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『自分疲れ』 まえがき

 毎週、金曜日の夜にエッセイをアップしています。
 これまで11週、続けてきました。
(これまでの連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 ただ、今週はついに無理でした……。いろいろ間に合わなくなってしまって……。

 何も載せないのもなんなので、代わりにと言ってもあれなのですが、今回は番外編として、新刊『自分疲れ ココロとカラダのあいだ』(創元社 シリーズ「あいだで考える」)の「まえがき」を公開させていただきます。
 よろしかったら、お読みください。

 なお、元原稿を使用していますので、本とは少しちがっています。

まえがき 自分自身がしっくりこない


気に入らない自分

 自分でいることに、疲れを感じたことはないだろうか?

 たとえば、自分の性格が好きではないとか。
 自分の体に不満があるとか。
「どうして自分はこうなのだろう……」と悩んでしまう。

 それなのに、その性格や体でずっと生きていかなければならない。
 気に入らないなあと思いながら、24時間365日、なんとか折り合いをつけながらやっていくのだから、これは疲れないほうがおかしい。

 別人になってみたいと願ったことのない人は、少ないのでは?

ずっと同じ自分という退屈

 自分を好きな場合でも、ずっと同じ自分でいるというのは、退屈と言えば退屈だ。
 いつも自分の目線で世の中を見て、自分に起きることだけを体験して、自分の人生を生きていく。
 ずっと同じ主人公の映画を見続けているようなもので、うんざりしてきてもおかしくない。

自分に対する違和感

 自分を好きとか嫌いとかに関係なく、なんとなく、
「自分にとって自分がしっくりこない」
「自分でいることになじめない」

 というような違和感を覚えたことはないだろうか?
 買ってきた服が、なんとなく自分に合わないような、何かちがうという感じ。

自分とは何なのか?

 では、「自分」とは何なのか?
 そう問われると、よくわからない。哲学的な問題に聞こえる。
 自分とは、よくわかっているものであると同時に、よくわからないものだ。
 とりあえず、この体、これは自分だ。
 そして、この心、これも自分だ。
 では、心と体が自分なのか。
 自分とは、心と体なのか?

体の再発見

 手や足の小指をケガしたことはないだろうか?
 普段は小指のことなどほとんど意識しないし、とくに小指を使って何かしている気もしないが、ケガをしてみると、こんなに小指をいろいろなシーンで使っていたのかと驚かされる。
 小指について、いちばん知っているのは、小指をケガした人だ。

 健康であれば、わたしたちは器官の存在を知らない。
 それをわたしたちに啓示するのは病気であり、
 その重要性と脆(もろ)さとを、
 器官へのわたしたちの依存ともども理解させるのも病気である。

シオラン(『時間への失墜』金井裕・訳 国文社)

 健康なとき、人はほとんど体を意識しない。
 胃が痛くなって、初めて胃を意識するように、不調になって初めて、その臓器の存在を意識する。
 つまり、体についていちばんよく知っているのは、体に問題が起きた人なのだ。
 私は二十歳で難病になって、十三年間、闘病した。だから、体というものを、とても強く意識した。再発見した。

 そして、体が変化すると心も変化する、ということも体験した。

 そういう体験をもとに、体と心について、気がついたことを少しお話してみようと思うのだ。

心と体への文学的アプローチ

 心や体については、科学的に語られることが多い。
 脳の海馬が記憶に関係しているとか、思春期にはホルモンの分泌によって体が変化するとか。
 とても面白いし、有意義だ。

 ただ、そういう話は「人間は」という大きなくくりで語られる。個人はそこからはみ出してしまうことがある。

 いちばん大切なのは、私だけの心のこと、私だけの体のことなのに。

 そういう「個人的なこと」をひろいあげてくれるのが文学だ。
 文学は、あるひとりの主人公のことがくわしく書いてあることが多い。その主人公は、自分とはぜんせんちがっていて、共通点がないことも多い。それでも、その主人公の体験や内面が細やかに語られていくと、なぜか共感したり感動したりする。「ここに書かれているのは自分の気持ちだ」とさえ感じることもある。
 これが文学の不思議なところだ。個人的なことを突き詰めると、普遍性に到達する。

 そういう文学の力も借りるため、今回、文学作品をいろいろご紹介していきたいと思っている(映画や漫画なども)。



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