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セルフレビュー「世界は「問い/答え」でできている 」

 昨日投稿したところで早速反省会。現時点(2023/1/22 20:30)でビュー数7なのでやはり虚空に向かってしゃべっているおじさんのままである。やる意味あるのかという感じだが、見つけた微妙なところは追記していく。もしもなんかあればメールをください。


2023/1/23

比較器と比較尺度

 比較器と比較尺度の概念の区別について混乱が生じている気がする。

 この場合、ハイデガーの分析を私の「ミッシングリンク」での議論とを組み合わせて考えれば、「問い」は「問いの対象(問われていること)」にたいして、ある「比較尺度」、「解となりうる要素の集合」を当てて、そこから選択が行われるという構造を持つと見えるかもしれない。しかし、私は「y=2x」のような数式もまた一つの「比較器」であると「ミッシングリンク」で述べた。
……略……
 「問いの対象」を比較器にかけて、取りうる解の集合としての比較尺度のなかから一つないし複数の要素を取り出す、これが比較行為の概略である。定義の区別として、私は解の集合を比較尺度と呼び、解を出力する過程を指すときに比較器、その解を出力することを行為として見るとき比較行為と呼んでいる。比較器での処理過程がある一者にとって習熟されていて簡易であれば、慣用的に比較尺度をあてるという表現をしてもいいのではないかと思う。

世界は「問い/答え」でできている
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb1c1565b812e

 「ミッシングリンク」ではこう言っている。

 例外はあるものの基本的に比較という行為は、それを行う比較器――この世のあらゆる事物について、それが情報を受け取り、一定の処理をした上で結果を返すという側面を持つことを指す時に仮にそう呼ぼう――に対して、比較可能な対象が物理的特性から限られており、相対的に処理が行われるということである。
……略……
 では有用な情報とは何か?それは第一には情報を処理する機能であるところの「比較器」、「比較行為」にて用いることのできる情報である。無論、ある種の道具にも情報は使用されるだろう。そのため「有用」、あるいは「有意味」である情報とは、それが「次の比較器や道具、機能に渡し使用することのできるもの」であるということに他ならない。情報の有用性は種々の「比較器」「比較行為」の形作るサーキットとそして、それらと他の道具と機能や人の関係、その循環論法のうちで支えられて、見出される。
 例えば、「y=3x」という式において、xに値を代入してyを求める時、xは「取り得る値の中から1つの値を待ち受けている」ためここで定義した意味で、比較行為を行っている。そして、その代入によって「yの取り得る値の中から選ばれた結果が出力される」ため、これは一つの比較器とみなせる――脱線するが、ここで定義した比較器と機能(関数、function)には結局のところそれが情報を処理するのか、物理的なものを含む事物を処理するものも含むのかの違いしかないのだと思う。
 ではこのxに「私は米国籍を持つ」という情報を代入して何か意味はあるだろうか。もちろんこの情報は「y=3x」においてなんら意味も有用性も持たない。しかし、「私は米国籍を持つ」は空港の入国の手続き――パスポートの情報などから入国の可否を振り分ける比較行為――では有用な情報として処理されるだろう。「x=3」という情報では、それは逆になる。

「違う」と「同じ」のミッシングリンク
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb5e88710eff1

 「比較尺度」は「解」の集合と断言していいのか、というと少し違う気がする。概念として「比較器」のほうがより上位の包括した概念であるといえるよう思う。「比較尺度」というのは、「比較器」の中でもその使用、解の出力が簡易で、解の集合がどのようになるか簡易に予想できる、とみなした時のそういった簡易な表現として使用しているようだ。

 基本的に「程度の差」こそあれ、この世のすべての物質を「比較器」とみなすことは可能だと思う。ある物質は関係する他の物質の種類や性質に応じて、違う反応を示すであろうからだ。そうなればそこに差異が生まれ、「違い」を識別する機能として扱える。ただ、その「程度の差」というのは非常に重要なものであると思うのだが。

 関数に「定義域」というのものがあるように、比較器にもそれに応じた、正常に比較できるものとそうでないものがある。その「正常さ」を決めるのは次の、次の次の比較器で使用可能である…ということになると思う。受け取り可能な情報が比較器ごとに決まっているということである。そんなお話。

