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「何者」 - ピッチという社会を彷徨い歩いて

「何者かになろうとしている」
「何者かになろうとしてなれなかった」

よく聞く例えやけど、一体誰になろうとしとるんやろ。
何者かになるというか、自分でしかなくね?

でもあれ、自分って誰なんやろ。
樫本芹菜って誰。

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1年の終わりに振り返り記事を書くのがお決まり。

アスリートとしての生活が板についてか、よくもわるくもを持ち越すことなく、新チームで気持ち新たに進むための儀式と化していたのだろう。

それが去年に限っては行動を起こす気持ちが1ミリとして湧かなかった。

前十字靭帯断裂の世界線へ飛んでしまったためか、なんとなく、今回に限っては23ー24シーズンの括りとなる予感がしていた。

その予感通りとなってか、チーム立ち上げからいくつもの自分を経て、すでに1年の始まりが遠い昔のように感じる。

週末に開幕を迎える今日久々にまた、異世界へ飛んだ感覚を覚えた。

いつもと同じ道なはずなのに思いもよらぬとこに辿り着いたり、2年間通った散歩コースを急に変更してきたり。

わんこは直感に優れているのか、または本当に異世界に飛んでいるのか。

こういった事象の直後には決まって世界が変わっていくので、ここを一旦の区切りとして振り返っていく。

掴めない自分

約1年前に「計算できる選手への挑戦」というタイトルで記事をあげた。

スフィーダでのこれまでを振り返り、自身の特徴は「よくもわるくも計算が立たないこと」とし、よいところはそのままに、どう改善をしていくかを思考していた。

記事内ではパフォーマンスの波の頂点と底辺を以下のように定義している。

良いとき:チーム劣勢時、組織として機能していないときこそ空気を読まず、流されず、自身のパフォーマンスで試合をひっくり返すことができる。

悪いとき:チームが機能しているときは、チームの流れに乗れない、または流れを乱しがち。

周りからは当然ながらも、自分自身ですら掴みようがない。

きっと使う脳の領域が違うのであろう。

英語と日本語、それぞれで話すときの性格は大きく異なる。

なにが正解かなんて気にぜずに生きられたアメリカでの生活とは異なり、日本に帰国してからは二つの人格の板挟みとなり悩み続けた。

どんどんと社会からはみ出していく感覚を覚える一方で、ピッチでは"枠にはまらない"部分が逆に功をなし、成功体験として積み重なることがあった。

いつしか性格の剥離は悩みではなく、どちらがよりサッカーに適しているかのような興味関心へと変わった。

公式戦とは違い、自身をさらけ出して挑戦と失敗を重ねられるのがプレシーズンという期間。

自身にとってベストとなる身体の状態を模索しつつ、この2つの人格がどう変化をもたらすのかにも注目した。

バラード調の曲を聴きながら、ひたすら自分に矢印を向けて試合に向かっていくスタイルを好むのが樫本としての人格。

一方で、アップテンポな曲を好み、オープンなマインドで周りとの関わりも増えるのがSerinaとしての人格。

どちらが正解か、はっきりとした答えを得られぬまま、結果が求められるリーグでの戦いが始まった。

たまちゃん(コーチ)にサポートしてもらいながら、逆算的積み重ねとして個人戦術的な部分ではどんどん進化した。

しかし、独りよがりに走りすぎたのか、中断を待たずしてエネルギー切れを起こした。

ピッチの中で、ゴールまであと一つ、あと一人が足りないとずっと悩みながら走り続けたものが、やはり外からはよくみえる。

チームという存在をまだまだ自分ごとにできていなかったのだと反省した。

人生とはおもしろいもので、ちょうどこのタイミングで、人間観察や組織づくりのレベルアップお兄さんに出会う。

これまで継続してきた身体の調整と、内省、そこにチームづくりの視点が加わり、文字通り寝る間を惜しんで日々に没頭。

それでも花開く日もあれば、ええっと思うようなパフォーマンスになったりと、相変わらずに掴めない自身に対して頭を悩ませていた。

そんなある日、遠征先でリラックスしていたときのこと。

歴代スパイダーマンが共闘を果たす胸熱シーンをみながら、一つの身体の中に存在するバラバラな人格の手綱を握れていないことが問題なのだと気付いた。

主導権を持ってそれぞれの人格をコントロールすること、つまりは逆算によって適切な自身を出せるようにすればいい。

相手チームの傾向からゲームの展開が予想されるので、それがわかればどのポジションで起用されそうかも大体把握できる。

FW、ボランチ、サイドの3択があったので、それぞれでのパフォーマンスを振り返り、うまくいくとき、いかないときの傾向を整理した。

試合映像も数年前のものから遡り、一旦としては積極的に仕掛けていけるマインドを備えるための身体のキレで解決すると判断した。

これまでの経験から調整法はわかっていたので、早速トレーニングに反映もし、チームトレーニングでも感触はよかった。

しかし、より正確な判断のための思考と試行錯誤がまだまだ足りなかったのだろう。

中央で2〜3人の間をすり抜けながら、最後の一人というシーンで人工芝に足をとられ、前十字靭帯を断裂した。

復帰自体は年内にできたものの、この時の仮説実証までは至らず、1年を括ることができなかった。

本当の自分って誰やねん

前十字の振り返り記事にも書いたが、今回の受傷はまだまだ見えていなかった世界の奥深さへと導いてくれる経験だった。

目先の結果に惑わされることなく、3ヶ月というもの期間を本質的な思考と試行錯誤に費やせたことで身体への理解が大幅に進んだ。

最初はとても不思議に感じていたが、身体の歪みが取れると同時に自己理解としての内省が進む。

身体と脳の繋がりを体感し始めたのがちょうどこの頃のこと。

そして、どう足掻いてもメンバー入りできない状況にあったことも良いように働いた。

主観を取り除いた視点で周りの行動を観察しながら、それらの行動背景に「なぜ?」という問いを立て続けることができた。

最後のホーム戦をスタンドから観戦していたとき。

相手プレイヤーも含め、なにを感じながらプレーしているのかまでが見えるようで、いつものサッカーの試合というよりは、まるで一つの物語を読んでいるかのような気分だった。

