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電話ボックスとともに消えた人間の身体

エッセイ連載の第24回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 今はもうあまり見かけることのなくなった、電話ボックスについて。

 私が大学生の頃、まだ世の中には電話ボックスというものがたくさんあった。
 電話ボックスをもう知らない人もいるかもしれないが、人がひとり入れるサイズの透明なボックスの中に、公衆電話がひとつついているのだ。
 硬貨を入れる、あるいはテレフォンカードというものを差し込むことで、電話をかけることができる。

 当時は多くの人が電話ボックスで電話をしていた。
 私はその姿にとてもひきつけられた。
 電話の相手、その声に意識が集中しているから、自分の身体をあまり意識しなくなっている。また、自分が人から見られているということもあまり意識しなくなっている。

 スマホでしゃべっていても同じだろうと思うかもしれないが、ぜんぜんちがう。
 ボックスに入っているということも大きいのだろう。電話ボックスでしゃべっている人の身体というのは、ふだん目にする人間の身体とは、ぜんぜんちがうのだ。

 それが興味深くて、私は電話ボックスで電話している人の写真ばかり撮っていた。写真を習っていた大学生のときのことだ。

 普通、人物写真を撮ると、どうしても人物が目立つ。風景は背景のようになる。
 しかし、電話ボックスで電話している人の写真の場合、そうはならない。周囲の風景も大きく取り込むと、人物はその風景の一部となる。
 写真を見たとき、まず人物に目がいくのではなく、全体が目に入り、そのあとでその中にいる人物に目がいく。建物、電柱、ゴミ箱、木、屋根、電線といったものと、人物とが、かなり等質になる。そのことも面白くて、周囲の風景も大きく取り込んで、撮っていた。

 白黒フィルムで、自分で現像して、プリントしていた。現像とプリントで写真が大きく変化するということも知らなかったから、そんな実験も楽しかった。なるべく白黒の階調が幅広く細かく出るように、それをいちばん重視していた。

 安部公房の『箱男』に、障害者の写真に添えられた、こういう一節がある。

 見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。

安部公房『箱男』新潮文庫

 若い頃は自意識が過剰だから、人の視線というのがとても気になった。人前で話をするときなど、大勢が見ていると思うと、あがってしまってつらかった。
 それだけに、人の写真を撮るのが苦手だった。
 見られることを意識している身体というのが苦手だった。
 たとえ見られたがっている人であっても。

 電話ボックスの中で電話している人には、それがない。
 見られることを意識していない身体。
 しかも、他のことに意識を集中していて、自分の身体を忘れている姿。
 人間のいちばん魅力的な姿ではないかと思った。

 電話ボックスが世の中からなくなってしまったことを、私はそういう意味で残念に思っている。
 もうああいう人間の姿を見ることはできなくなってしまった。

 


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