2023/3/21

ソクラテスの手前へ

 この世界のうちにある今現在すでに存在する者たちは、それ自体「問い」の形式をしていながら、それ以前の世界に存在していた他の存在者の関係の総体から生み出された「答え」でもある。ベイトソンの議論の拡張を養老孟司の話にも適用すれば現在存在する生物以外の物質もまた何らかの関係を経て、その結果として現に存在しているといえる。

 今現在の世界は、かつて誰かがどこかで何らかの意図により行動を選択し、それに成功、あるいは失敗し、そして、あるいは「成功/失敗」そのものの定義が変わり、あるいは意図せずして何かと何かが関係し生みだされた結果、それがどのようなものであれ、現在まで交錯してきた「答え」たちの生み出す状況に「問い」かけてあみ出された「答え」である。

 「問い」であるか、「答え」であるか、それはそれぞれ「事前/事後」の視点から見られた区別であると言っていい。「事前」の視点、現状からまだ定まらない未来を見るとき、存在者たちはその「答え」を隠した未来への「問い」として現れ、「事後」のすでに起こってしまったものとして現在を見るとき、存在者たちはどのような「問い」を経て選ばれてきたかを隠した「答え」として現れる。

 自然、社会、人間、私たち自身が複雑に絡み合った「問い」であると同時に「答え」なのであり、世界という大いなる問答過程の一部なのだろう。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb1c1565b812e

 究極的には哲学はソクラテスさえ学べばそれでいいと思っている(そのソクラテスについても不勉強なのに)私であるけれども、結局自身の考えている哲学の内容はむしろ「ソクラテス以前の哲学」に類するものではないかとふと思った。物理のそれと精神のそれを区別せずにすべて「世界」を「大いなる比較過程」、「大いなる問答過程」などと呼んでいるし、物理の世界も精神の世界もともに「関係」しかないという私からすれば『世界は関係でできている』というタイトルを自分で使ってみたかったなあとさえ後になると思う。

 ただ、これはある意味で、探究のスタート地点から必然的に導かれる場所ではあるかもしれない。最初から現象学と科学の対立に疑問を持ちながら、自身の哲学に関しては言語のそれを含む文化的な価値の排除を意識し(今現在、翻訳には苦労しているけれども、それは表層的なものでしかないと思う)、プラトンのイデア論の徹底的な否定と、アリストテレスによる学問の分類以前に立ち返り、徳そのものに限界があるという仮定のうえ哲学の思索をすすめれば、行きつく場所がソクラテス以前の自然哲学に似た場所になるのはわからない話ではない。そこは教養を欠いていてもたどり着けない場所ではない(本当に私には驚くほど教養がないと思う)。まあ、私の論の正しさというものは誰に証明されているものでもないので本当に正しいかどうかはわからないけれど。

2023/4/22

スピノザの神、ガンディーの真理、「形」なき超人

 「問う」こと、「比較尺度」をあてること、認識を行うことはすなわち、「他に取り得る可能性を並べ待ち受け」、さらに「何かが選ばれている」ということであるが、それはすなわち何かを認識すること、何かを「問う」ことが、必然的に「何かがそこに存在しないこと」、「欠如」をそこに見出すことに他ならないことを意味する。
 しかし、そうして世界に見られる「欠如」はそれ自体として物理的に「欠如」しているのだから、その「欠如」はそもそもとして、世界には存在しない。それは「見る者」が「在り得るがない」という可能性との比較から、あるいはひょっとすれば欲望を含む眼差しを向けることによって生み出しているものである。スピノザの神がそうであるように、世界はそれ自体としては常に「満たされている」のである。
 「満たされる」ことと「欠如」は両立できない。「満たされる」ためには「欠如」を埋めなければならない。しかし、人間は生ける比較過程でもある。生きている限り、何かを認識する限り、「問わない」ということはできず「欠如」が完全に満ちることはない。しかし、その「欠如」は事実として「存在」せず、世界は常に「満たされている」。
 禅問答の答えのない「問い」は「問い続けざるを得ないが、問いによる欠如は現実としてどこにも存在しない」ということ、その解消できないアポリアを問答により自覚させる営為であり、それによって人間の煩悩や雑念を霧散させるものでもあると考えられる。そして、それの成功は紛れもなく一つの安らぎへの道であろう。実際にその「欠如」の認識が迷妄として理解されれば、世界は「満たされている」ことが確認されるのであるから。 

