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  • 春日権現験記絵ー現代語訳の試み

    「春日権現験記絵」詞を現代語訳する試みを行っています。まずは、大意をとっていきます。①誤字脱字の校正、②訳出の正確性、③本文全体の校正、④訳出にあたって語句の用例研究、等々はまだ行っていません。順次行って行きたいと思いますが、不明点やご指摘、アドバイスがあれば、是非お教えください。

最近の記事

春日権現験記絵 巻四

第一段 知足院殿が東三条殿にいらっしゃった頃、御夢のなかに、ある尊い僧をお呼びになって、密教の教えをお受けになった所、その傍に、見知らぬ法師が2,3人が近くに寄って来ていた。「何者か」とご覧になると、その僧の口には鳥のくちばしがついていた。「天狗であるぞ」とお思いになって、「どうやって、この東三条殿の邸内にこのような物が参るのか。角振の明神(鎮守神)はいらっしゃらないのか」とおっしゃったので、その御声に従って、春日大社の神主である時盛が参上して伺候した。これを見て、天狗法師

    • 春日権現験記絵 巻三

      一段 知足院の関白殿(藤原忠実)がまだ若くていらっしゃたとき、堀川の左大臣(源俊坊)の婿におなりになった。北の方はとりわけ年上でいらっしゃたからであろうか、深い愛情もなかったので、進んで望んだことではなかったが、北の方が懐妊なされたといって、左大臣もお喜びなさっている間に、お産ということで人々が多く集まってきたが、お生まれになった御子はお亡くなりになった。この事実を受け入れがたく、左大臣にお隠し申し上げて、女房たちは申しあわせて、同じころ生まれた法師のこどもを連れてきて、産

      • 春日権現験記絵 巻二

        一段 去年の御祈願によって、寛治7年(1093)3月、神楽の一行をお連れになって、春日社に御幸がある。何かにつけて仰々ししい儀式の限りをお尽くしになった。内大臣以下の公卿たちも片舞を拝舞する。左大臣も神楽の演奏の列に加わる。このような御幸は前例にないほど素晴らしく、神の心もきっと満足がいったであろう。その後、康和(堀川天皇治世)の世には一切経を写経させて、社頭に経蔵をたて、百人の僧を置いて経典のを読誦をおさせになる。越前国川口庄を末永く供料として寄進なさる。あれやこれや過日

        • 春日権現験記絵 巻一

          一段 承平七年(937)2月25日の亥時(午後10時)頃、神殿が大きな音を立てて揺れ動き、風が吹く。子時(午前0時)に橘氏の娘が、御宝前の間で声を放つ。神殿守ならびに預などを呼び集めなされたので、それぞれ、用心深くかしこまる。また、同23日から読経をなさっていた興福寺の僧、勝円をお呼びになる。そして、御神託を伝える。「私はとっくに菩薩に成っている。それなのに、朝廷は未だに菩薩の号(呼び名)を得させないのである。」とおっしゃる。ここで、天台山の修行僧である千良が申し上げたのは

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        • 春日権現験記絵ー現代語訳の試み
          6本

        記事

          春日権現験記絵 序

          春日大明神は輝く満月の如来であるが、成仏へのたゆまぬ求道の光を包み隠し、求道を続ける菩薩となり、本来の姿を隠している。ひたすらに、この国を守る神としていつもこの国をとりかこむ四つの海の安寧をおまもりくださっている。天津彦天皇が初めて高天原におりたった時、邪悪な神がさまたげなさったので、天から宝剣を投げ、邪神を誅殺なされた。 大汝命と事代主命が、天照大神を危うい状況に落とし入れなさったのであるが、経津主命と武甕槌命を追討の使いとして送られ、大汝命と事代主命はその国を去る時、経

          春日権現験記絵 序

          春日権現験記絵 はじめに

          始まりは、Twitterの「『春日権現験記絵』の現代語訳ってないのかな」という呟きを見たこと。いろいろ調べたところ、刊行されている現代語訳はないようです。 春日大社の縁起とも言える『春日権現験記絵』は1309年に西園寺公衡が、氏神である春日大社に奉納したものです。豪華絢爛な絵物語には藤原氏である西園寺家の政治的思惑も当然反映したものと考えられます。 この記事の中で、『春日権現験記絵』の現代語訳を試み、当時の生活様式、信仰の在り方、藤原氏の置かれている状況、説話としての側面

          春日権現験記絵 はじめに