春日権現験記絵 巻一

一段

承平七年(937)2月25日の亥時(午後10時)頃、神殿が大きな音を立てて揺れ動き、風が吹く。子時(午前0時)に橘氏の娘が、御宝前の間で声を放つ。神殿守ならびに預などを呼び集めなされたので、それぞれ、用心深くかしこまる。また、同23日から読経をなさっていた興福寺の僧、勝円をお呼びになる。そして、御神託を伝える。「私はとっくに菩薩に成っている。それなのに、朝廷は未だに菩薩の号(呼び名)を得させないのである。」とおっしゃる。ここで、天台山の修行僧である千良が申し上げたのは「菩薩のお名前をどのように申し上げなさればよろしいでしょうか」と申すので、「慈悲万行菩薩」とお名乗りなさる。「太政大臣も、左右大臣、それから処々の公卿に至るまで、私の判断で決まることなのである。」など、様々な御神託があった。


二段

大和国平群郡夜摩郷の里に、一つの霊地がある。竹林殿と呼ばれる。春日大明神がお姿を現した所である。

むかし、右馬充藤原光弘が広瀬郡吉南殿という所に住んでいた。大和川の北の辺りをみると、夜な夜な光る所がある。高貴な女性がこの場所にいらっしゃって、「この地はきっと子孫繁栄するに違いない場所である」とおっしゃる。「どのような方が、どこからいらっしゃったのでありましょうか。」と光弘が申し上げたところ、

「我屋戸はみやこのみなみしかのすむみかさの山のうきくものみや」(私の住まいは都の南であり、鹿が住むところです。三笠山の浮雲の宮です。)

このようにおっしゃって、その後はお姿をお見せにならない。


三段

光弘は夢想によって、天暦2年(948)2月25日、まず土木作業の準備をし、村上天皇に奏上して、同年6月16日から、この場所に住む。その後、正暦三年(992)のころ、藤原吉兼の夢に、家の西南の竹林の上に後期な女性が飛んで来ておっしゃるには「私は、お前の氏神である春日大明神である。家が立派であり竹も茂っており、天竺にある竹林園に似ていたために、この場所に来て留まる。もし、竹が絶え間なく生い茂るのであれば、お前の子孫はきっと繁盛するであろうと」とおっしゃるのを見た。すぐに社をたてて、神をあがめ申し上げて、今後末永く神の竹を決して切ることはしない旨を、起請文として書き神に誓いを立てた。今では、健やかに伸びた竹もますます高くそびえたち、梁の孝王が作った庭園である梁園に見劣りはしないということである。


四段 

寛治6年(1092年)7月、太上天皇白河院が金峯山(春日山)に御幸された時に、御山で突然、いつもとは異なるご様子である。周りにの人々が顔面蒼白になってしまう程、逆鱗に触れたかのようなお怒りの様子でおっしゃるには「春日山辺りに住む翁である。わざわざの御幸まではとは言わないが、今回の御幸のついでに、なぜこの静かな私の住まいをお尋ねなさらないのか」とおっしゃり、大納言師忠・中宮大夫雅実などが仕えているのをご覧になって、「なんとも忌まわしくも、おさからいになった源氏たちであることよ」との仰せ事があったので、それぞれ恐れをなして、白河院の御前から立ち去ってしまった。そうして、いつもの御様子にお戻りなさって、春日社への参詣をせずに金峯山詣を行った不敬を深く恥にお思いになったので、「道中より引き返して、春日社へお参りなさいますか」などの評議があったのだが、格別の御祈願をなさりたいお考えがあって、すぐに春日社へは神馬を奉納される。また、左大弁匡房卿におっしゃって御願書を書かせなさる。多くの経典を持参して春日社へ御幸する意向のあることである。その後、白河院は御心より春日社にひれ伏しなさり、今回の御願を果たし遂げることができた。


*「翁ななり」撥音便後の「なり」は推定が原則である。自らの名乗りを「推定」ととることにも、「断定」が二回続くと考えることにも矛盾が残る。意味としては「断定」で訳して問題はないと思われる。

*「ゆゆしくさかへ給つる源氏たちかな」を「栄える」訳にしている解釈書があるが、「栄える」の意味の古語は「栄ゆ」である。「さかへ」とあるので「さかふ」が終止形の「逆らう」の意味で訳した。その場合の「ゆゆし」の解釈もまた考察が必要。


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