その時の感覚がとても新鮮で、人の頭の中を探る作業にどハマりし、今回の長期オフはひたすらに人と会って話した。

外への関心が高い状態のまま、新シーズンが立ち上げとなり、前十字から復帰したとはいえ、まだまだ実践の中での実験が必要な状況。

静かに一人遊びをするこどものように、しばらくは自分の中でテーマを決めて日々を黙々とこなした。

トレーニングマッチが始まり、ノジマとの対戦。

流れの中で修正しきれない難しさを感じると同時に、妙な懐かしさも覚えた。

スフィーダ加入1年目。

その頃はまだ、ベガルタから一緒に移籍してきた戦友がいた。

ピッチ上での喋りは互いに得意なタイプであるはずにも関わらず、脳がエラーを起こしてしまうほどに組織がみえない。

チームとしての基準があまりになさすぎると、二人して頭を抱えた日々がフラッシュバックした。

なんだ、2周目に入っただけか。

散々と頭を悩ませ続けてくれた1周目では、内や外へと視点を変えながらピッチという社会を彷徨い歩いてきた。

1周目では気付けなかったが、単純な戦術的な部分だけではなく、チームとして互いを知ることから始める信頼関係なども影響してくる。

ちょうど翌日、ふりかえりのプロとお話させていただく予定となっていたのでチームの状況を踏まえながら相談してみた。

さすがはその道のプロ。

ふわっとした思考にカチッとハマる概念を教えてくれたりと、不慣れなチームつくりに関して抱えていたモヤモヤを一気に払拭してくれた。

昨年の駒沢での心残りもあり、いまなら使える手札も増えていると、これ以上にないくらいのやる気に満ちていた。

そんなとき、ここしばらく会っていなかった "くそがきの師匠" と再会する。

「やらなければならないと感じることすべては社会的制約によるものだから、それは本当のお前じゃないよ。」

一部ではなるほどと納得しつつ、ある一部では疑問を持った。

本当の自分って誰やねん。

かし本せり菜の場合

記憶が正しければ、人生で最初に持った夢はイルカになること。

無知ゆえに可能性は無限大な妄想を膨らませていたものの、小学生の終わりごろにはその熱もすっかり冷め切っていた。

「プロサッカー選手になりたい」

当時はまだ女子プロサッカーリーグが存在せず、それでも盲目的に発言をしていたあたりは若干のこどもらしさが残ってはいる。

一方で「結局はプロになれず夢を諦める数多くのうちの一人になるのだろう」と、よくもわるくも現実を生きようとしていた。

小学校5年生のとき、右足首を疲労骨折した。

当時はメインとなる所属クラブチームに加え、男女それぞれの選抜チーム、女性社会人チーム、そして父がプレーしていた社会人チームにもたまに参加していた。

いま考えると完全に感覚がバグっている。

もっとサッカーがしたいという純粋な気持ちもなかったわけではないと思うが、それ以上に「もっとやらないと」という思考システムがインストールされていた感覚。

この文を書きながら思い出す、父の言葉がある。

「おまえが休んどる間も、この地球上のどこかで努力を続けとる人がおることを忘れるな」

よくも悪くも圧倒的な量をこなせる習慣がついたのはこの言葉に引っ張られてが大きい。

1年生から在籍するチームメイトたちと比べ、4学年時とかなり遅れてのスタートだったが、その時間を埋めるだけの努力をしている自負はあった。

絶対的な相棒をみつける頃には、パスで走らせてゴールを生み出す"おれ様"スタイルも確立された。

中学にあがる頃にはプロサッカー選手になる夢にロールモデルを見出すようになった。

「自分がジネディーヌ・ジダンに憧れるように、いつかこどもたちにとっての憧れとなるような選手になりたい」

ただ夢を語るのではなく、それを聞く周りの大人がどういう印象を受けるか。

そこまでを考えられた言葉選びはまるで、大人が求める模範的言動をみつけるゲーム感覚だったのかもしれない。

この頃になると、父との試合の振り返りも中盤としていかにゲームをつくるかが話題の中心となった。

攻撃時に守備のことを、守備時に攻撃のことを考えることで、ピッチの誰よりもはやく展開を読み、流れを途切らせない。

ゴールよりアシスト大好き思考はそのままでも、小学生のころのようなピッチ上の王様は姿を消していた。

求められることを逆算しながら行動をするうちに、自然と、自分の本当の声が聞こえなくなっていった。

違和感がはっきりとしたものになったのは、地元を出て、県外の高校に進学してから。

そこでも変わらずに模範的回答を演じ続けていたのだろう。

毎週の試合の振り返りをコーチに送るのが決まりの中で、文の最後ではいつもコーチの意見を求めた。

そんな日々が続いたある日、いつもの試合に関するアドバイスの代わりに「もっと自分で考える習慣をつけた方がいい」という言葉が送られてきた。

誰かに用意された答えを探し当てるのではなく、自分で自分の答えを見つけるために考えろというメッセージだったのだろう。

先に考えたことを送ってから聞いとるのに、自分で考えろってどういうことやねん。

当時の自分には残念ながら届かず、その先の年代別ワールドカップでしっかりとこけた。

世代別代表では伸び伸びとプレーできていた、いや、させてもらえていた。

変に人間関係を気にすることなく、ただ勝ちたいと思う選手たちが集まる環境だからこそ、ただサッカーができたと。

いままではそう振り返っていた。

でも実際は、監督からの信頼を感じられていたことで、まるで「自分という存在が正解」であるかのように信じ切ることができていたからだと思う。

初めての代表経験、周りのレベルが高いなかで毎回必死にくらいつく。

初めての海外遠征はパリだった。

「樫本にチームキャプテンを任せたいと思っている」

ゴールを一緒に運びながら伝えられたその一言はいまでも鮮明に覚えている。

自分の存在を確かなものにしてくれた監督に恩を返したい、絶対に世界一の監督にして胴上げする。

「あんたはこの人と思える監督に出会えたときは本当に強い」とは母の言葉。

余計なことをごちゃごちゃ考えず、監督を世界一にするために、ただチームの勝利のために行動する。

元々圧倒的な努力ができる人間ではあったので、それが強いという表現が合っているかはわからないけど、目標が明確になったことでチームというか、監督にとっては助かるピースにはなっていたのだろう。

