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幻影三題

 エッセイ連載の第19回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 ときどきとらわれる幻影について……。

〝死〟と〝性〟

 以前に住んでいたところは、駅前に仏壇屋とソープランドが並んでいた。
〝死〟と〝性〟が並んでいるわけで、いつもなんとも言えない気持ちにさせられた。
 性によって人が生まれ、生まれたからには死んでいく。
 人のいとなみがこの2軒に集約されているかのようだった。

 その2軒の前を通ってアパートまで帰っていた。
 線香のにおいやお風呂のにおいがすることもあった。
 かなしかった。
 死も性も、人間にはどうにもならない。
 性欲の暴れ馬をうまく制御できないまま突っ走り、いつか崖から落ちて、仏壇の遺影となってしまう。

 ふと、ソープランドから出てきた人が、そのまま仏壇屋に入ったような気がした。
 きっと、見間違いだろう。

〝生〟と〝死〟

 今住んでいるところの駅前には、子どもたちが遊ぶ広場と、大きな寺がある。
 そのあいだの道を歩いて、家まで帰る。

 左手の広場では子どもたちが元気よく遊んでいる。
 右手の寺の垣根からは卒塔婆がたくさんのぞいている。
〝生〟と〝死〟だ。
 今はきゃーきゃーと声を弾ませて、命そのものものように生き生き躍動しているこの子どもたちも、いずれは死んで墓の下だ。
 真ん中を歩いている私は、まさにその真ん中にいる。

 ふと幻影にとらわれる。
 広場で遊んでいた子どもたちが、いっせいにわーっと道のほうに走り出し、そのまま垣根を越えて寺の中に入っていくのだ。
 こわいとは感じない。
 ああ、そういうものなのだなあと、木洩れ日に神々しい美しさを感じるときのように、うっとりと私はその光景をながめている。

この世から病人がいなくなる

 幻影と言えば、こんな幻影にもよくとらわれる。

 病院の待合室で、診察の順番を待っている。
 たくさん用意してある椅子が患者たちですべて埋まり、立っている人もいる。

 大学病院だと、1日の患者数は4千人をこえる。
 この待合室のいる人間のすべてが病人なのだ。
 この建物にいる人間のほとんどが病人なのだ。
 なんという数の人が病んでしまったのか。

 待合室の病人たちの何人かが、ふと立ち上がる。
 そして、出口のほうに向かう。
 まだ診察前なのに、帰ろうとしいるのだ。
 なぜ? 
 それに続いて、どんどん他の病人たちも立ち上がって、ぞろぞろと病院の外に出ていく。

 そうか、病気が治ったんだ!
 もう診察を待つ必要はない。ここにいる必要はない。
 入院していた患者たちも、どんどん外に出ていく。立ち上がれなかった人も立ち上がり、歩けなかった人も歩く。

 医師や看護師も、診察室から出てきて、患者たちといっしょに病院から出ていく。
 もう世の中に病人はどこにもいないのだ。だから、みんなで病院から出ていくのだ。

 歓喜の声こそあがらないが、静かな興奮が全員から感じられる。
 つながれていた場所、いなければならない場所から解き放たれて、ここではない外に出ていく。

 もちろん、そんなことは起きない。みんな、じっと、何時間でも待合室で待っている。

 


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