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あさにっき137


おはようございます!

昨日はわたしの中の人生サイコーパフェ更新の記念日になりました!笑


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最近割と「あなたは幸せで生きてきたから、そうやって自然体なんですね」と言われることがある。
わたしはこの手の意見に一種のマウントを感じる。

幸せというのは、そう簡単に決められるものなのか。
それを聞いたときに「いや、思わず口から出ただけで、幸せは本人しか…」なんて代弁する人がいるけれど、そもそもそう思っている人は、容易にそれを口にはしないと思う。



それに、幸せで生きてきたとはわたしは思っていない。むしろ不幸だったと思っている。


今生きていることは確かに幸せだ。
大きな怪我や病気もないし、住むところも身内もある。
ただ、苦労してきたとは思っている。
それを誇りにとか、勲章だとか、言いたいわけじゃない。


単に、「考えてこなかったから」だ。
自分の責任だと思っている。
だからこそ、自分で自分を育て上げている最中。
それを「幸せ」と一言で呼べるだろうか?





あなたは幸せですよね。
この言葉。
一種の拒否だ。
「わたしはあなたのことをこれ以上想像できない・したくないので、しません」という宣言。
相手を見ていない。
見ているのは自分のみ。
そんなことして楽しいのだろうか。


せめて、いうならば、
「不幸なこともあったと思うけれど、その点においては」
なんていうニュアンスは必要ではないか?
相手に言われる前に、それがいると思う。


 


そういうニュアンスを読まず、強い言葉だけ取って早とちりする人も一緒にいて居心地が悪い。
いちいち説明してあげなくてはならない。

その手の想像力のない人は、説明を聞いても「なんか真面目っぽいこと話してんな、あーめんどくさい人だ、メンヘラだ」なんて頭で思いながらヘラヘラわかったフリをしたりしている。
説明している側は、それを受け取っている。


想像力のないと思う人や自分に共通するのは
「自分のことしか見えていない」だ。
余裕がない時は特にそうなりやすい。
あとは、「一つのことしか見えていない」「目に見えるものしか見えていない」そんな感じだろうか。

わたしは、そんな人間にはなりたくない。



「自分のことしか見えていない」は仕方がないとしても、「一つのことしか見えていない(それでいいと思っている)」「目に見えるものしか見えていない(関係性という大切なことを忘れている)」に支配されたくはない。



頭がフル回転。

たまにはこんな勢いにも、頼らないといけない。



行ってきます!



◎昨日のつぶやき

わたしはわたしで良いのだ。
誰かに合わせる必要もない。
わたしの感性をわたし自身で感じればそれでいい。
わかりそうな人に話せばいい。
わからない人には、伝える努力をしてみて、伝わらないなら放っておけばいい。

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