ただ純粋に、監督のためにプレーすることだけを考えていれば、ワールドカップでのキャップ数は変わっていたかもしれない。

だけど、経験を積み重ねるうちにエゴが生まれた。

「ただの選手として、自分という存在を証明したい」

ロールモデルたちのような煌びやかなキャリアを、ここから歩き始めるのだと。

自分の存在証明のようで、内に軸がないまま、まさに"何者"かになろうとしてしまった。

それまでずっと大人の声についていくだけだったのが急に一人で歩こうとしたところでうまくいくはずがない。

唯一自信を持っていた思考スピードは純粋なスピードやパワーという力に圧倒され、最後は「日本を背負ってこい」という一言の重圧に屈伏した。

それまでなにも感じてこなかったはずの右腕がやたら重く、それに比例するかのように足が地面から離れなくなった。

大会期間中にスタメンから外れ、恥ずかしさや悔しさが涙となって溢れ出た。

そこまでいっても、ここからはさすがタダでは転ばない "樫本芹菜" としての人生といったところか。

すぐにでもどこかへ消え去ってしまいたいような気持ちをひたすらに隠し、キャプテンとしてを全うしようと顔をあげたとき、チームの怪しい空気感に気付いた。

スタメンから漏れる選手たちのモチベーション低下によってチーム内競争がなくなり、そこから生まれる互いのリスペクトに欠けることでの組織としての意識の低下。

よくある話だ。

試合に絡めていない自分だからこそ言葉を届けられると、まずはスタメン外のメンバーだけで話し合い、その後に選手全員で集まった。

監督の信頼を裏切ってしまったことへの贖罪の気持ちか、はたまた、なにもなしに帰れないという最低限のプライドか。

その行為自体がチームとしての結果に影響があったのかすらもわからないが、皮肉的にも、最後まで模範的回答を演じ続けさせてくれた。

そんなことを考えながら、思い出すことがある。

小学生のとき、自分の名前であっても習っていない漢字で書くことを注意された。

名前は漢字なのに、自分の名前を書けるように練習もしたのに、なにがだめなのだろうと ”ぼく” は不思議でしょうがなかった。

大人に聞くと、そういうものだからと。

だから、本当は漢字で書きたかったけど、 ”かし本せり菜" のままで小学校を卒業した。

いま思うと、そのまま ”かし本せり菜" として、大人になろうとしてしまったのだろう。

きちんと大人になるための段階を踏まず、社会を生きるとはそういうものだと言い聞かせ、大人の真似事を続けてきた。

でも本当にやるべきだったのは、誰かに用意された答えを演じることではなく、自分の足で歩き回りながら、自分が納得するための答えを見つけることだった。

その事実に気付いたいま、ようやくまた時間が進み始めた。

樫本芹菜が一体どんな人間なのか。

なにをみて、なにを感じ、なにを考えるのか。

それはまだ全く想像がつかないが、いままでのようないやな感覚としてではなく、わからないからこそ探しにいくワクワクに満ちている。

誰かに求められる自分ではなく、周りをみながらも、自分自身がこうありたいと願う自分に。

ー完ー

と、理性的な "自分" であればこう結んだであろう。

ところがどっこい、んな形で終わらせてたまるか。

日本代表の肩書きにほだされてセンターバックでプレーしてきたけど、本当は中盤でやりたいんじゃ。

玄人にしか理解してもらえない地味なプレースタイルだって気に食わん。

でも、ここまでブランディングされてしまった以上は、日本で変えていくことは非常に厳しい。

場所を変えて自分を再構築じゃ。

Serina KASHIMOTOの場合

ワールドカップの帰り。

いっそのこと飛行機落ちてくれんかなってくらいまで考えたところでさすがにまずいと思い、アメリカの大学からの奨学金オファーを受けた。

いま自分を変えなければ、このまま人生が終わってしまう。

唯一の武器だった思考を具現化する言語能力を失い、赤ちゃん状態のSerina KASHIMOTOとして、狂ったように学びとサッカーに打ち込んだ。

キャピタライズされたKASHIMOTOにあるように、どこへ行っても家族同然として愛してもらい、それを肌で感じながら "ぼく" はすくすくと成長した。

マイナス23度の大雪の中でも、ボールが蹴れる範囲を雪かきしてボールを蹴ったり、とにかく1秒でも長くボールに触れていたかった。

放っておくとやりずぎるからと、監督がピッチまで監視にくるようになり、手を引かれながらロッカーまで、毎日のように連れ帰られた。

在学中に答えたインタビュー動画の最後。

「ただボールを蹴ることが好き。一人でも、チームメイトとでも。ただ楽しんでるだけだよ」

その言葉の通り、大好きな人たちを愛し、愛され、そしてただ純粋にサッカーとスポーツ文化を探究できた幸せな日々。

その一方で、あたたかな家を出てピッチに入ると、日本でのゲームとしてのものとは違う、すべてを出し切りながらぶつかり合う戦いの日々。

この絶妙な配分が、生きている実感と命を燃やす輝きを、これ以上ないほどに与えてくれた。

外では尻尾をふり続ける温厚わんこな "ぼく" でありながら、年を重ねるごとに増えていくゴール数や個人タイトルとともに、ピッチ上の "おれ" は渇きを覚えていった。

