常識のない喫茶店|僕のマリ
夢をみた。
「いちごジュース3、アイスミルクティー2、アイスオレ1」
言われるがままにどんどん作って、次のオーダーを捌く。ガムシロップを補充して、氷を砕き、グラスを洗う。店内は満席で、オーダーも溜まっている。今日も忙しい、あと何時間だろう?と思っているところで目が覚めた。起きてからしばらくぼーっとして、そうだ、もう辞めたんだったと気づいた。店を辞めて半月ほど経ったのに、昨日まで働いていたような気分だ。
今年の夏、ぼんやり考え事をしていた。世間はコロナ禍で、日に日に増えゆく感染者数を見ながら、1年後、5年後にはどんな世界になっているだろう?と考えるようになった。自分は、どんな仕事をして、誰と一緒にいるだろうか。どうしていたいだろうか。今の自分の年齢や、将来のことを考えたとき、自ずと結論は出た。変わらないのは楽だけど、きっともっと成長できる場所があるはずだ。そしてやっと「引っ越そう」と決めて、店を辞めることにした。新しい生活に、思いを馳せた。
店を辞めるにあたってネガティブな気持ちはなかった。嫌なこともたくさんあったけれど、それを乗り越えたから穏やかな毎日を手に入れることができた。楽しく働き、気づけば5年目。居心地がよすぎて、いつのまにか辞めるタイミングを失っていたのも事実だ。しかし、そんな日々を送っていたら運よく『常識のない喫茶店』という本を出すことができた。この本がターニングポイントになったというか、むしろ、『常識のない喫茶店』を書いてから区切りのようなものを感じて、「やりきった」と思えたのだ。なんとなくつらい、息がしづらい20代だった。でも、この本のどこを読んでも、弱くて自信のないわたしはどこにもいない。わたしはもう、大丈夫になったのだ。
辞めると決めてから、まずは一番親しい同僚であるしーちゃんに報告した。「そっかー、マリちゃんは自分の人生を進めるんだね」と言われて、寂しさがこみあげた。一緒に働いて、毎日とっても楽しかった。同い年の彼女とはよく将来の話をしていたから、自分の決意を打ち明けるのは少し緊張したけれど、「最後までよろしくね」と言ってもらえた。辞めた先輩たち、茉希さんやえいこさんにも報告して、新たな門出を祝福してもらった。二人とも「辞めるって言い出せなかった!」と言っていた。
10月いっぱいで辞めようと思っていたが、そのとき9月の下旬。いつまでに言うべきか思い悩んでいた。いざ、辞めることをマスターに報告したとき、とても緊張した。今日言おう、今日言おう、と思ってもなかなか切り出せず、9月の最後の週にやっと「お話があるのですが」と辞めることを伝えた。いつもそうだが、マスターは辞める人のことを特に引き留めない。わたしも、拍子抜けするほどあっさりと「わかりました」と言われた。それが気楽で、少し寂しく思う。「何年やってくれた?」と聞かれて「いま5年目なので、4年とちょっとですね」と言った。「もうそんなになるんだねえ」と遠い目をしていた。長い間働いていたのだ、その仕事をいま手放そうとしているのだ、と考えると思いとどまりそうになる。しかし、前に進まなければ。辞めることを伝えてからは肩の力が抜けた。
10月に入り、同僚や仲のいい常連さんに辞めることを報告していく。「めっちゃショックです」と言ってくれた人もいれば、「お年頃だもんね」と理解してくれる人もいた。同僚には店に来れば会えるけれど、お客さんとはそうそう会えないので、さみしいと思った。名前を覚えてくれて、他愛もない話をしたり、相談事にのってもらったりした。店で会って話をするだけの関係の人にも、わたしはずいぶん救われてきたのだろう。そう思うと同時に、わたしは誰かのことを救えただろうか、とも考えた。
辞めるまで一週間を切った。次々と、友人や知人が遊びに来てくれる。店にいればいつも誰かが来てくれて、よくカウンターで話し込んだ。お茶を飲みながらなんてことない話をするだけで、いつも気持ちが和らいでいた。ここには楽しい思い出がたくさんある。最後だからと記念写真を撮ってもらって、いよいよ終わるのだ、と思った。
