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もしも、失っても。

実は、私は、東南海地震がきたら、津波が来たら速やかに逃げる必要がある地域に住んでいる。
海の近くの町には、大体そういうリスクがあるものだ。

想定では、大事なものだけは持ち出して連れ出して逃げる訓練はいつもしてるし、そこまで大袈裟に危険ってわけじゃないけど、東日本大震災のような想定外の震災だって有り得るわけで。

そうなったとき、家族の命を失っても自分が生き残るか、家族もろとも心中するか、そんな究極の二択も有り得ないわけじゃない。

もしも、そうなれば、息子と共に死ぬ覚悟で絶対に最後まで諦めずに連れ出して逃げると思いもするが、苦しいことが嫌な私のことだ、母親としては最低だが、息子を最後まで守れずに私だけ生き残るかもしれない。

もしも、そうなれば、私は、私を責めずに生きられるだろうか?私は、生き続けることを放棄せずにいられるだろうか?

今も昔も、私は、書くこと、表現することに頼っている。
しかし、表現することを放棄しても、私は生き続けられるだろうか?

結局、最後にたったひとつだけ、どうしても捨てきれない繋がりがあって、最後の繋がりだけになると、人間は依存しだし、弱くなってしまう。
執着をしてしまう。

だって、その繋がりをすてれば、孤独になってしまうから。人間孤独に耐えられない。孤独では、生活も成り立たない。

だけど、その繋がりが要らなくなるタイミングで、他の繋がりが出来てきて、たくさんの繋がりが出来てきて、自然と気付いたら、たったひとつの繋がりって執着してた繋がりさえも、いつの間にか卒業出来てしまう。

そうはわかっていても、たったひとつの繋がりに拘る私を捨てきれない時はある。
昔の恋を忘れられないのは、わかりやすい例だし、夫婦でも友人でも親でも子供でも、起こり得ることだ。

たったひとつの繋がりを捨てきれないなら、捨てなくていいんだ、今はね。
納得出来るまで、とことん色んな方法を試しながら歩いていけばいい。

そうやって、もがく時間が、あなたには必要だったってだけ。

ただ、人間は残酷なことに、いつかは老いて、死んでしまう。
好きな人との間に子供をもうける夢にも、そもそも好きな人と暮らすことすら、タイムリミットが明確にあって、そのタイムリミットに向かって、今も刻一刻と歩いている。それは、止めることは出来やしない。

だから、ずっとずっと、何かしら行動してみたり、たまには諦めてみたり、たまには卑怯に保身やら逃げ回りながら、大事な時には立ち向かいながら、向き合いながら、あの世から呼ばれるその日まで生き続けることだけは、手放さないでい続けるのが、なによりの強さなのかもしれない。

それは、醜いかもしれない。
だけど、そのなかに、美しさがあるのかもしれないし、そうなってはじめて実感する何かがあるのかもしれない。

どんな依存も、生きるには必要であり、いつかは卒業出来る日が来るものである。
てか、私自身が死ぬという現象で、強制的に卒業させられてしまうんだからね。

そんな強制的な卒業の前に、一日でも早く卒業して、よりよい人生を楽しむために、私たちは、私は、ずっともがいている。

あれこれに頼りながら、頼るものや頼る数を変えていきながら、臨機応変に生きている。

それが、本当の強さなんじゃないかなって。
ちっとも強くなれない私は、noteに頼りながら、書くことに頼りながら、生きています。

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