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「明日、祖父は灰になる」

1月4日。アルバイトが終わり携帯を開くと、家族のLINEグループに母からの連絡が

「ごめんなさい、お父さん亡くなりました」

謝罪で始まるのが母らしい。そんなことを思いながらぼんやりと汚い靴下を脱いでノロノロとシャワーを浴びた

急な話ではない。2年前にパーキンソン症候群と診断された祖父は少しずつ少しずつ、日常の些細なことが不可能になっていった

まず歩くことが困難になり、歩行器をつけないとデイケアセンターから帰ることもできなくなった。話すことも次第に祖父にとっては重労働になった。読み聞かせ用のひらがなを使って簡単な会話をするようになった

そして昨年に入りこれ以上の自宅での介護は不可能だと判断され、病院のベッドのベッドの上での日々が始まる

それでも帰省するたびに合う祖父は元気で、数ヶ月ぶりに私を見ると「痩せたな」らしき音を発していた。それはこちらのセリフだと言うのに。

お別れが近いうち、おそらく1月中には訪れるだろうと覚悟していたので、悲しかったが涙は出ず、取り乱しもしなかった。

なぜかその日は39度の熱が出た。24時には40度近い熱が出ていたのに翌朝には何事も内容に平熱に戻っていた。不思議なことだ

翌日に地元に戻り、お通夜が始まる前にようやく実家に帰ることができた祖父に5日ぶりに会った。大晦日に面会に行った時は確かに脈打っていた体だ。

あんなに苦しそうだった呼吸は綺麗に止まり、血液がうまく回らずパンパンに腫れ上がっていた手足は見慣れた大きさに戻っていた。触れてみると驚くほど冷たい。これが夏だったらひんやりとして気持ちよかったのかもなとぼんやりそんなことを考えた

喪主は長男である叔父が務めた。最愛の祖母は転んで腰を骨折し病院の大部屋のベッドの上で最愛の相手の最後を知ることになった。電話で子供達に葬儀の準備を指示する祖母に。哀しむ暇はあったのか

明日には葬式、祖父は灰になる。祖父がこの世で過ごす最後の夜。線香を線香を絶やす事はできない。誰かが番をしなくてはいけない。喪主である叔父と私がその務めを果たすことになった。そういえば叔父の親友も付き添ってくれた

番といえば高尚な役目のように聞こえるかもしれないが、することは単なる酒盛りだ。浴びるほど酒を飲んで、たまに起きて線香を確認するといい。現代の線香は12時間保つらしい。その日電車に5時間揺られている私には少しきついかもなと思った気がする

20時に飲み始めてビールが12本、レモンサワーが6本、ウイスキーが一本空いた頃、4時ごろだったと思う、3時にすき家のテイクアウトもしてみんなが牛丼を食べ終えた頃。私は一人になった。みんな寝てしまった

その時私は眠気の峠を1時間前に超えたばかりで、眠気は遠ざかっていた。線香も2時間前に替えたばかりでゆらめくばかりだ。もう酒を飲む気にもならず、なんとなく祖父に近寄った

棺桶の中で眠る祖父は痩せこけていて、死化粧もあってかまるで知らない人のように見えた。遺影に映る元気だった頃の祖父と比べると、ああこんな骨格をしていたのか、とぼんやり考えた

誰も聞いていないことをいいことにオレンジジュース片手にソフト二人で取り留めもない話をした。恋人ができたこと。教育学部を卒業するが祖父と同じ教師にはならないこと。地元には帰らず大学がある土地で就職しようと思っていること。言葉を書くことを仕事にしたいこと。どれも祖父とはしたことのない話だった

記憶に残る祖父は常に酒を飲み、誰かに怒り、祖母の名前を叫びながら帰ってきた。本当にこれが地元の小学校で校長をしていたのかと何度疑ったか。自分が酒飲みになる前は鬱陶しかったが、自分が酒を飲み始めた今、祖父と一度も酒を飲めなかったことは後悔としてあまりに深く残っている

破天荒で暴れん坊。なのに誰からも愛され、奇天烈な格好をして同級生から「宇宙人みたいな爺さんがいた」と言われたらそれが祖父だった。私がお酒を飲み始めるのと同時にお酒が飲めなくなった祖父。

何をもらった覚えもないし特に何かを教えてもらった事はない。口論なら数えきれないほどした気はするが

一つだけ覚えているのは。祖父が私と接していて一番嬉しそうにしていたのは私が祖父の書斎の中の本に興味を示した時だった。別に少し気になっただけのなのに何千円もする本を押し付けてきて、後日感想を言うとウキウキで似たような本を何冊も持ってきた。パルムもくれた

祖父の書斎にある本は、根こそぎ読んでやろうと思う。祖父の世界を取り巻いた知識を、一文でも多く取り込んでいきたいと思った。



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