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb1c1565b812e

 しかし、ここで考えてみたいのは、「神の愛」を測り知れないと述べながらも「真理の探究」、「実験」としての生を生き、運動を起こしたガンディーは明らかに何らかの「正しさ」を保有していたのではないかということだ。私はそれは究極のところ、「我」から生まれる「よい/悪い」、「我欲」の「暴力」を放棄し続けたところにその「正しさ」があったのではないかと思う。「我」から生まれる「よい/悪い」の尺度を放棄して、測り知れぬ「真理」、「非暴力」、「神の愛」に身を委ねた、そこに彼の「正しさ」があったのではないか。

セルフレビュー「「地図と土地」の「貨幣論」」
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nbab7ba17cbbd

 ガンディーの「真理」は「スピノザの神」を肯定することと似た境地にあるのではないかと思った。欲望の第一の条件は欲しているものがそこに「ない」ということ、「ありうるがない」という眼差しを向けること、決して世界に存在しない「存在しないもの」を見出すことだろう。これに対して、世界そのものである「スピノザの神」はそのような「欠如」の認識、「他に取りうる可能性」の認識を拒絶し「満たされた世界」を提示する。

 翻って、ガンディーのように厳しい禁欲を実践すれば、それはおのずと「欠如」そのものの否定となり、その認識と身体は「満たされた世界」に近づいていく。故に、ガンディーの「真理」は「スピノザの神」を肯定することに近い。そして、そのように「他にとりうる可能性」を放棄していくことは「研ぎ澄まされた今ここ」に集中するように「それ自体としてある」こと、「関係の外部」に近づていこうとする試みでなのである。

 また、ずっと前から考えていたことではあるのだが、「スピノザの神」を肯定することは、ニーチェの「超人」の「現在を肯定する然り」と極めて近い類似性と、そして差異を有していると私は思っている。そんなことは誰かがもう言ってるかは分からないが、とりあえず書く。

 ニーチェはどこかで、「あなたが何かを一度でも肯定したのなら、それはここにいたるまでの世界のすべてを肯定したのと同じだ」というようなことを述べていたと思う。

 ある人が「あるもの」――この世界の一部――を肯定したとすれば、それは必ずほかでもない「この世界のすべて」を肯定したことになる、上記の私の記憶は曖昧だけれど、そうニーチェは考えていたと思うのだ。

 私たちの認識は限られているから、しばしば「あるもの」を「それ自体としてあるもの」としてみてしまう。しかしながら、「あるもの」は常にこの世界に存在する他のもの、かつて存在してきた他のものとの「関係」の中で存在してきているのであって、「この世界」が「この世界」であるためには、そのいかなるピースをも切り離すことはできない。

 例えばこの世界の「あるもの」だけを切り取って存在しなかった世界は、「この世界」とは別の世界である。故にこのような考え方をすると――つまり現在と過去のありとあらゆるすべての「関係」を考慮する視点に立つと――「あるもの」を肯定するとき、人は「世界のすべて」を肯定していることになるのである。「あるもの」は「世界」に存する全てとの関係性によって「あるもの」として私たちの前に現れるから。

 こう考えれば、超人の「然り」が「永劫回帰」の肯定と祈願に至る一つの理由がわかる。超人の「然り」は以上のように、すべての「関係」を考慮しているのだ。すべての「関係」を考慮すれば、世界から「あるもの」を切り取ってそれだけを「肯定」することはできない。このような観点からすれば、「この世界」が繰り返して欲しいと思うこと、「永劫回帰」を願うこと、それは何かを「肯定すること」の一般的な帰結ですらある。

 すべての「関係」を考慮するならば、「あるもの」を肯定するとき、「それがそうある」ために世界に存在するいかなるピースも欠けてはならなかった、そして、それを肯定するということは、それを生み出すに至ったかつての「すべて」の過程、「かつて在った世界のすべて」がもう一度回帰してほしいと願うことに等しいのだから。

 その肯定が「スピノザの神」の肯定と最も異なる点は「時間」が回帰するというところになるだろう。それはスピノザの「世界」が「神」であるのに対し、ニーチェにおいて「神は死んでいる」という差異でもあるかもしれない。

 しかし、私はニーチェは「世界の肯定」のみをそれ自体としてよいものと考えていたのではなかったと思う。ツァラトゥストラには終盤、彼が率いてきた人々が「然り」と世界を肯定するのをみて、そこに突如「否」を突きつけるシーンがあったと思う。

