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暇な大学生の「読書と妹」

私は本屋にいくと判断力はなくなるわ気は大きくなるわで財布が滅びかねないため迂闊に行かないようにしている。
しかし先日、本を読まない妹が珍しく本屋に寄ろうというので寄ってしまい、早々に私は2冊手にとって買うことを決めた。まったく阿呆である。一方、現在中学生である我が妹は本をほとんど読まない。私と妹の読書量を足して2で割れば最も勤勉で最適な量になるだろう。妹は本を読まなすぎるため不勉強であるし私は本に傾倒しすぎて他が不勉強である。姉妹というものはアンバランスだ。
本屋での妹はただ私の横については姉に志賀直哉を探させられたり本を漁る姉と本棚を眺めたりしているのみだ。あんまりにも不毛であるように思った私はたまたま目に入った田辺聖子の短編集「孤独な夜のココア」を手にとって「こういう恋愛ものの短編ならお前も読めるんじゃないか」と妹に渡すとぱらぱらとめくり「読めそう。」と言った。表紙を新しくしたのか随分今風に洒落ていて妹好みだったこともあるだろう。私は例のごとく本屋にいくと気がいつもの三倍は大きくなっているため「買ってやるよ」と自分のほしい2冊と妹への1冊を購入した。

数日後。妹の机の上に私が買ってやった本が置いてあり栞の紐が出ているのを見かけた。珍しい。読んでいるじゃないか。そう思うとなんだか嬉しくこっそり妹が既に読んだであろう栞のページまで読んだ。

私が田辺聖子を読んだのはかなり昔に1度ほどあるきりで恋愛小説の上手い大阪の作家というくらいの記憶しかないことを、私はすっかり忘れていた。彼女の小説は難解とはいわない。関西弁であるもののむしろ日本語としては読みやすい方である。しかし「恋愛」のなかでも様々で複雑な恋愛を明らかではなく静かに描いていることを覚えていなかった。文章読解ではなく心情理解と想像が難しい本を選んでしまった。妹にこれが理解できているのだろうか。せっかく買ってやるならもっと合う本を選んでやればよかったと思った。

妹が学校から帰ってきてから「あの本を君は読めているのか」と聞くと「どうだろう」と言った。

また数日後。栞の位置は進んでいた。まめな妹らしく青い布のブックカバーまでつけていた。ふとその栞とブックカバーに見覚えがあるような気がした。栞は確か私が長崎に行った時に土産で買ったステンドグラス調のもので妹が嬉しそうにしていた。ブックカバーは私が妹のいつかの誕生日にプレゼントしたもので、妹の好きそうな貝殻や魚などの海を思わせる柄の青い布のものだ。そして妹の本棚を見て気づいたのは、彼女にとっての初めての文庫本がこの小説であった。

彼女は「読書」という形式を楽しんでいるのかもしれないと思った。
少し大人の仲間入りをしたような、そんな気分で文庫本に青いブックカバーをつけてステンドグラスの栞を差しているのではないだろうか。それはなんともかわいらしいじゃないか。

そしてそれならば田辺聖子の短編集というのは調度いいように思う。今はまだ半分しかわからないような恋愛を読む妹を想像したら微笑ましく思えた。
ともかく本に関心のない妹に綺麗なブックカバーやら栞やらを与えてよかったと思った。

彼女がもう少し成長して田辺聖子をわかるようになる日がくるのかと思うと楽しみである。かくいう私も偉そうに「わかる」などと言えるほどの恋愛経験がないことは忘れている。

私は本の前では判断力はなくなり気は大きくなるのだ。

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