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被害者はこのような“時間”を生きている|『秘密を語る時間』書評 |清田隆之

【本稿は桃山商事・清田隆之さんによる寄稿です】

 19歳の冬、駅のホームで4人組の男に「金を出せ」と絡まれたことがあった。周囲には人がたくさんいたので、最悪誰かに助けてもらえるだろうと考えて男たちの要求を無視したところ、いきなり身体を押さえつけられ、殴る蹴るの暴行を受けた。なんとか改札口まで走って逃げ、駅員さんに助けを求めたが、男たちはすでに電車に乗って立ち去っていた。膝蹴りを食らった顔面はひどく腫れ上がり、そのまま救急車で病院に運ばれた。鼻の骨が折れていて、完治するまで2か月くらいかかった。

 本書は、幼少期に見知らぬ男性から性暴力に遭い、その傷と記憶に苦しみ続けている女子中学生ウンソの日常を描いた作品だ。著者は韓国の漫画家ク・ジョンイン。シンプルな線で描かれた絵がとてもかわいらしく、どこかほのぼのした雰囲気も漂うが、内容はとても重い。

 物語はある休日の何気ないシーンから始まる。友人たちと買い物に出かけたウンソは、駅で談笑しているとき、後ろを通りかかった男にお尻を触られてしまう。それは一緒にいた友達すら気づかないあっという間の出来事だったが、この痴漢被害がきっかけであるトラウマが呼び起される。

 そんな第1話のタイトルは「日曜日」で、以降「月曜日」「火曜日」「水曜日」「木曜日」「金曜日」「土曜日」「日曜日・午前」「日曜日・午後」と続く。つまりこの物語はウンソが過ごしたある1週間の出来事を描いた作品なのだが、タイトルが『秘密を語る時間』であることからもわかるように、性暴力の被害者であるウンソがどのような“時間”を生きているのかが体感できるような構成になっている。

傷やトラウマは一過性のものではない

 詳細はぜひ本書で確かめて欲しいが、ウンソは最初、子どもの頃に遭った性被害のことを誰にも言えないでいる。深い深い傷が残り、加害者を殺したいほど憎んでいるものの、それが誰だったのかはわからないままだ。その圧倒的に理不尽な記憶は何度も何度も脳内で再生され、自分を責め、親を恨み、友人たちとの間に距離を感じ……と、今なおウンソを苦しめ続けている。

 しかしウンソはその記憶の中でだけ生きているわけではない。学校に行き、友達と談笑し、ご飯を食べ、勉強し、部屋でゴロゴロする時間ももちろんある。進路に悩んだり、友人たちと自撮りなんかもしたりする。そういう時間の中にほの暗い記憶がじわじわ侵食してくる様子が淡々と描かれていて、性暴力が日常や人間関係、自尊心や社会に対する信頼をズタズタに切り裂くものであることをひたすら痛感させられる。傷やトラウマと呼ばれるものは決して一過性のものではなく、このような時間を延々と生き続けることなのだと、改めて思う。

 振り返ると、私は長い間あの一件を“被害”と認識できなかった。眼球まわりの骨にもヒビが入っていて、腫れが引くまで失明の恐怖に怯えていたほどの大けがだったにもかかわらず、私はそれを自虐的な笑い話として周囲に伝えていた。

 そこにはおそらくジェンダーの呪縛が関与している。ボコボコにされた記憶を直視することは自分を弱くみじめな男だと認識することと同義で、だからわざわざオチをつけ、笑い話に変換することで傷から目をそらしていたのだと、今は思う。当時一緒に浪人していた仲間たちがお見舞いに来てくれたのだが、腫れ上がった顔で「5000円を出し渋ったら殴られて救急車で運ばれ、結果的に病院代で25000円を払うハメになってさ〜(笑)」と話す私に対し、彼らは明らかにリアクションに困っていた。

それでも日常は続いていく

 ウンソは今、どんな気持ちで生きているのだろうか。乗り越えている部分もあるだろうし、いまだにしんどさがよみがえる瞬間もあるかもしれない。

 彼女と私が体験した被害は別種のもので、安易にシンパシーを寄せることはできないが、こちらの意思など完全無視で身体をモノのように扱われてしまったこと、おそらく加害者たちの動機は驚くほど軽かったであろうこと、妄想の中で何度も加害者を殺していること、何もできなかった自分を責め続けてしまうこと、助けてくれなかった人たちを無用に恨んでしまうこと、被害の現場に似た場所を通ると動悸がすること――など、漫画に描かれていない膨大な時間も含め、いろいろ自分と重ね合わせながら読み入ってしまった。

 物語の最終話は「ある平凡な火曜日」となっている。ウンソの日常は続いていくし、私の日常も続いている。母親なのか友達なのか、はたまた未来の自分なのか、本書の表紙には鏡の中で誰かに抱きしめられているウンソの姿が描かれているが、私も暴力被害に遭ったあのときの自分を、まずは自分自身で抱きしめてあげたいと強く思った。

 『秘密を語る時間』はそんな力を秘めた凄まじい作品だった。何かの被害体験がある人にも、加害体験がある人にも、そして自分は暴力被害とも加害とも無縁だと思っている人にも、ぜひぜひ読んで欲しい一冊だ。

秘密を語る時間_Cover+Obi

★キム・ボラ監督、キム・ハナも推薦★
ク・ジョンイン 著/呉永雅 訳
『秘密を語る時間』(柏書房)

評者:清田隆之(きよた・たかゆき)
文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラムやラジオなどで発信。桃山商事としての著書に『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』『どうして男は恋人より男友達を優先しがちなのか(ともにイースト・プレス)、単著に『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(晶文社)『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)など。
Twitter:@momoyama_radio

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