 考えてみたいのは、上記のように「世界のすべて」を肯定してしまうとき、人は世界を変えるなどと考えることのない、現状に甘んじる人間になってしまうだろうということだ。それはおそらくは結果的に未来を怖れ、他人と同化するような、ニーチェがあまり好まなかった人間のあり方に似通ってくるかもしれない――なんと耳の痛い言葉か…。

 ニーチェは、「世界のすべての肯定」と同時に、それに「否」を突きつけることを、極めて重要視していたのではないだろうか。「世界に否を突きつけること」、それは悪しき「関係」を切断して、異なる「関係」を生み出そうとする行為である。

 かくして、「超人」は「然り」と「否」、そのどちらか一方に偏ることがない自由な人間、定まった「形」を持たない人間の描写――それは流転する「関係」の世界の中で絶対的に「自己と世界」を肯定しながらも、他者との関係性によって自他両方のとる「形」の否定と肯定を織り交ぜて変化の中を闊達に生き延びていく、ごくありふれた普通の人間の姿ではないだろうか――でもあると、私は思っている。

 ニーチェはイエスのような「愛の人」にある種の畏敬の念を持ち、そこから何かを受け取りながらも別れを告げて、「超人思想」を作り上げたのではないかと思っている。それはただ「強者」のみを肯定しているのではなく、逆であり「いかなる状況でも世界と自らを肯定できるものが強者あり、闊達な者なのだ」というメッセージなのだと思う。それは「富や社会的な力」とは無関係、というよりもむしろ、そんなものがないまま自己と世界を肯定できるほうが「強者」にほかならず、しかも、ニーチェはそれと反する「弱さ」についても「超人思想」で、いまここで語ったそれ以上のことを考えていたと思う。

 一応言っておくが、こう語るからといって、老子にしても、ニーチェにしても、ガンディーにしても、そのすべてをまるまる私が肯定しているとは限らない。すべてを知らないから私にそんなことはできないし、人と人の考えが違うということ、それはごく普通のことだ。それでも、いつか我流のツァラトゥストラ読解を書いてみたいと思う。

2023/4/29

アダムとイヴのいたところ、無為自然、問題の消失

 アダムとイヴが「知恵の実」を食べて「善悪」を知り、自らが「裸であること」に気づいたとき、価値と文化が生まれた、一つの「比較尺度」、一つの「問い」、一つの「問題」が生まれたと言える。文化は「比較尺度」の集合体、その文化圏に属する人々が世界を問う、その「問い方」の集合体でもある。

 これに対比して、「無為自然」や「悟り」、ガンディーの「真理」の考え方は価値と文化を捨てていく、「比較尺度」、「問い」、「問題」を最小限になるまで放棄していくことに位置づけられるだろう。追放される前のアダムとイヴのいた場所が「楽園」と呼ばれていたのだから、恐らくはその場所の幸福を――それはあらゆる文化的価値を解さない「聖愚者」の幸福であり、あるいは比較と選択の外部、つまり「関係の外部」――「創世記」の書き手は知っていたのだろう。

 それはあるいは「問題」を解決する方法は「答えを出す」ということ一つではないということでもある。「問うこと」をやめること、「比較尺度」を捨てることもまたその一つなのだ。ある種の老成がそうであるようにそれは生きていく上で重要な契機であろう。

 ヴィトゲンシュタインは問題の解決はその消失によるということで、こういったことを述べていたのではないかと思う。

 しかし、それは両義的なことだ。人は少なくとも自身の身体の「よい」と「悪い」なしには生きていけないし、かと言ってむやみやたらに「比較尺度」を生み出しそれに固執し耽溺しすぎると逆にまた何かを失うだろうから。

 その意味で、関係論はその両者を同時に含んでいる。全ては比較尺度上の情報であり、全ては情報には還元できないというその前提によって。

2023/5/6

問い、指し示すところ

 ベイトソンの見るカエルの受精卵の問い――どこ?という選択を待ち受けている状態――はハイデガーの議論と比較尺度の概念を組み合わせた先の抽象的な議論の現実への正確な反映を指摘していると言っていい。
 ベイトソンの挙げた例はカエルの受精卵という一個の生体である。しかし、私の「ミッシングリンク」の議論では、どのようなものが選択を待ち受けている比較尺度で、どのようなものがそうでないかという問いは意味をなさない。比較器、比較尺度を通して認識する私たちはあるものを認識すれば、暗に他に取りうる可能性を見ているのであり、そうしないことはできない。認識論的な立場から言っても、物理的な感覚器官を見ても、言語のレベルを見ても、私達は常に「問い」の状態で他者との関係を待ち受ける生ける比較器でもあるのだ。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb1c1565b812e

