見出し画像

【小説】 動物園

 動物園に行こうと思い立ったのは、残忍な暑さが影をひそめ、冷たい風が不器用に秋を午後のなかに混ぜ始めた九月の終わりのことだった。
「動物園でも行くか」と出しぬけに僕が言った。
 僕はベッドに寝転がりながら、スマートフォンでサッカーゲームをしていた。「雑魚は消えろFC」に0−4の大差で負けていて、こちらを煽ってくる相手の壮絶なラフプレーを口をぱくぱくしながら呆然と見ていた。
「うん、動物園に行こうか」、僕の隣に寝そべり、YouTubeで動画を見ていた彼女が言った。
 単なる思いつきだったが、考えてみればみるほど、それは名案であるように思えた。むしろ、どうして今まで思いつきもしなかったのだろう? 動物園に行くことは、耐えがたい暑さと倦怠で湿った沈黙から逃れるようにアパートを飛び出し、二人してただ家の周りを歩き回った夏の終わりに、ささやかな意味と思い出を添えるには最適な考えのように思えた。
 僕は試合が終わったスマートフォンを放り出し、勢いをつけてベッドから跳ね起き、猛然と動物園に行く準備を始めた。彼女は、えー、ほんとに行くの、と呆れたように言ったが、内心では僕の考えに賛成だったのか、起き上がって髪をとかしだした。
「パンダの赤ちゃんはどうなったかな。」
以前、生まれたばかりのパンダを彼女が見たいと言っていたのを思い出し、僕が訊いた。
「もうとっくの昔に赤ちゃんじゃないよ」、呆れたように彼女は言った。
「そういえば、ウマ男はどうなった?」
「相変わらずだったよ」

 「ウマ男」は数日前に彼女がツイッターで見つけたアカウントだった。どこか人を馬鹿にしたような手書きの馬の絵がトップ画で、競馬情報や動物ニュースから日々の感想に至るまで散漫なツイートをしていたが、二日ほど前から炎上していた。問題となったツイートがすでに消されているのか、どうして炎上しているのかはどれほど遡ってもわからなかった。ただ、ここ二日間、スレッドやらリツイートやらで罵詈雑言が絶え間なく書き込まれていて、それに対する賛否の応酬がさらに書き込まれ、際限なく膨らんだ言葉によってカオスと化していた。僕たちは狭いアパートの部屋に並んでベッドに寄りかかり、暇さえあればウマ男のアカウントを見張っていた。僕も彼女も無言のまま画面を見つめた。汗がときおり、たらたらと頬を垂れた。僕は見えない手に自分の骨格を掴まれて揺らされているような、奇妙な震えを感じた。それは、興奮とも恐怖とも言えない感覚で、僕は自分の内臓が小刻みに揺らされたまま、画面の前に縛り付けられていた。こうして、僕たちは大学生活の最後の夏休みを暗い部屋の沼に浸されたまま終えようとしていたのだった。

 水をつめたペットボトルだけ持って部屋を出て、勢いで歩いてきたが、考えてみれば、僕は特に動物園が好きではなかった。人が多いのは苦手だったし、動物園特有の匂いが嫌いだったからだ。僕はそのことを思い出し、動物園が近くにつれて、段々と気が重くなっていたが、彼女は容赦無く僕を引っ張っていった。
 不忍池に偽物の白鳥が何体も水面を滑っているのを見て、動物園を見られてよかったね、と言ったが、彼女は鼻先でふん、と笑っただけで、変わらず僕を引きずっていった。彼女は今や動物園に行くことの魅力のとりこになっているように見えた。あるいは、この無為な夏の時間に何らかの意義を塗布することにかもしれない。
 そんなふうにして、僕は動物園のなかへと追い込まれていった。チケットを二枚買って、ゲートを通るとすぐに、もわっとして胃液が込み上げてくるようなあの臭いがした。彼女は、動物園に僕を引っ張り込むという大仕事を終えて、すでにほとんど満足したようだった。僕たちは結局、大した目的もなく、動物園のなかをふらふらと歩いた。
 彼女は説明書の看板に書かれた動物たちの学名をたどたどしく声に出して読んで回っていた。僕はやることもなく、「虎よ、お前はポリ袋で腹を満たしたナショナリストだ」とか「カンガルウ、腹の袋のなかにはエロ本が一冊はいっている」だとか、見かけた動物一つ一つにふざけて芥川風のアフォリズムをでっちあげていた。
 僕たちは、猿山の横のベンチに座り、猿の群れを見つめた。猿たちは退屈そうに寝そべったり、食べ物を奪い合ったり、仲良く毛繕いをしたり、思い思いに初秋の夕方を過ごしていた。僕たちはペットボトルの水をちびちびと飲みながら、猿の行動を飽きることなく見た。猿たちも僕たちを一瞬見たが、すぐに興味を失ったようだった。彼女は、それは誰々、あれは誰々、とバイト先の人間関係に猿たちを当てはめる遊びに興じていた。僕も退屈しのぎとして不遜にも、あの山の上の方にいるのは志賀直哉、山の下で、にょぜがもん、と鋭く啼くは太宰治、などと近代日本の作家たちを当てはめて楽しんでいた。一匹の猿が僕たちの前に躍り出てきて、笑っているとも泣いているともつかない顔で甲高く啼いた。ではお前は? 耳障りな問いかけだけが響いて残った。

