春日権現験記絵 巻二

一段

去年の御祈願によって、寛治7年(1093)3月、神楽の一行をお連れになって、春日社に御幸がある。何かにつけて仰々ししい儀式の限りをお尽くしになった。内大臣以下の公卿たちも片舞を拝舞する。左大臣も神楽の演奏の列に加わる。このような御幸は前例にないほど素晴らしく、神の心もきっと満足がいったであろう。その後、康和(堀川天皇治世)の世には一切経を写経させて、社頭に経蔵をたて、百人の僧を置いて経典のを読誦をおさせになる。越前国川口庄を末永く供料として寄進なさる。あれやこれや過日の失礼を謝罪申し上げた。その時より今に至るまで、朝廷も代々、春日社に対する敬いは格別であり、春日社への御幸も連綿と続き絶えることがない。また、伊房卿はその当時、夢のお告げがあり、「御経蔵」という額を密かに書き置いていた。御神託があってこれをお取り寄せになられ、経蔵の南門に打ち付けられ、今にもそこに置かれているということである。


二段

永久元年(1113)に延暦寺の僧兵が清水寺を焼き払う。延暦寺は興福寺の末寺であるので、興福寺の僧たちは大変憤って、武装して延暦寺の討伐に出たので、朝廷の兵を派遣してこれを防ぐ。それでも朝廷の威信に遠慮をすることなく、栗駒山において、朝廷の兵と合戦を行う。白河上皇はとりわけ怒り、南都(興福寺)を追討なさる旨を命令する。その時、修理大夫顕季卿は、白河院の近臣として伺候していたが、恐れながら奏上したのは、「我が君であられる上皇の素晴らしい運勢は、ひとえに春日大明神の恐れ多いお助けからであります。どうして、神からの御恩をお忘れすることができましょうか。」と申す。「どういうことか」とおっしゃるので、「あなた様が、まだ幼くいらっしゃった時、御殿の天上が震え揺れることがございました。大変不気味に思っている所に、声があり、『伊勢大神宮からの進言に従って、お身体をお守り申し上げる。我は春日の大明神である』とおっしゃられた。この事、神に感謝をしなければならないのではないか」と申したので、はっきりとはお答えにはならなかったけれども、最後には南都への討伐をおやめになった。


三段

二条関白が出仕の時、剣をお忘れになったので、仕えていた女房を屋敷の中に帰り入れて、取って持って来させようとしたのであるが、関白殿は部屋の中で先ほどのようにいらっしゃいまして、剣を御ひざの下に置いて、微笑んで剣をお渡ししない。女房は驚き、不思議に思い、御車まで戻り参った所、御車の中から、関白殿が「どうして、剣を持って参らないのか」とおっしゃったので、あきれ驚き、再び屋敷の中に帰り入ったところ、また、全く先ほどと同じように屋敷の中の関白殿の御様子である。「これは、春日大明神が関白殿をいつも照らす光のようにお付き添い、お守りくださって、このように姿を現しになっているのだ」と、当時の人々は申し上げた。おそらく、この関白は寺社を崇める御心ざしが深くて、寺から使者が参ったら、ともかくも詳細をお尋ねし、お聞きなさって、その後に御膳を召し上がりになった。


*上皇の近臣が上皇を呼ぶとき「我君」は現代語訳ではいかに訳すべきか。

*敬語の乱れはそのままにしたほうが良いのか後で統一したほうがよいのか。

*人物名の乱れも統一したほうが良いか。

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