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学歴社会にとらわれて
学歴社会がどう、と叫ばれて久しい。
長い間、学歴社会に対する批判が重ねられてきた一方で、その傾向が明確に変わっていっているとは決して言えない状況にあります。
しかしながら、学歴社会はいま、時代の変化に晒されていると言っても過言ではないのかもしれません。
ハーバード大のマイケル・サンデル教授が『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(原題:The Tyranny of Merit)を出版し、日本でもベストセラーとなりました。その中でサンデルは
人種差別や性差別が嫌われている(廃絶されないまでも不信を抱かれている)時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ
と喝破しています。
(この本の一部は、↑上の早川書房公式のnote↑でお読みいただけます。)
ここで私は学歴社会についての理論的な批判を展開しようとしているわけでは決してありません(それはサンデルに任せておきましょう、そのほうが適任です)。
このnoteでは、学歴社会にとらわれたいち高校生として、自分が住んでいる・暮らしている環境に対してどう思うかという素直な感想を赤裸々に綴っていきたいと思います。
「塾歴社会」という現実
ライターのおおたとしまさ氏が『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』という本を出版して以来、「塾歴社会」という言葉が聞かれるようになってきました。
塾歴社会とは、読んで字のごとく、「通っていた塾によって将来が決まる」ような社会を揶揄して言った言葉です。
現在、いわゆる「受験戦争」はどんどん加熱してきています。しかも「大学受験」だけではありません。「中学受験」にしてもそうなのです。
大学受験にしても中学受験にしても、トップクラスの学校を目指す場合、基本的に塾に通わなければ受験に通ることは難しいのです。
塾は「教育」をしているのか?
個人塾はともかく、大手の塾というものは結局「受験指導塾」なのです。
たしかに塾の講師の中には「子どもたちを、学習指導という意味以外でも教え諭そう」といった教育者としての志を持った立派な方もいらっしゃることでしょう。しかし塾という営利企業全体を考えれば、「塾は教育をするつもりはない」と言わざるを得ません。
我々は塾について考えるとき、そのことをどこか頭の片隅においておくべきでしょう。
以下では、いくつか具体例を挙げて、塾と、受験とどう向き合うべきか、見ていきましょう。
塾の「クラス分け」
塾では、それこそ中学受験の塾から大学受験の塾まで、成績に応じたクラス分けがなされています。私の通っていた中学受験塾では、テストの順位に従って前から席順を決めるという授業さえありました。
もちろん、成績に応じたクラス分けには、理解度に応じて授業の難易度を変えられるという点では意味があります。
しかし、席順を決めるとかはまったく意味がなく、ただただ無意味な競争を意識させるだけです。実際、小学生の時分からそこまで競争を強く意識させることは、成績を上げることに役に立つかと言えば甚だ疑問です(特に、私はこういった競争と相性が悪いタイプの人でした)。
さらに恐ろしいのは、勉強ができるかどうかで「スクールカースト」のようなものが出来上がることです。
平家にあらずんば人にあらずとでも言わんばかりの、「上位クラスにあらずんば人にあらず」という考えを持っている人も私の周りにいます。
勉強ができるから、俺はえらい。
あいつは勉強ができるから、尊敬する。
あいつは勉強ができないから、ちょっと接し方を変えようか。
こういった考えを持った人が私の周りに少なからずいることが、実に恐ろしいと思います。
もちろんこんな露骨なことを言うわけではありませんが、こういった姿勢をどこか口調から感じることもあります。
また、「塾のテストのことを夢にまで見る」とか、いろいろと「そんなに塾に囚われて楽しいの?」と聞きたくなるようなことを言う友人もいます。
深夜までの授業、授業……
正直言って、小学生のうちから塾通いするのは異様な光景です。というのも、塾に通うとほぼ時間が潰れてしまうからです。
平日、学校から帰ってきたらすぐに学校の宿題。友だちと遊んでいる暇がないこともザラです。
塾の授業が終わるのは、22時に及ぶこともあります。
大学受験の塾だけではありません。中学受験の塾でもそうです。
親が塾の前に迎えに来るために群がる。あるいは先生が駅まで生徒たちを誘導して、そのまま三々五々生徒たちだけで電車に乗って帰っていく。これが夜22時の話なのです。これはどう考えても歪なことだと思いませんか?
君達が合格できたのは、父親の「経済力」、そして、母親の「狂気」
これは中学受験を題材にした漫画、『二月の勝者』の冒頭で中学受験塾の講師が語る言葉です。
結局この漫画で扱っているのは、よい受験をしよう、あるいはよい受験の形を考えるべきだというテーマです。ただただ適当に勉強し、ただただ流れで受験をし、ただただ流れで進学する。そのような惰性に意味はあるのでしょうか?
いつ向き合うのか
大学受験にしろ中学受験にしろ、そのための勉強に学生時代のすべてを費やすような人たちが少なからずいます。
小学校生活を中学0年生にしてはならない。高校生活を大学0年生にしてはならない。
私はそう思うのです。
学歴社会から降りられるか?
サンデルが批判したように、学歴社会のような実績絶対主義の社会には限界があります。
しかし、私にとってより実感を持って受け入れられるのは、結局の所、「学歴社会に乗っかるのはしんどい」という感想に尽きます。
ずっと「次」を見据え続けて、ずっと「将来成功するために」を考え続ける。これはあまりにもしんどい。
だからといって学歴社会から降りられるというわけでもなさそうです。かくいう私も学歴社会に恩恵を与っている立場の一人でしょう。ここからどう社会を展開していくべきか? それは私たち一人ひとりが真摯に向き合わなければならない問題なのかもしれません。
印象的なnoteを見つけたので紹介しておきます。↑上のnote↑は(意地悪な言い方をすれば)学歴社会に乗っかることに悩む方の記事です。ぜひご一読いただければと思います。
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