月日はたって

大きな地震があった日の翌日、電車が走っていなかったのでバスに乗って会社まで行った。

初めてバスに乗って通勤したけれど、乗ってくる人達を眺めてたり普段とは違う道を走ったりして面白かった。
知らない町並み。知らない商店街。知らない人の家。

バスに乗ることは昔から好きだった。
平日の昼間は特に、入り込んでくる暖かい日差しとバスの揺れが心地よく、自分が生活の中に浮遊しているような感覚になる。
大学生の頃、よく吉祥寺や三鷹の方までバスに揺られてぼーっとしていたことを思い出した。

ただ、それ以外にもう一つ思い出したことがある。
確か高校2年生ぐらいの頃に詩を書く授業があり、私は深海という詩を書いた。そして詩の中でも私はバスに乗っていて、その時はまた今とは違う心地よさのなかで揺られていた。
ノートにその時の詩を発見したので、折角なので載せてみる。


バスに揺られている
まばらな乗客
ここは深海だ
誰も一言も喋らない
皆話すことを忘れてしまったのだ
静かな蛍光灯
その明るさだけが浮いている
遠くで響くエンジンの音
私は存在しているのだろうか
乗客はいつのまにかいなくなった

ここには苦しみも何もない
ただ揺れるバスに身を委ねていれば良いのだ
暗闇に優しく包まれる
海の底に私を脅かす光はない
私は安心して目を閉じた
このバスの行き先を知らない



バスに乗っていた少女はどこへ辿り着いたんだろうか。

***

最近もちと電話をした。
その中で、「モラトリアムが完全に終わってきた感があるよね」という話をした。
そして、それが意外と哀しいことばかりではないということ。

私ともちの似ている所は、種類は違えど自分の底にある暗い部分に対して親しみを持っている所のような気がする。
昔はこの自分の中にある部分が、大人になって薄れてしまうことを恐れていた。
ただ、この前話しながら「昔の自分に対してマウントを取るつもりはない。過去の自分の感情も分かる。でも、大きくなるとその時見えていたもの以外の世界も見えるようになった」
と話をした。

世の中には学校の中にいた時には分からなかったような複雑で苦しくて面白い経験や感情がたくさんあった。
それは多分死ぬまで続く。
まだ私はほんの一部分しかそれを知らない。

正直、私はわたしの中の深い海の底のような部分が霞んでいくことに対して、それでいいとハッキリ自信を持って言うことが出来ない。

ただ分かるのは、今はバスの行き先を自分で決めることができる、それだけだ。


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