。

 要するにリアリティレベルがかなり高いわけで、正直なところ、好き嫌いは分かれるだろう。

 でも創作に明確なルールはない。そこはスポーツとは違う点である。

 と言うより、過去にそのような創作技法はすでに存在していたのだ。私も『カーミラ』を読むまでは知らないでいた。

 単に、私が知らなかっただけである。

 ちなみにドイツ・ロマン派のホフマンの『砂男』については過去の記事で感想を書いたが、『カーミラ』と同じく過去の現実のヨーロッパを舞台にしてはいる。

 『砂男』には、『カーミラ』のような、主人公と背景となる世界との距離感を感じなかった。男性主人公だからということもあるだろうが、主人公はより能動的に、世界や状況に働きかける。

 『砂男』の主人公は状況によって悲劇へと追いやられるが、それもまたある種の『主人公のための舞台設定』ではある。

 働きかけ方が間違っていたから、悲劇に見舞われたのだ、と私は解釈したが。

 ラブクラフトのホラーもそうで、男性主人公は状況に能動的に働きかける。しかし破滅する。

 自業自得的に破滅する場合もあるが、単に状況に能動的に働きかけただけで、どうしようもない邪悪な何者かによって破滅させられる場合もある。

 問題は解決されず、主人公は破滅させられるが、それでも『主人公のための舞台設定』には違いない。そう思える。

 ドイツ・ロマン派もラブクラフトのコズミックホラーも、コンピュータゲームやテーブルトークRPGが知られるずっと以前に書かれた物語だが、『主人公のための舞台設定』および『世界に対して能動的に働きかける主人公』には違いないと思う。

 『カーミラ』の場合は、それとは違っていて、当時の女性主人公だからということもあって、やや受け身で、彼女を取り巻く状況は、彼女の意思や行動に関わりなく、そこに最初から厳として存在する。

 女性主人公は、その中でもちろん助けられるのをただ待つのではなく、自分にできる限りの事はするが、基本的に、その世界は『主人公の活躍のための舞台設定』ではない。

 主人公はいわば、世界の恐ろしさに巻き込まれたのであり、巻き込まれた中でできる限りの事をする。

 そんなニュアンスに思えた。

 このように私は、自作と過去の名作、そして私が知るあるハイファンタジー小説について解釈したが、もちろんこれが絶対に正しいと言うつもりはない。

 人それぞれ考え方があると思う。もし違うと思うなら、あなた自身の判断に従って欲しい。

 ここまで読んでくださってありがとうございました、また次回の記事もよろしくお願いします。

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