 日はもう暮れかけていて、動物園からは少しずつ人がはけはじめていた。僕たちはぶらぶらと動物園のなかを歩き回っていたが、バクのえさやりのアナウンスを聞いて、バクの檻に向かった。檻のまわりには、もう小さな人だかりができていて、中にいる一匹のバクと飼育員の姿を見つめていた。飼育員は束になった草をバクに与えながら、顔につけたマイクを通してバクの生態について説明していた。バクは聞いているのか、いないのか、飼育員を気にすることなく黙々と草を食べ続けていた。バクが草を食べようと首を上げたり下げたりするたび、1メートルはありそうな巨大なペニスがぶらぶらと揺れた。彼女も柵に寄りかかりながら同じものを見ているようだった。すごいな、思わず僕は言った。すごいね、と彼女も言った。死にかけの暑さがアスファルトから照りかえり、汗が顔から吹き出して首を伝った。頭がくらくらした。えさやりには飽きたのか、小学生くらいの子供たちが叫び声を上げながら取っ組み合いをしていた。二人とも笑っていた。そろそろ行こうか、と僕は言った。そうね、と彼女も言った。
 動物園を公園側から出たときには、もうだいぶ暗くなっていて、街灯が白い地面を丸く浮き出させていた。あの動物園の匂いがまだ僕の鼻を満たしている気がしたが、本当に外まで匂いがしているのか、気のせいなのかはわからなかった。さっき掴み合いをしていた少年たちも一緒に出てきていて、さっきよりも大きく、ずどーん、ばしゅばしゅ、と自分たちで効果音を付けながら闘いを続けていた。僕たちは西の空の方にわずかにほとばしった血のような空を追いかけるようにして、早足に家まで歩いた。

 その夜、どちらから誘うともなく僕たちはベッドのうえで何度も交わった。それは、今までにないくらい激しく永い、獣のような交わりで、僕の背中を汗が幾筋も伝った。彼女は最後に呻きともため息ともつかない声をあげた。そして、僕たちはどちらからともなく深い眠りについていった。

 夢のなかで、僕は真夜中の動物園にいた。彼女と二人で動物園の出口を探していた。なぜか動物たちはみな檻から出されていて、ベンチに座ったり、歩き回ったりしていた。人間の身体をしているものも、顔だけは猿や象だったりした。逆に動物の身体だが顔だけ人間のように見えるものたちもいた。僕たちの近くにはズボンから巨大なペニスを出したバク人間がいた。僕はぼんやりとした恐怖と憎悪を感じていた。突然、誰からともなく恐怖が伝染していき、みな焦ったように出口を目指し始める。虎か、ライオンでも来るのかもしれない。夜露を冷たく肌に感じる。空気のなかに浸透した恐怖がゆらめいて広がり、僕を震わせていく。まわりの動物たちと同じように。僕は彼女の手をとって走り出した。今や僕は出口の場所を知っていた。彼女も動物になっている気がしたが、そっちを見ないまま走った。僕も動物になっているかもしれない。ほの明るい出口が見えてくる。ふと気がつくと僕たちの横にウマ男がいる。ウマ男は、身体は馬で、顔だけが人間だった。それは、意味不明なことを繰り返し叫びながら、ぐるぐるとものすごい速さで走り回っていた。ウマ男もまたその場を支配する恐怖に取り憑かれているように見えたが、別の何かに突き動かされているようにも見えた。やがて、一声、ふひーん、と大きな啼き声をあげると、出口を勢いよく飛び越えて、動物園から出て行った。僕たちも出口まで走り出す。まさに外に出ようとした瞬間、僕は目を覚ました。

 大量に汗をかいていて、シーツがぐっしょりと濡れていた。まだ外は暗く、隣には布団を奪い取った彼女が丸まって寝ていた。ひどく喉が乾いていて、僕はコップに水をいれて一気に三杯飲んだ。もはや眠れそうになく、枕元からスマートフォンを手探りで取った。白い光が目を貫いて頭に刺さってくる。ゲームのアプリを起動してオンラインのマッチングをすると、対戦相手は「回線操作はしねFC」だった。画面のなかを赤や青のユニフォームを着た小人たちが動き回っているのが無性に苛立たしくて、僕は途中でやめた。僕は夢のことを思い出してゲームを閉じ、ツイッターでウマ男のことを見てみた。
 夕方に動物園で見直したときには、「消えろ社会のクズ」とか「頭おかしいんじゃないの、きも」とか暴言の書き込みは続いていて、事実かわからないがウマ男の住所や職場の情報までツイートされていた。
 しかし、今見るとウマ男のアカウント自体がなくなっていて、もはや炎上騒ぎが起こっていたことすらなかったことになったかのようだった。僕は拭き取られた血の匂いをたどるように、ウマ男の騒ぎがどうなったかた探ろうと思ったが、なんの情報も得られなかった。ここ数日間、僕の骨格を揺さぶり、震えさせていたあの全てが消し去られたのだろうか。

 夜が開けようとしていた。眠りを裁断していく朝の最初の光が遠くの空に見え始める。僕が起き出して眠りが浅くなったのか、彼女が眠ったまま小さく唸り声をあげる。うなされて何かを話そうとしているのか、口をぱくぱく動かすがそれはうまく声にならない。しかし、やがてそれは空気を震わせ始める。ふひーん、彼女はそう言った気がする。次第にそれは大きくなる。
 ふひーん、ふひーん。
 バクは悪夢を喰らうという。僕のあの夢はどうだろうか、あれもバクが喰らったのだろうか。しかし、あれはそれほど悪夢でもなかった。僕も彼女の真似をして、ふひーん、と鳴いてみる。朝と夢のあいだで、空気が揺らされて、窓枠がかたかたと鳴った。

この記事が参加している募集

文学フリマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?