大好きな家族のもとを離れ、ドイツ・ブンデスリーグでの挑戦。

これまでの用意されてきたあたたかな環境とは違う、プロの世界での戦い。

アメリカで鍛えた「個の力」を新たな武器とし、プレシーズンまでは存在感を示していたと思う。

暗雲が立ち込め始めたのは、リーグが開幕したころ。

前期は勝ち点0という結果にあるように、チームとしての状況はぼろぼろ。

裏抜け要員としてFWで出場し、ピッチの外からは裏に走れと怒号が飛ぶ中で、ピッチ上の仲間は落ちてきてボールを収めろという。

チームとして、一体どこを向いているのだろう。

当時はまだ気付いていなかったが、プロクラブの監督だからといってすべてにおいて優れているわけではない。

なんなら、チームとしての共通ルールを短期間で落とし込むという点においては、アメリカの時の監督の方が圧倒的に優れていた。

"ぼく" が言うあたたかな環境には、この文脈も含まれている。

チームとしての共通ルール、つまりは行動選択の基準となる前提をチーム全体で明確にしてもらっていたからこそ、ピッチでの決断に迷いがなくなる。

世代別代表での頃と同じで、目的が明確化されていたので、あとはひたすらに努力すればいい。

そして、アメリカでの "ぼく" は努力を努力としないくらいにサッカーに夢中になれていた。

それこそがアメリカでの成功体験の理由だったと、いまならわかる。

大学卒業時、母のように育ててくれた監督がFacebookに投稿してくれた。

「Serinaが持つ自信と謙虚心の完璧な配分はサッカーに限らず、この先の人生で多くの幸運をもたらすだろう」

尻尾をブンブンさせながら喜ぶ "ぼく" とは対照的に、一体誰のことを言ってるんだ?と、"自分" はその言葉を素直に受け入れることができなかった。

ただ環境に恵まれただけで、自分自身は思っていたような選手ではなかったのかもしれない。

疑心暗鬼の心がそのまま、思考の手綱を握ってしまったのだ。

リーグ中断期には元々の望みであったアメリカプロリーグ入りを目指して、トライアウトにも参加。

しかし、今回は外国籍選手枠の有無に関わらず、最終メンバーにすら名前を残すことはなかった。

「技術は満足しているけど、Alex Morganのような選手たちと対峙していけるフィジカルレベルではない」

気持ちの変動がそのまま表れるかのように、ドイツに渡ってからは重心が後ろ寄りとなり、アメリカで培った前への推進力を失っている自覚はあった。

この言葉はその通りだったと思うのが、引っかかったのはもう一つのチームでかけられた言葉。

「ドイツは、ブンデスリーグはとてもいいリーグだから信じて」

とにもかくにも強くなるしかないと道を模索し、まずはメンタルだと、友人のビジネスマンにアドラー心理学の嫌われる勇気を勧めてもらった。

自分の人生を歩こうと覚悟を決めて海を渡ったはずなのに、「プロは、ブンデスはこうだから」という周りの言葉に振り回されていたことに気付いた。

自分に矢印を向けようと、そこからはサッカーの探究に没頭した。

まだまだピッチでの"おれ"は影を潜めていたが、後期から監督が変わったこともあり出場機会は増えた。

チームにも信頼できる人が少しづつ増え、なんとかシーズンをやりきり、2年目の契約は1年目の結果からは破格の提示をもらった。

だが、"ぼく" の心はもっとあたたかなところへ行きたいと、クラブには退団の意志を伝えた。

スペイン挑戦も考えたが、高校の時から言い続けていた「女子サッカーを文化に」という言葉に引っ張られ、仙台を次の拠点に選んだ。

樫本とSerinaの場合

思わぬ形での帰国ではあったものの、さまざまな経験を積んだいま何ができるのか。

選手、スタッフともに、とてもあたたかい環境に恵まれ、"ぼく" の経験をどう活かせるか。

そう期待に胸膨らませていたのも束の間、ここでも立ち塞がったのはリーグ残留争いだった。

自分を表現しようとすればするほど、耳に入ってくる「目をみろ、周りと合わせろ」という言葉。

周りとなにかが違うのは理解しているし、みんなに合わせたいのだけど、なにが違うのかがわからない。

選手だけで行われたミーティング、素直にその言葉を吐き出せたのはさすがわんこな "ぼく"。

加入してまだ間もないころ、どうやればそこまでチームに入れ込めるのだろうと "自分" は不思議だったが、残留をかけた1戦の前に流すモチベーションビデオをつくった。

