春日権現験記絵 巻三

一段

知足院の関白殿(藤原忠実)がまだ若くていらっしゃたとき、堀川の左大臣(源俊坊)の婿におなりになった。北の方はとりわけ年上でいらっしゃたからであろうか、深い愛情もなかったので、進んで望んだことではなかったが、北の方が懐妊なされたといって、左大臣もお喜びなさっている間に、お産ということで人々が多く集まってきたが、お生まれになった御子はお亡くなりになった。この事実を受け入れがたく、左大臣にお隠し申し上げて、女房たちは申しあわせて、同じころ生まれた法師のこどもを連れてきて、産まれ来た御子のようにお世話をした。産養の夜ごとの儀式を盛大にとり行おうとしなさるが、左大臣は突然いつもと様子が変わり、春日大明神がお憑きになられた。そうして、「むこの大将のところに見参しよう」と申されになったので、思いもよらないで対面なさると、左大臣がおっしゃるには、「この生まれたと大事にに育てられている御子は自分の子どもとお考えでありましょうか。決してそのような事はない。関係のない者の子どもを引き取って、あなた様の子と申しているのである。決して自分の子どもとして扱うことをなさってはいけない。あなたの跡をお継ぎなさるにふさわしい人がこれからいらっしゃるであろう」とおっしゃられたのは、法性寺殿(藤原忠道)の事でありましょう。これは左大臣の弟で右大臣顕房と申し上げる人の娘からお生まれになった御子のことである。この事を何度もおっしゃった後に左大臣はもとの様子に戻った。左大臣「このような事をいった」ということは全く覚えていらっしゃなかったが、周りの人が起こった事情を語り申し上げたところ、「年老いたその後に、甲斐もない恥をかいた事が、くやしい。」と言って、北の方や娘たちとも同じ所に住むことをおやめになってしまった。大将殿は、たいした愛情もなかったので、左大臣家にお立ち寄りになることがなくなってしまった。「驚くばかり素晴らしい春日大明神の御宣託」と、世の人々は思い申し上げた。


二段

知足院殿が氏長者でいらっしゃた時、永久2年(1114)10月の頃、常陸国司が鹿島の宮造営して、その様子を国司の恋人である知足院邸の女房の所へ送りつけたところ、知足院殿はをれをご覧になって、御扇をその女房にお与えになった。女房はうれしさに歌を詠んで献上した。

三笠山まつふく風ものどけくとちとせのかげをあふぎみるかな

(三笠山から吹く風がとてものどかで、この有難い扇からの風のように、千年もの尊い光を拝むことでしょう)

このように申したので、

みかさやまさしてたのめる君なればちとせの影をのどけくやみむ

(三笠山がとりわけ頼りにしているあなたであれば、千年もの光を穏やかに見ることでしょう。)

とおっしゃた。国司はこれを見て、一首をそえて鹿島の宮に奉納した。

千とせまでかけてぞまもる氏人のかうべといます君のたまづさ

(千年をかけて守る氏族の頭といっしゃるあなたのお手紙)

これらを全て宝殿の納めた。その夜、大禰宜(神官)中臣則助が神によりお告げになった御歌、

三笠やまかせぎの島にしまゐしてかくめづらしきあとを見るかな

(山鹿のいる三笠山の島に住まいをしてこのように素晴らしい歌を見ることができることよ)


三段

春日社の正預である信経は、秀行から6代目の子孫である。と知足院殿の御勘当によって謹慎させられることが数日におよんだ。このようにしている間に、知足院殿が御病気となる。最初のうちは、わらわやみのように、数日置きに状態が悪くなられていたが、そのうちに毎日症状が現れるようになられた。霊験あらたかな僧たちをお集められになった中に、一乗寺の僧正である増誉が加持をしに参上されたが、それにもかかわらず、病状が表れなさったので、僧正は、「那智の滝に三千日の間籠って、滅罪のために不動の護摩の修行をして、その修行の功をこの殿にお譲り申し上げます。神よ、お助けください」と強く申したところ、殿の顔色はだんだんともとのようにお治りになった。「ようやく、病がおちなされました」と言って、僧正は褒美をいただき退出した。