 つまり、「問い」に対する「答え」と「集合の定義」に対する「個別の要素」、「規則」に対する「事例」――言い換えると「アルゴリズムと演算者の振る舞い」でもある――の関係が「指し示すもの」と「指し示されるもの」とそれぞれ同様の関係性にあると私は言っているのだと思う。これは「「地図」と「土地」の貨幣論」で「普遍論争」と「集合の定義と要素」、「規則と事例」をパラレルに論じたことが成功していたとすれば不思議なことではない。公理の体系から個別の問題の解は、「指し示すもの」と「指し示されるもの」の階層を二つ含んでいるかもしれないが――公理-個別の問題-解という形で――同様のことは言えるのではないかと思う。

指し示すもの、指し示されるもの、スピノザの神 2023/5/4 
セルフレビュー「「違う」と「同じ」のミッシングリンク」
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n3b1786026dae

 「選択を待ち受ける比較尺度」としての「問い」と「指し示されるもの」を「示そうとするもの」としての「問い」という二つの事例は、異なるものを同じ言葉で指し示しており、用語法に混乱がでているように見える。確かにそうかもしれない。しかし、この2つは本質的には同じ構造を持ち、その違いはある種の技術的な差異を示していると思う。それをこれから示したい。

 まず「指し示す」ということは逆に言えば「指し示すもの以外を排除して選択を行う」ということに等しい。それによって、ある単数ないし複数のものが指し示される。それはつまり他と区別される単数ないし複数のものが選ばれるということだ。

 翻って「比較尺度」とは取りうる値の「集合」である。「集合」には必ず「定義」が存在する。定義のない集合というものは、私には想像することが出来ず、おそらくそれは存在しないと思う。それはつまり、「集合」はその定義によって何かを「指し示している=排除している」ということであり、そこからの「選択」は「比較尺度」そのものの条件にさらなる条件を加えて選択=指示を行っているといえる。

 このように考えれば、「指し示さんとする」ように見える「問い」と「選択を待ち受ける」ように見える「問い」が同様の構造を持っていることを示すことができる。また、さらに言えば、前者は後者よりも、経済的に洗練された形態の問答を取る可能性を開くものだということも。

 例えば「指し示さんとする」ように見える「問い」。「2×2は?」などと問うとき。そのとき、2の2倍という条件を満たすものを選ばなければならない。これは2の2倍という条件によって定義された「集合」の「要素」が何であるか、存在するかどうかを確認する作業だと言い換えることが出来る。

 では「カエルの受精卵」においてはどうか。「カエルの受精卵」はそれ自身と周囲の環境が物理的に構成している中で「精子」の進入地点という「答え」を待ち受けているのだといえる。これは、「受精卵」とそれが置かれている環境下での精子の進入(それに近い刺激)の発生という条件を満たす「集合」の「要素」があるかどうかを確認していると見れる。

 つまり、「問うこと」をその最も基本的なシンプルな形で説明するなら、様々な方法、形で「集合」を定義してその「集合」にどのような「要素」が存在するかを――それは空集合でも構わない――確認する作業だと表現できる。

 これらの「答え」が単一であるのに対し、それを「要素」という言葉で表現するのがふさわしいのは、例えば「y=x²」など、「答え」が2つ以上存在する「問い」があることを考えればわかるのではないかと思う。一般的に述べるには、そう表現するしかないのである。「答え」、「要素」が2つ以上存在する「問い」であるかどうかは、純粋に「問い」の条件によって確定する。生物の例でいえば、自然淘汰の中で生存する生物が単一でないことで示せると思う。

 さらに、前者が後者より洗練された形態であるのは、例えば前者の九九の問いはある程度の教育を受けた人間にとって、考えること、アルゴリズムに沿った演算を必要とせずに直接答えを出せる可能性があるためだ。前者の問いでは九九に慣れ親しんでいれば、「数の集合」という可能性の集合、比較尺度をいちいち思い出したりせずに「答え」を述べることができる。