まだ思い出もなにもない頃なので、チームメイトのSNSを漁ったり、フロントから素材を提供してもらったり。

かなりの時間をかけて、一つの映像に繋ぎ合わせた。

リーグ最少失点を誇る相手に、リーグ最少得点力を引っ提げたうちが複数得点差で勝たなければならなかった試合。

チームが順調に得点を重ねたタイミングで途中出場を果たし、チームが勝つために、徹底的に相手を潰す作業に徹したように記憶している。

試合終了のホイッスルの瞬間、喜びを爆発させるよりも、チームとしての結果を狂わせなかったことへの安堵の気持ちを押し寄せた。

ベガルタでの2年目。

キーパーコーチを除くスタッフが入れ替わり、新体制でのスタート。

加入時期の関係もあり、前年はクラブとプロ契約を結ばせてもらったが、この年は自分で見つけた事務所から報酬をいただく形に挑戦した。

この契約に関して、いまだから言えることは「半端な人間がやっても、半端どころかロクなことにならない」の一言に尽きる。

チャレンジによる経験と学びで、いまならもう少し上手くやれるだろうが、当時は競技に対してマイナスに振れることの方が多かった。

同時期に、自称SNS系トレーナーの謎の美女、後の "くそがき師匠" となる人物と出会った。

実際に会ってみると美女ではなく "彼" であったことを知るが、彼からは本当に多くを学んだ。

主観と客観の境界線、メタ認知的な思考。

トレーンング指導もできるということで、伸長反射を利用したキレやバネを生み出すエクササイズをやり込むようにもなった。

ベガルタでの2年目も、相変わらずに厳しいチーム状況で自身としても試合にあまり絡めていなかったが、転機は突然訪れる。

連敗が続く状況を変えようと、ごっそりスタメンを入れ替えるうちの一人に入った。

突然舞い降りたチャンスではあったものの、チームとしてなにが上手くいっていないのか、ベンチから常に観察し続けていた。

課題としては、ボールを奪うためではなく、ただゴールへの道を埋めるために全体として引く意識となっていたこと。

また苦労して奪ったところで、後ろからの組み立てに自信を持てず、責任逃れの爆弾ゲームが始まる流れまでがお決まり。

ここまで明確であるなら、とるべき行動はただ一つ。

チームとしての戦い方を揃えようと、まずはスタメンで出場するチーム全員にどういうサッカーをしたいかを聞いてまわり、それをまとめて監督へ話を持っていった。

「ハイライン・ハイプレスで相手に圧をかけ、ボール保持時も、落ち着くまでは割り切ってシンプルにロングボールを活用していきたい」というのが選手たちからの声。

「チームからは特に指示はしないし、ライン設定も後ろの選手次第」との返答だったので、少なくともスタメン全員の意志として、明日はこの戦術で戦いますと伝えた。

翌日のチームミーティング、前日に話した内容そのままが監督の口から伝えられた瞬間にチームの勝利を確信したが、いま考えると"誰の、誰に対する勝利"だったのだろうか。

リーグ内でも苦手意識を持っていたチームを相手とした戦いで連敗記録から脱し、そのまま順調に進むかと思えた。

しかし、リーグ終盤に近づくにつれて同じ課題に陥り、嫌々ながら参加した爆弾ゲームに失敗し、相手に得点を献上。

そのままハーフタイムで交代、次節からはベンチメンバーからも外れた。

このタイミングでまた古くからのご縁と交わり、トレーニング一辺倒だった思考にケアの概念が加わる。

しかし、この年はメンバーに戻る前に負傷離脱をしてしまい、そのままシーズンを終えてしまった。

最後の最後に失敗をしてしまったものの、個としての研鑽を重ね、一時期はスタメンで出続けた成功体験で積み重ねた自信があった。

しっかりと振り返り、また1年頑張ればいいと思っていたが、「実力は認めているが性格が無理」ということで切られた。

いや、正確には自ら退団を申し出るように説得され続けていたのだが、それに気付かず残る意志を伝え続けていたために、監督自らが出てきて説得する流れとなった。

事務所との契約のときと同じ。

「個」として中途半端だからこそ半端な結果にしかならん。

もっと「個」として、圧倒的な存在になっちゃる。

樫本セリの場合

加入初年度は、この気持ちが顕著に表れていたシーズンだった。

コロナ禍の影響の中、長い自粛期間をあけて、ようやくリーグが開幕したのが7月。