四段

次の日、またいつもとおなじような具合で病気が表れた。御病気はすでに日数がつもって、御気力もおよわりになっていたので、以前よりも格別に衰弱して、御息の様子、御爪の色なども変わり、今は限りの命ともお見えになったので、邸内の騒ぎは言うまでもない。もう一度、増誉僧正をお呼びになると、面目はないけれど、また参上した。近くに参りよりて、御目の色を見申し上げて、遠くに退いて、大変恐縮がって申すには、「この増誉の失敗、申しあげようもない。験者と申すものはまず病気の起こりを知ることである。生霊や死霊の祟りかどうかを見て、大神小神のなせることかどうかを判断してこそ、加持祈祷をするべきであるのに、それをないがしろにして、病気の根源を理解していなかった。思い返す度にひどいことである。高貴な大神がこの病をおかけになったにちがいない。修行がいたらない私が加持をし申し上げることは、そもそも、恐れ多いこと。」と申しあげる。この時、「高貴な大神というのは春日大明神の御事である。信経を謹慎にしたことが、あるいは、神の御意向に合わないのであろう」と言って、信経をお呼びになる。


五段

信経はお呼びによって参上する。腰がおれまがった、七十歳を超えた老いた翁であって、髪や眉は白髪であり、尻の部分が皺だらけの浄衣を着て、よぼよぼと出てきた。漢の時代の老賢者である商山の昔の様子もこのようであったか、と思われて、少し見ると神々しく、趣がある様子である。法性寺殿は直接御対面して、「当初、謹慎されてから、今日はどのくらいになるか」とお問いになると、御言葉が未だ終わらないのに、涙を流し、うなだれて、少し時間を置いて、「卿は、すでに百三十日になりました」と申すと、「この間、心の中でどのような事を思っている」とおっしゃれば、ますます涙を止めることができない。しばらくして申すには、「全くもって取り分けた思いはない。私の父母が語っていたことには、『身体にお前を宿してから、七月までは毎日、お前と一緒と思って、春日大明神に参拝する。生まれた後は、毎日、乳母の衣の中に抱かせて、参拝する。』と申していました。一人前になってからは、病気で臥せっている時の他は毎日、春日大明神の御前に参拝して、神社の垣の元へ参らないことはない。今、今年の春の頃から、知足院殿の御勘当を受けて、七十歳を超える老いの先行きわからない中、大明神と離れ申し上げることがすでに百三十日になった。そうであるので、老いた身は病はなくでも、吸う息、吐く息も時間がかかるほどである。ましてや、この夏の天気は炎のような暑さで蒸し返すようだ。力もなく、絶えることができない。都において、無常のこの世に従ったならば、久しく故郷にもかえらず、もう一度春日大明神を拝し申し上げることができないことが、あまりにもつらいことでございますので、寝ても覚めても、嘆くことと言えば、ただこればかりである。」と申して、ひたすらに声を出して泣いていたので、法性寺殿はこれをお聞きになって、泣き泣き、このことを知足院殿に申し上げなされば、「本当にかわいそうなことである。そうであれば、今回の病気を春日大明神にお祈り申し上げて、治癒させるように」とおっしゃったので、すぐにこのことをお伝えになると、そのまま南に向かって手をすり合わせて「願わくば我が大明神。知足院殿の御病気を治し申しげて、もう一度私をあなた様の山へ向かわせてくださいませ」と涙を流してお祈り申し上げれば、その声にしたがって、すぐさま、健常にお戻りになられた。御感激のあまり、法性寺殿からは御剣をお与えになる。北の方からは御衣をお与えになる。殿上人二人に、手を引かれて退出した。また、御祈願の料所に、播磨の国の大きな領地を賜ったということである。

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