最後の日は土曜日だった。よく晴れた、気持ちいい日だったのを覚えている。着なれた制服を着て、髪を結っているときに「これで本当に最後なんだなあ」としみじみ思った。働き始めた頃は朝が苦手だったけれど、これまでの生活リズムを変えたくて早番にしてもらった。連載を持っていた頃は、集中できるからと、朝早く店に来て原稿を書いていた。奥の窓際の席が特等席。朝日が窓から差し込んで、砂糖入れが光っているのを見るのが好きだった。誰もいないしんとした店内で、無数の花やランプを見てうっとりしていたのも思い出だ。最後の日も、誰もいない店内をぐるっと見回した。いつもと同じように開店準備をして、開けた瞬間にお客さんが入る。
とにかく午前中から忙しかった。友人や同僚含めたお客さんがたくさん来て、モーニングも軽食もたくさん出た。やがて洗い物まで手が回らないほど忙しくなって、みんなに「ちょっと待ってくださいね」と待ってもらう。誰もせかせかせず、のんびり待ってくれるのもこの店のいいところだと思う。混んでいたが、遠くの席にいた母親くらいの歳の常連さんに「いままでありがとうございました」と挨拶すると、お菓子とお手紙をもらった。「いつも声をかけてくださって、癒やされてたんです」と言われて、この人はいつもやさしかったなあと思った。昼前になってどんどん混んできて、席も満席が続き、外まで並ぶようになった。わたしと入れ替わりで採用された新人さんが、ホールでテンパっている。厨房もひっちゃかめっちゃかで、何がいくつ入っているかもわからないほど忙しくなった。いつも土日は忙しいが、経験したなかでもトップレベルの忙しさで、目が回りそうだった。喫茶店にしてはものすごい混み方をしていて、ちょっと笑ってしまう。
午後からマスターも参戦して、通常3人で回すところを5人でやっていたのだが、それでもオーダーと洗い物は溜まる。忙しすぎて在庫が追いつかず、冷蔵庫の中はすっからかんで、サンドイッチのパンもなければ卵サラダもない、レタスも洗えていないし、スパゲッティの麺も茹でられない。大ピンチだった。みんなであわあわしていたら、今度はマスターが「眼鏡がない!」と騒ぎ出したので「なんで?」と笑ってしまった。忙しすぎて疲れていたし、大変ではあったけれど、みんな笑っていて楽しかった。そうだった、いつも「大変」より「楽しい」が勝っていたから続けてこられたのだ。そう思うと、ふと涙が出そうになるのをこらえ、ひたすら軽食や飲み物を作った。スパゲッティを炒め、ゆで卵の殻をむいて、コーヒーをたてて、レモンを切って、お湯を沸かして、そうやって時間は過ぎていった。
退勤時間になった瞬間、同僚とカウンターにいたお客さんたちが「お疲れ様でした」と拍手をしてくれた。「楽しかったでーす」と言ったが、うれしくて照れくさかった。最後にカウンターでコーヒーを飲んで、名残惜しくないうちに「じゃあまた!」と店を出る。歩き出したとき、見送ってくれたしーちゃんが「大好きだよ!」と叫んだ。驚いて振り返るとにっこり笑っている。わたしは彼女のてらいのなさが、心底羨ましかった。素直で優しい彼女が大好きで、つらいときも一緒に頑張ってきた。しーちゃんは、いつの間にか親友になっていた。
辞めてから半月ほど経ち、新生活に向けて準備をしている。朝7時に律儀に目が覚めるあたり、まだまだ身体は覚えているのだなあと感じる。これから、新しい街で新しい生活を送って、たくさん思い出を作っていくだろう。でも、きっと何年経っても、『常識のない喫茶店』で働いた日々は色あせることなく、わたしの心のなかで生き続けるだろう。この店で働き、大好きな人々と出会って、自分を好きになった。これからは一人のお客さんとして、ファンとして、店を応援するのみだ。変わらず、わたしの一番であってほしい。美しい花々、煌めくランプ、夢のなかのような空間。ずっと続くと信じている。
★祝・卒業★
僕のマリ 著
『常識のない喫茶店』(柏書房)
僕のマリ(ぼくのまり)
1992年福岡県生まれ。2018年活動開始。同年、短編集『いかれた慕情』を発表。同人誌即売会で作品を発表する傍ら、商業誌への寄稿も行う。2021年9月に『常識のない喫茶店』(柏書房)、同年11月には『まばゆい』(本屋lighthouse)を刊行。
Twitter: @bokunotenshi_