自粛期間中はとにかく部屋に篭り、ひたすらに身体と向き合いながらトレーニングをこなしたおかげで、身体のキレは納得のいくものとなった。

チームを勝たせる選手になる、なによりも勝つためだけを意識し続けた。

しかし、その気持ちが強くなればなるほど、組織の中に入っていくことに難しさを覚えた。

開幕直前のチームメイトのアクシデントがなければスタメンもなかっただろう。

悪運の強さで試合経験を積めたことはよかったが、要所要所でボロは出ていた。

怪我をきっかけに、後半からのスタートとなった試合で流れをひっくり返したことから、戦略的起用として後半スタートが定着するようになった。

劣勢時が一番燃える展開でもあり、そういう場面こそ力を発揮できる自覚はあったので、もっとプレーしたいという気持ちもありながら、納得はした。

同時に、この流れでわざわざ入る必要があるのかと思う状況もあり、その最たるが二部優勝を決めた最終節だった。

優勝の瞬間を見届けようと観客の入りも上々、イケイケなスフィーダに圧倒される相手チーム。

最低限やるべきことはやろうと、一人、日曜の午後ののどかな日差しに当たっているような心持ちだった。

続く皇后杯、古巣であるベガルタ仙台での対戦。

またチームメイトのアクシデントによってスタメン出場を果たすも、個人としての乱すだけ乱した内容とは裏腹に、チームとしては若いスフィーダを存分に発揮した内容だった。

チームのことが好きなはずなのに、ここでもまた乱しているのかと。

帰国してからは居場所がわからくなっており、必要以上にショックを受けたものの、新たな自省の視点を生み出す原動力となった。

翌シーズンではサイドバックでの出場機会によって、物理的にピッチ内での視野と視点が変わった。

最前列から最終列に移動したことで、前を向けている局面が増え、冷静にピッチの観察ができるようになった。

当時を振り返ると、主観から抜けたような感覚とともに、納得の上で様々なことにトライできるようになっていったという。

上に向かっていく気持ちもあれど、シーズンを通して、常に自信を表現してきたパフォーマンスには迷いが生まれていった。

みんなで膝に手をつくのチームとしての円陣スタイル。

そのなかでずっと個を象徴するかのように直立していたのが、何度も重力に負けそうになった。

それでも自分のルーティンだけは絶対に崩さないと、意地に近い気持ちで独り相撲をとっていたのだろう。

決してその心が折れた形ではなく、「このチームの一員として戦いたい」という気持ちでまとまった1年であり、皇后杯最終戦だった。

チームを勝たせるまでは至らなかったが、はじめてこのチームの選手として戦えた気がした。

心の辞書に「チーム」の文字が加わったことに多少の成長を感じつつも、いつどこでまた個に走る出すかはわからない。

自身に対しての信用のなさには自信があったので、気持ちを言葉として残し、常に客観視を心がけるようにしていた。

同時期、クラブとしての転機を迎える。

創設時からのクラブMVVを改め、強化一辺倒ではなく、スフィーダが世田谷の街を盛り上げていこうという意志を示した。

特に個人としてなにをしたでもないが、この知らせを受けた瞬間に身体が軽くなったことを覚えている。

なにができるのだろうかとあれこれ試していた矢先、自身にもある転機が訪れた。

オフのたびに訪れているアメリカの頃からの友人との会話。

いま思えば彼女が一貫して届けようとしてくれていた言葉を、このときになってようやく受信できた。

ちゃんとサッカー選手をやろう。

アメリカでStudent-Athleteとしてプレーしていたとき、プロ以上に誇りとPrideを持って生きていた頃の自分が納得するレベルまで。

このときの気持ちを忘れぬようにと、毎朝起きて鏡をみて思い出せるように、翌日すぐにブリーチの予約を入れた。

試合には相変わらずに出たり出なかったりだったが、ここでまたチャンスが訪れる。

西が丘で行われた愛媛レディース戦、大好物な展開での途中出場の機会。

試合前アップでは微妙なコンディションだったが、夏からの積み重ねの中で自身の整え方は把握できていた。

ピッチに入ってからも冷静で、自分を調整しながら、得点のきっかけを探し続けた。

いまだからいうと、先を考えても勝つか負けるか二択に一択な機会だったこともあり、守備に関しては決定的なことをやらせない最低限にとどめ、それ以外の思考を攻撃に全振りしていた。

