春日権現験記絵 巻四

第一段

知足院殿が東三条殿にいらっしゃった頃、御夢のなかに、ある尊い僧をお呼びになって、密教の教えをお受けになった所、その傍に、見知らぬ法師が2,3人が近くに寄って来ていた。「何者か」とご覧になると、その僧の口には鳥のくちばしがついていた。「天狗であるぞ」とお思いになって、「どうやって、この東三条殿の邸内にこのような物が参るのか。角振の明神(鎮守神)はいらっしゃらないのか」とおっしゃったので、その御声に従って、春日大社の神主である時盛が参上して伺候した。これを見て、天狗法師たちは皆逃げ失せててしまった。つのふり、はやぶさの明神は春日大明神の眷属であって御社にいっらしゃるのである。


第二段

知足院殿は天下の摂政、関白として、この世での栄華を極めなさって、すでに四十歳を過ぎて、何もしないまま四九日の闇を待つことを恐れて、「功をなしたので、身を退こう」とお思いになったので、出家のための暇を申し上げようと春日の社に参上なされたところ、十一、二歳ほどである童が突然、気高い姿になって、「

雖観事理皆不離識、然此内識有境有心。々起必託内境生故。

(物事の理を見極めようとするとき、皆、自らの意識を離れないけれども、そうであっても、この自らの内にある意識には限界があり、心がある。心が起き上がる時に、必ず、自らの意識に影響を与えるからである)

なんと興味深い。」と言うと、知足院殿は尋常の事ではないとお思いになって、恐縮しなさると、この童が申すには、「私はここ、春日大社の第三神である。今回の見参はとりわけ喜ばしいことです。その理由は、この世が常ではないことをお思いになって、出家しようとお思い決めなさることのうれしさに、感激の涙がとめどなくあふれ返ってくることを知らせ申し上げようと思い、宣託をします。決して忘れず、無常を心に刻みなさいませ。それでこそ、私はよろこぶことができる。ところで、二人の男子をお持ちなさっている。二人とも、氏長者に名前を連ねなさっているでしょう。忠通公は世の政治が実直であり、手跡も素晴らしく、詩歌管弦も上手でいらっしゃるので、とても素晴らしい方と申すにふさわしいでしょう。ですが、仏を敬う気持ちをお持ちでいらっしゃないので、私の心には残念ながら適っていない。弟の頼長は全経(儒教の経書)を自らの信じる所とし、政務は手早くこなして、人の善悪を判断し知ること掌の中に物事があるように的確である。そうであるので、末代にはめったにいない人であるのだろうれど、神事や仏事をおろそかににして、氏寺を憂慮させるであろう人であるので、私は一緒には従わない。」とおっしゃり、空にお上りになった。もともと、「雖観事理」の文章は慈恩大師の『唯識章』に書かれている。すべてのものは対象を認識する心のはたらきを離れないず、その境界は他にはなく、唯、その認識はとても深いことを示しているのである。


第三段

普賢寺摂政殿(藤原基通)は、平家一族とひとつになっていらっしゃっていたので、寿永の年に宗盛公を始めとした平家一族が西海に下った時、同じように関西の道へと思いたって、五条大宮の辺りまで行幸に供奉なさった時に、うしろから、黄色の衣を着た神人が手招き申し上げているのをご覧になって、御車を止めたところ、神人はみえない。再び、御車を進めると先ほどと同じことが起こる。このようにする事が、二度、三度になったので、春日大明神の思し召すことがあるのであろうとお思いになって、御車の轅を北にして、御車を南へ向かうのを止めた。前後にうちかこんでいる武士の中を分け行って、御車をひきかえされたのを、咎める人がいなかったのも不思議なことでありましょう。すべては普賢寺摂政殿は神に御心に適いなさっているのでありましょう。春日の宝前(前庭)では、鹿がお顔をなめたという。また、世の中にひろまっている垂跡の曼荼羅もこの殿が御夢にて拝みなさったものであると申し伝わっている。


第四段

三条内大臣(藤原公教)が重病にかかられたときに、松林院の教縁僧正と公円法橋を春日社へ参拝させて、お祈りを申しあげた。それぞれ、御社にこもって数日がたった。暁に京へ上ろうとしたところ、若宮社の配電で巫女が一人で舞っていたが、庭に出てきておおくの人の中で、この二人に告げて言うことには、「今回お祈り申し上げた事ば助けるのが良いのでしょうが、三条内大臣は藤原氏として高い地位に登ったのにもかかわらず、全く私若宮の神を崇めない。とても恨みに思う。そうであるので、今回は、命を落としなされた。」という。両人は疑いながら、その暁に上洛すると、京からの使者に道中で会って、「すでにお亡くなりになった。」と申した。


第五段

御徳大寺の左大臣(藤原実定)はその当時、大納言を辞退して邸内に籠っていらっしゃる事が十二、三年に及びました。左大臣の御子で公守と申し上げる人は、朝廷からの奉幣のため使者として春日へ参った時に、父である左大臣は密に車に乗って、一緒に参拝なさる。人々にも知られなさらないで、侍達の中にいらっしゃったのを、若宮社の御前で巫女たちが伺候し神楽を舞う頃になった時に、御神託なさって、「今回、参拝なさったことは、なんとも結構なことである。必ずこのご利益を見せよう。」とおっしゃるに、「これは誰のことを言っているのか」と申した所、大納言(実定)が隠れていらっしゃるのを指して「その人の事である」とおっしゃった。そうして、お帰りの後、時間を置かず大納言に成りかえって、その年中に大将におなりなさった。


第六段

こうして、内大臣(実定)が左大将でいらっしゃった時、木曾義仲の反逆の乱によって、大臣を罷免された。その悲しみに耐えられず、寝ても覚めても大明神にお祈り申し上げた。ある時、夢の中に袍を来た一人の僧が来て、「ちょうど今、陣の座に参上なさるのが良い」と申し上げる。まずは使者の姿を不思議がり、「どういった者だ」とお尋ねなさるに、「興福寺の下所司である」と申し上げる。「私は、前の大臣である。意味なく、陣の座に参上することは難しい。また、大臣が出仕する事は外記が知らせるのが慣わしである。興福寺の下所司は使者としては適当ではない。どちらにしろ、参上は難しい。」とお答えなさった。先ほどの使者、また邸に帰り来て申すには、「大臣以下の公卿、皆御参内があって、天下の事などの沙汰がある。すぐ、今、急いで参内なさりなさい」と申し上げる。夢から覚めて後に、夢の内容の有様が普通ではなかったので、翌日、大皇后(実定姉)のもとへ参上する折りに、この事を語り申したところ、「大臣への御還任がきっとあるだろう」とおっしゃった。結局、間三日が経ち、内大臣に還任なされた。本当に不思議な事である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?