 しかし、例えば「2×2」という数式の記法を知らないが、それによって何かを問いかけられていることだけを理解する一者がその問いに答えようとする場合、その一者の持つ「答え」を取り出すための比較尺度、可能性の集合は「自身の保有する情報すべて」という莫大な大きさの集合から選択しなければならない。あるいは九九を習いたての一者であれば、「数の集合」までなら想起できるかもしれない。

 このようなケースを考慮するとこの場合でも、潜在的に比較尺度、可能性の集合はさし当てられているのがわかるだろう。実際我々は「答える」とき何らかの「情報」――思い浮かべるかどうかは別として、それは事実「全ての情報の集合」から選択される他ない――を選んで提示する。

 前者、言語による「問い」は可能性の列挙を省略可能な場合のある「問い」の形式で、後者、自然の中の「問い」はそれを省略することのできない「問い」の形式であると言える。これはこのセルフレビューの最初にある「比較器」と「比較尺度」の概念の差異の曖昧さを解消するものだ。前者は本質的な「問いの条件」しか備えていないが、後者は「技術的に準備するもの」を備えているのである。

 今差し当たって「言語」と「自然」で分けてはいるものの、例えば「どこ?」という問いは「答え」の「選択肢」を「位置」に制限している。「問い」に「比較尺度」が介在するか否かは個々の「問い」、「問答」のコミュニケーションの間の関係に依存するため、その二分法は絶対的ではないと述べておく。

 ただし、情報の基本的な形式や、言語による知的な探究も可能性の列挙を行うことがあること、先に述べたように一つの「情報=選択」はとどのつまり「全情報の集合」から選ばれているということ、また「ミッシングリンク」の「ある/ない」の分別で示したように、他の項との対比なしに一つを選んでもそこに「理解」は存在しないなどの理由から、より根源的な「問い」の形式は「比較尺度」の介在する「問い」であると私は考える。

2023/5/7

指し示すところ、問い

 「選択を待ち受ける比較尺度」としての「問い」と「指し示されるもの」を「示そうとするもの」としての「問い」という二つの事例は、異なるものを同じ言葉で指し示しており、用語法に混乱がでているように見える。確かにそうかもしれない。しかし、この2つは本質的には同じ構造を持ち、その違いはある種の技術的な差異を示していると思う。それをこれから示したい。
 まず「指し示す」ということは逆に言えば「指し示すもの以外を排除して選択を行う」ということに等しい。それによって、ある単数ないし複数のものが指し示される。それはつまり他と区別される単数ないし複数のものが選ばれるということだ。
 翻って「比較尺度」とは取りうる値の「集合」である。「集合」には必ず「定義」が存在する。定義のない集合というものは、私には想像することが出来ず、おそらくそれは存在しないと思う。それはつまり、「集合」はその定義によって何かを「指し示している=排除している」ということであり、そこからの「選択」は「比較尺度」そのものの条件にさらなる条件を加えて選択=指示を行っているといえる。

問い、指し示すところ 2023/5/6

 逆に言うならば、このようなことは「指し示し」そのものが本質的に「問い」としての性質、その「指し示されるもの」との対応が「問答」としての性質を有していることを示唆しないだろうか?言い換えれば「指し示すもの」と「指し示されるもの」の間にはコミュケーション、命がけの跳躍が介在しているということを。

 例えば「四角い三角」という言葉――指し示すもの――はどのような意味があるのか?という議論があると思う。それは文法上は何ら問題のない言葉であるが、それに対応する「指し示されるもの」は存在しない。

 ここに「問答」が発生しているのである。つまり、「四角い三角」と言われ、あるいは想起し、それを解釈するとき、私たちは他者から、あるいは自身から何かを「問」われており、その「答え」を探し出しているのである。「四角い三角」という定義の集合を思い浮かべ、ある種特殊なそのあり方としてその言葉を解釈しない限り、それへの回答は「空集合」となる。別の、私たちが日常的に使用するような「正常な」言葉であれば、その「問い」に対応する「要素」を見出すかもしれない。

 我々は「指し示すもの」と「指し示されるもの」が対応を持つ生活が「正しい」と思いそれに「慣れている」だろう――さもなくばあらゆるコミュニケーションができないのだから――、あるいは「慣れ」とはその対応が定着して意識しなくなるということにほかならないだろう。だから、私たちは「指し示されるもの」、「選ばれるもの」が存在しない「指し示すもの」を見たとき、ある種の困惑を感じる。