今日は難しいかもなーと感じ始めたころ、チャンスが訪れる。

前を向いた状態の味方選手のところへボールが溢れた。

この流れでの、この時間帯。

彼女なら絶対にシンプルに裏に放り込んでくると信じ、逆サイドから斜めに走り出した。

別のチームメイトのゴリゴリブロックによるサポートもあり、あとはコースに流し込むだけ。

自分だけじゃない、人も含めたアイディアが形になった瞬間だった。

続く試合では ”苦手な相手" に対し、”適していない自分" で臨んでしまい、まだまだ自己理解が足りていなかったことを痛感する。

ただ、いままでと違ったのは、自分の中にテーマを持ち続けることでの積み重ねの手応えは感じていた。

皇后杯、東洋大戦。

当時の状態でできる最大限をやりきれたのは、積み重ねてきた自信はもちろん、客観視から生まれたよくもわるくもな "いま" の状態を受け入れる心があったからだろう。

そして、当時リーグ無敗を誇りイケイケな相手に対しだが、何試合かを視聴したうえで、うちの選手たちの方が強いという絶対的自信もあった。

ワクワクのなかに、先がみえない少しの不安を抱えながらはじまった2023シーズン。

この年のプレシーズンでも、シーズンを通して戦うための身体作りはテーマの一つ。

仙台のときに再会した、鍼灸師である師匠が身体中をぶっ刺し続けてきてくれたおかげで、身体の感覚的な理解はかなり進んでいた。

ノートとペンを常に持ち歩き、誰といようと、何をしていようと、おもむろにメモを取り出すようになったのはこの頃から。

ずっと悩み続けてきた性格の剥離の問題も、ピッチの外では少しづつ掴めてきていたものの、ピッチ上での振る舞いにまで同期できていないことに気付いた。

どの自分がベストなのかの疑問を頭の片隅に置きつつ、サッカーオタク仲間のたまちゃんとワクワクする個人的アップデートにいそしみ、たまに思い出したようにチームや人間について考え、そして前十字を切ったのは前述の通り。

ひと繋がりとなったところで、ようやく樫本芹菜の全体像がみえてきた。

スパイダーマンを見ながら得た直感は正しかったようで、二つだと認識していた人格は実際には三つ存在する。

まずは長男気質な "おれ" としての一面。

母に聞くと負けず嫌いは昔からだったようだが、サッカーを始めてからはより顕著になったという。

絶対勝利主義からか、周りに厳しく自分にも厳しい性格とよく言われた。

得意なプレーは、個での打開力。

記事でも前述した通り、この人格ではよくもわるくも周りに依存できないため、周りとの調和が苦手。

そして、どこからやってきた宇宙人次男な"自分"の存在。

すぐ人の揚げ足を取ると注意されるくらいに言葉にこだわりを持つのが、"自分" としての一面。

感情の文脈ではなく、状況における最適解、つまり社会というシステムの中での生存本能として育ってきた。

読書が趣味で、記事の執筆はほとんど "自分" が担当している。

得意なプレーは俯瞰しながらゲームを回し続けること。

そのため、チームとして機能していない状況下では思考が停止し、自分のパフォーマンスを発揮できない。

そして最後が、末っ子わんこタイプな"ぼく"。

人間とワクワクすことが大好き。

楽観的に物事を決めるので、すぐに壁にぶち当たって尻尾が萎えるが、裏表がない性格からか人に恵まれることで救われがち。

得意なプレーはオタク的に溜め込んだ豊富なプレーアイディアから生まれる創造性。

わんこなので、どこまでもボールを追い続け、肝心なところでバテがち。

ついでにメンタルも最弱。

この三人が集って、いまの "樫本芹菜" である。

自分史を振り返りながらそれぞれの自身を把握したことで、ピッチ内外を問わず、どこにも属せない違和感の正体はわかった。

では、本当の自分はどれなんだろう。

どの自分がピッチに立つべきなのか。

わからないから、今年のトレーニングマッチでいろいろ試してみた。

本当の自分を探しながら、かつ、チームで求められている自身への基準を探りながら。

やらなきゃという使命感で走りまわってきたおかげで、自身に求められる基準をいままでにない解像度で理解できた。

忘れていた。

それぞれで躍動しながら基準をつくってきているので、その分求められるものも無駄に底上げしてきたのだった。

そんな期待感で使ってみて、今日はハズレな日でしたみたいなことがあったら使いづらいことこの上ない。

求められる基準ははっきりした。

なかなか成長しきれないままだった"ぼく"を、"おれ"と"自分"がやれやれと導き、引っ張ってきたのかもしれない。

だったら、仔犬のようなわんこではなく、二人のよい部分を受け継いでスーパー宇宙犬になればいいのだと納得した翌日、また異世界に飛んだ。

樫本芹菜とは

その日は朝から土砂降りの1日だった。

少しだけ雨がやわらんだタイミングを計らって、重い腰をあげる。

わんこ同士、どちらが散歩をさせているのかは定かではないが、平日の朝は散歩に出かけるのがお決まり。

家を出てすぐ左へ行くのがこの二年間でのお決まりだったにも関わらず、その日はなぜか右の道へと引っ張られる。

突然のことに少し驚きながら、「またか」と、すぐに腑に落ちた。

自己理解が進んだことで、次はどんな自分に出会えるかというワクワクはありつつ、なぜか練習へ向けてのモチベーションがあがらない。

わんこだから天気に引っ張られやすいのかもしれないと、気持ちをあげたい時のルーティンを踏んでいく。

その日のチームトレーニングでは悪くない出来栄えだった。

場所によってはプール状態だったピッチコンディションもあってか、身体はいまひとつあげきることができなかったものの、うまく思考を切り替えてやれた。

だけど、なにか物足りない。

練習終わりから寝る直前まで、あれこれと思考を巡らせたところで気付いた。

今日の大雨はそろそろ気付けよという、身体が癇癪を起こしながら伝えようとするメッセージだったのだろう。

そう考えた瞬間、一気に自己理解に関しての思考が紐どけていった。

フロイトの自我とエスによると、自我とは意識して思い出すことのできるものであるのに対し、エスは無意識の中に存在する意識のことだという。

この定義を読んでいたことから、最初に自覚した "おれ" と "自分" こそが自我であり、内省によって自覚した "ぼく" こそがエス、潜在意識下の自身だと勘違いした。

