対話よりも、議論がしてみたいと思う理由

最近、YouTubeで専門家たちが特定のテーマについて議論をしている動画を見るのが好きだ。また、飲み会などで、異なる背景を持つ人たちと、それぞれの立場に立った主張やコミュニケーションが交わされる場が好きだ。なぜだろう。ちょっとよく考えてみたい。

キッカケは成田悠輔さん

最近本当にハマっている。僕は適度なミーハーという自認があるので、すぐに興味あるものにのめり込むタイプなのだが、彼は非常にツボにハマっている。まずとにかく論理的で話が圧倒的にわかりやすい。東大→MIT→イエール大学助教というずば抜けた知性の持ち主でありながら、平易な言葉で鋭い切れ味で多くの相手に切り込む姿勢がすごく好きだ。

彼は、極論を言いまくる頭のおかしな天才などと誤解されがちな側面もあるが、敢えて彼は極論めいたこと言い、自分のスタンスをハッキリさせる手法をとっているのでは?などとも僕は思ったりしている。僕がよく見る、abemaTVの討論番組や、日経テレ東大学に出て議論している彼の印象はそんな感じだ。

僕は、動画メディアにおける彼の魅力は「相手の思考への純粋な興味」のような形で、相手に対して本質的な質問をする能力に非常に優れていること、だと思っている。自分の天才性を鼻にかけることなど、全くの無意味と言わんばかりに、誰よりも貪欲に理解と思考を試みようとするその姿勢が、彼がここまでに積んできた実績に直結しているのではないだろうか。

・・と、成田さんを好きな理由を語るのはこの程度にして、今までの自分について少しだけ語りたい。

変わらず好きなことは、複数の異質な個性をもった人たちがある特定のテーマに対して、自らの原体験をもとに対話を行う空間の中にいること

これは明確に思っていることで、カタリバでの活動も然り、昨年友人と企画していた、「mui」という自然の中に身を置き、対話や自己内省を深めるリトリートプログラムのようなものも然りで、常にそういう空間を本能的に欲している節がある。これは、言語化しようとしても仕切れないほどに、自分の現存在と結びついた欲求であると感じている。ただ人が好きとか、人間に興味があるという言葉だけでは片付けられないほどに、魂レベルで求めている感覚なのである。
しかし、これらの活動で行われるのは、比較的個々が自律していて、直接的な利害関係の少ない対話の時間である。互いに何か共通の問題に対して時に対立を絡みながら、深く踏み込み合うという機会ではない。
つまり、対話的な時間であり、議論的な時間ではないのだ。

ではなぜ今自分は、議論をすることを求めているのだろうか。

利害関係が生じる関係性において、意見や思想の違いを前提としたコミュニケーションや、共創を重ねて行きたい

そもそも対話の目的は、「対話の過程で他者と自分の違いを浮き彫りにしながら、他者と自分のより深い理解を求めていくこと」だと思っているのだが、議論はまた別の目的があるように思う。
議論は、「ある特定の話題に関して、異なる立場をとった人たちが主義主張を闘わせることによって、自分の主義主張やそもそもの思考OSをアップデートさせること」のように考えている。
つまり、議論の結果には特に意味がなく、議論に参加する個人が自己変容していく過程に意味があり、こと討論番組においては、視聴者がコメンテーターに自分を投影しながら議論に擬似参加することにこそ、最大の価値があると考える。

まとめると僕は今、「自己理解を深めたいという欲求以上に、自分の現時点での立場や主義主張を持って、他者と意見を闘わせながら、個々の物事を深く吟味して考える力を育んでいきたい」と考えているのである。

ではなぜそう思うに至ったのか?最後にそれを書いて終わりにしたい。


僕が受けて来たこれまでの学校教育の過程には、議論や対話の要素が無さすぎること

ここ2ヶ月の転職活動を通じて、改めて自分の過去を棚卸し、はじめて話す相手にそれを咀嚼して伝える機会が多かったので、その中で様々な気づきがあったのだが、特に明確に感じたのはこの点である。
僕は既存の学校教育という枠組みの中では、非常によく飼い慣らされた優等生というポジションを担っており、いわゆる学校が育てたい「学業に真面目に励み、部活動にも精を出し、人間関係を大切にしながら学校行事に積極的に参加する」ような生徒のあり様をかなり高い水準で完遂して来た。僕は見事に日本の学校教育の中で、エリートとして生きて来たのである。

そんな僕は、目の前の学業・部活・学校行事に真剣に取り組むことに、さしたる迷いも違和感も持たず、ただそのゲームをRPGのようにレベル上げをしながら楽しみ続けて来たのだ。

しかし僕は、東大合格以降、人生の目的をはじめて見失い(そもそも元々なかったのだろう)、長い自己探究期間に突入する。楽しそうなことや、熱くなれそうなことに飛びついてみるけども、熱が長続きせず、無気力や虚無感を感じる日々。そんな僕が出会ったのが、NPOカタリバだった。

そこでは、世間一般的な正しさよりも、あなた個人がどう考えるのか、を問われ続けるような場だった。そこには、答えが一つに存在する問題を早く正確に解いたやつが一番偉いという論理は存在しない。そこで求められる力は、いかに自分の心から思ったことを伝えることが出来るかと、異質な他者のそれを引き出し、それをなんとか受け容れたり受け止めたりする胆力をどれだけ持ち合わせられるかということだった。ここから、僕の自己探究の旅は個人的なものでなく、他者や社会と繋がる、非常に社会性を帯びたものになってきたのだった。

その原体験をもとに僕は社会に飛び出したわけだが、どうもうまくいかないことが多かった。僕はずっと疑問だったし、不思議だったので、ひたすら反省したり、内省したり、人と対話を重ねたりして来たのだが、明確な答えのようなものは中々みつからなかった。そうこうする内に月日は流れ、気がつけば僕は社会人3年半で3社経験を経て、自分の意思決定の繰り返しの果て、大きな流れに身を任せるかのごとく、今の現在地にいる。

その過程で、今僕らを取り巻く社会のようなものは資本主義と民主主義が基本かつ盤石なルールであり容易には崩せないシビアなものであることを痛感させられた。
その中で、大きな流れに飲まれずに、自分の意志のようなものを守り続けながら生きていくためには、自分が社会集団の中でどんな立場をとり、どういう役割を果たしていきたいのかを主張し続ける必要がある、というところまで、ようやくたどり着いた感じがしている。

おわりに

だいぶ話が横道に逸れてしまったが、ここまでの話をまとめると、

①日本社会が引いてくれたレールの上を全速力で走っていた20歳までの自分
②大きなレールの存在に気づき、自分固有のレールを見つけたいと願い、対話と自己内省を重ね続けた27歳までの自分
③自分の感性や思考を元に、決断を重ねた結果、ようやくおぼろげながら自分の輪郭が見えて来て、社会や集団の中での自分の果たすべき役割めいたものに自覚的になって来た自分

という3段回の大きな変化があるように感じていて、だからこそ、自らの立つ位置が少しずつ明確になって来たと思う自分は、対話よりも議論をしたいと考えているのだと思う。

対話は今でも好きで愛している時間だが、自己内省の中で生き続けること以上に、議論や仕事を通じて、社会と接続しながら、感性を活かした自己表現と能力を活かした他者貢献を重ねていきたい。そんな感覚なのかもしれない。

そういう訳で、最近は発信を控えている部分もあったのだけど、改めて自分の考えを表明していく機会を、より一層増やしていこうと思う。
批判や分断を過度に恐れすぎず、あまり忖度のない考えを表明しながら生きるトレーニングを始めていきたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?