 このようなことは言葉の意味が本質的に集合と関わるものであり、それ自体が一つのコミュニケーション、「問答」の結果であることを示唆するよう思うが、そんな話はもうあるのだろうか。車輪の再発明であれば無知を恥じるしかない。

「集合」とその「要素」、参照可能性、ソシュールと指し示すもの

 例えば「四角い三角」という言葉――指し示すもの――はどのような意味があるのか?という議論があると思う。それは文法上は何ら問題のない言葉であるが、それに対応する「指し示されるもの」は存在しない。
 ここに「問答」が発生しているのである。つまり、「四角い三角」と言われ、あるいは想起し、それを解釈するとき、私たちは他者から、あるいは自身から何かを「問」われており、その「答え」を探し出しているのである。「四角い三角」という定義の集合を思い浮かべ、ある種特殊なそのあり方としてその言葉を解釈しない限り、それへの回答は「空集合」となる。別の、私たちが日常的に使用するような「正常な」言葉であれば、その「問い」に対応する「要素」を見出すかもしれない。
 我々は「指し示すもの」と「指し示されるもの」が対応を持つ生活が「正しい」と思いそれに「慣れている」だろう――さもなくばあらゆるコミュニケーションができないのだから――、あるいは「慣れ」とはその対応が定着して意識しなくなるということにほかならないだろう。だから、私たちは「指し示されるもの」、「選ばれるもの」が存在しない「指し示すもの」を見たとき、ある種の困惑を感じる。
 このようなことは言葉の意味が本質的に集合と関わるものであり、それ自体が一つのコミュニケーション、「問答」の結果であることを示唆するよう思うが、そんな話はもうあるのだろうか。車輪の再発明であれば無知を恥じるしかない。

指し示すところ、問い

 例に出すなら「四角い三角」ではなくて、「丸い三角」だったか。ろくに知りもしないトピックに首を突っ込んであほらしいことを言ってる感もあるが、ハナから素人の議論なので、何か期待しても仕方がないことだ。これらは「意味」を説明しているというよりは「指し示す/示される」とは何かを説明しているのかもしれない。これについて、違和感を覚えたところがあったので考えてみようと思う。「ミッシングリンク」ではこう言っている。

 また、ここで意味についての話もしておこうと思う。私はある言葉や文の意味は感覚器官、記憶、そして他の言葉や文などの無数の情報に対する参照可能性が統合された、一つ一つ区別されるヒトの持つ情報のある種の統合体であると思っているののの、はっきり言って、私には意味なるものの正体、その全貌はよくわからない。

知っているということ、知るということ、情報
「違う」と「同じ」のミッシングリンク
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb5e88710eff1

 「集合」の定義としての「指し示すもの」、その「指し示されるもの」としての「要素」という考え方と、「言葉の意味とは参照可能性の統合体」ではないかという考えはいかなる関係にあるだろうか。

 例えばおそらく、ある程度日本での生活に慣れた日本語を解する者であれば「傘」という言葉を解する。すなわち、「傘を取ってきて」と言われればどこからから取ってくることができるであろうし、それは「雨を避けるためのものだ」などと説明することが出来るだろう。言語はいわば言語上の「関係の体系」と、物理世界に接続された他の感覚器官の「関係の体系」の両方を結びつけ、「選択させ」「関係を紡ぐ」ことができる。

 だから、それらは関係の観点から見れば区別する必要はなく、「集合の要素」としての考え方と「参照可能性」という考え方は可換なのかもしれない。ある場に「傘」が存在しなければ「空集合」であり、「指し示し」、「参照」が失敗したとみることも不可能ではないだろう。逆に「丸い三角」もまた「参照」を失敗して、「空集合」となってしまうと見れる。突き詰めて言えば、それは「選択」の「可否」の問題ということになるだろう。

 ちなみに、このような「指示」の考え方、「集合」の考えかたからは、おそらくはソシュールによる指摘「言語が項と項の差異性」において存在するということと矛盾なく、「指し示す」ということを定義できると思う。定義のない「集合」が存在しないということが正しければ、それは常に他の項との差異性において存在するということだから。