でも違った。

"自分" と "ぼく" こそが、これまでの成長過程で後付け的に発生した者たちであり、誰よりも傲慢で強欲な ”おれ” こそが本当の自身だった。

自己中心的な "おれ" の仮面として、優等生的な "自分" が発生し、"自分" が ”おれ" を抑圧する過程で良心的存在として誕生したのが "ぼく" 。

これまでの人生の節目でぶつかってきた壁は、”それぞれの自身" が互いにぶつかり合うことで生まれる摩擦が原因だった。

フロイトによると、通常であれば自身の欲望(おれ)と超自我的良心(ぼく)は無意識に属すため、簡単に意識化できるものではないという。

それが今回の場合、自然発生的にそれぞれが表面化したのは、スポーツ界が異文化に飛び込んでいくハードルが低い環境であったことが大きい。

サッカーをやっていなければ、中学卒業と同時に家を出て、16,7の若さで日の丸を背負い、世界を相手にすることなんて到底あり得なかった。

日の丸の重みを痛感することがなければ、言葉もわからない世界に飛び込み、自身を曝け出しながら、人のあたたかさを素直に受け取れるようにはなれなかった。

人のあたたかさを知らなければ、誰かを好きになり、自身もまた一人の人間であることを自覚できなかった。

ここまでの旅の途中、視点が変わることで目に映るものが大きく変わることを実感し、なにを信じてよいものなのかわからなくなった。

だから、"いま" を探すために "過去" を見返すことにした。

振り返ってみて、これまで肌で感じてきたこと、出会ってきて人たち、かけてもらった言葉の数々、そのどれもすべてが一部となり、思考によって導き出した樫本芹菜という存在は絶対的なものだ。

そこまで考えたとき、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の言葉が思い浮かぶ。

大学でとった哲学の授業で触れた考えで、正直当時はまったく理解が追いつかなかったが、あれこれと考える自身を表すかのようなの言葉だとは感じて気に入っていた。

あれから約10年の時が経ち、いまようやく断片を理解しつつあるのかもしれない。

なりたい自分

そもそも自分という存在を掴めていなかったからだろう。

やってみたいことは山ほどあっても、どんな自分になりたいかの具体像が描けないでいた。

個として圧倒的になりたいとは言っても、理想像は尊敬する人たちのいいとこ取りなハリボテイメージでしかなく、現実とのギャップに凹まされ続けるだけ。

それがようやく、"いま"としての樫本芹菜という存在を掴めたことで、やるべきこと、なるべき個としてのイメージが湧いてきた。

とりあえずの課題としては二つ。

自己理解による自律と、社会的制約からの自立である。

自己理解による自律の文脈では、身体のケアと言語による振り返りの徹底を含む。

身体が歪めば思考も歪むもので、健全な身体をつくることは健全な思考を生み出す土台づくりとなる。

これは逆もまた然りで、言語による振り返りで自分の一部を見つけるたびに身体の歪みも治っていく。

このループを延々と繰り返しながら、人類ヒト科としての可能性をどこまで追求できるのかを探り続ける。

そして、もう一つの社会的制約からの自立に関しては人間関係と資本主義社会からの解放である。

人間関係に関する悩みは、興味を持てないからこそ関係の築き方がわからないという特性を理解し、それでも必要であれば "それぞれの自身” を駆使してコミュニケーションをはかる術を身につけたので一旦解決。

問題は資本主義でのほう。

サッカー選手兼学者ってどうやってお金をつくれるのか。

生活のためには考えなければならないが、お金をつくるや稼ぐという言葉に引っ張られそうなこわさもある。

それは世の中に流れるビジネスやマネタイズの情報を目にしたとき、あまりにも本質からは遠いやり方が運びっている様子がみてとれるからだ。

本質とは、本当によいものを、必要とする人に届けること。

人にしても、人間にしても、その存在を軽んじながらやれるものであってはならない。

大事なのは、レベルアップお兄さん師匠の言葉を借りるのであれば、"自尊心と他尊心の両立" である。

自律の文脈で書いた人類ヒト科としての人の可能性の追求は、とにかく心と身体に目を向けながら自分を大事にする自尊的アクション。

一方で、自身を人間として捉え、社会への貢献を考えるのが他尊的アクションとなる。

人間とは人が集まって成り立つ社会の中での一人であり、つまり人と人の間に自身が存在することで人間となり得る。

つまり、自身を大切にすることで心と身体に余力をつくり、その余力を持って、必要としている誰かに手を差し出すこと。

これこそが、本当の商いという行為であり、自身がずっと追い求めてきた "圧倒的な個" としての状態なのだろう。

個としての成熟を追い求めつつ、でもこのループからは絶対に逸れず、その上でいかに求められていることを提供できるか。

簡単な問いではないが、これまでの旅路でヒントは得ている。

多種多様な生き方が尊重され、人それぞれでおもしろい価値観が浸透している一方で、人が抱える悩みや問題というのは共通しているものが多い。

その糸口から、本当に必要とされているものを逆算し、問いに対しての自分なりの答えを導き出せたとき、ようやく "樫本芹菜" に出会えるのだろう。

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