2023/5/9

指示と対象の分離関係、芸術、欲望の条件

 我々は「指し示すもの」と「指し示されるもの」が対応を持つ生活が「正しい」と思いそれに「慣れている」だろう――さもなくばあらゆるコミュニケーションができないのだから――、あるいは「慣れ」とはその対応が定着して意識しなくなるということにほかならないだろう。だから、私たちは「指し示されるもの」、「選ばれるもの」が存在しない「指し示すもの」を見たとき、ある種の困惑を感じる。

指し示すところ、問い 2023/5/7

 「指し示されるもの」が存在しない「指し示すもの」というのは、思えば芸術の世界に踏み込めば、当たり前に存在するので「困惑する」かどうかは、「コンテクスト」によると思った。すこし面白い?ことを考えたので記しておく。

 例えば「マンガ」などであれば、「指し示されるもの」はノンフィクションでなければ「存在しない」と言い切れる。しかし、「指し示すもの」としての「実写の映画」の内容は「指し示されるもの」として実在するのか?という問いはちょっとした頭の体操をしなければならない。

 ある種の論理階梯を考えれば、解決する。その中の「個物」や「俳優」は「指し示されるもの」として実在するが、その組み合わせによって紡がれた「物語」などは「指し示されるもの」として存在しない。映画やドラマは「実在するもの」だけを使って「実在しないもの」を作るという行為であるところが、改めて考えると不思議なことをしていて、面白いと思った。

 このような、「指し示されるもの」が存在しない「指し示すもの」はごく日常的にあるというか、極論でいえば日常のすべてはほぼそうだと思う――なぜなら「五感で感じるすべての世界」は「ものそれ自体」ではないのだから。

 しかし、それはあくまで「極論」でしかない。「指し示すもの」と「指し示されるもの」の対立は絶対的なものではないからだ。例えば「私が先に言った「マンガ」」と書けば、「マンガ」はそれ自体「指し示されるもの」の存在しない「指し示すもの」であるが、この言及で「指し示されるもの」となっている。この対立は絶対的なものではないことは注記したい。

 さらには、指示と対象の分離関係は「欲望の条件」ではないかと思った。欲望の対象、「ありうるがないもの」を見るためには「指し示されるもの」がまだ存在しない「指し示すもの」が私たちの認識にあることが必須であるためだ。「困惑」どころか、本当にありふれていたかもしれない。

2024/1/20

問い、関係

 「問いの対象」を比較器にかけて、取りうる解の集合としての比較尺度のなかから一つないし複数の要素を取り出す、これが比較行為の概略である。定義の区別として、私は解の集合を比較尺度と呼び、解を出力する過程を指すときに比較器、その解を出力することを行為として見るとき比較行為と呼んでいる。比較器での処理過程がある一者にとって習熟されていて簡易であれば、慣用的に比較尺度をあてるという表現をしてもいいのではないかと思う。
 以上の議論を踏まえると、「問うこと」は比較器を、あるいは簡略的に見るなら比較尺度を「問いの対象」に対して当てることであると考えられる。つまり、正しい「問い」には、「問いの対象」に対して、その次、あるいは次の次…の比較器や機能に投入できる、適切な解の集合、比較尺度をもたらす比較器を当てるということが、必須となる。次の比較器、機能で使用できるということが「正しさ」や「適切さ」を決めるのだから。
 ハイデガーが『存在と時間』で極めて慎重に「現存在」という概念を使用したように、未知の領域で適切な比較器を創造することや比較尺度を探り当てるのはかなり難しいことであることは注記したい。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nb1c1565b812e

 問うことが「比較尺度」を指し当てることに喩えられるというのは、それは言い換えれば、問うことが「関係」を探り当てる行為だということを述べている。「関係」は比較尺度(答えの候補の集合)からの選択の連動であるから。

 そして、一般的に未知の分野の「問い」はただ単に比較尺度から選択するだけでなく、適切な比較尺度そのものを選択する必要が存在する。つまり、要素としての答えを探り当てるだけでなく、どの答えの集合を使用するのか、という階層が一つ上の選択を必要とする。

 何かと何かはどのように関係しているか、これからどのように関係するのか、何と何が関係しているのか、何と何が関係していくのか、それらを問うことが問いのプリミティブな基本的構造であると言える。

2024/1/25

問い、意味

 問うことが「比較尺度」を指し当てることに喩えられるというのは、それは言い換えれば、問うことが「関係」を探り当てる行為だということを述べている。「関係」は比較尺度(答えの候補の集合)からの選択の連動であるから。

2024/1/20
問い、関係

 意味は選択と選択の間、選択の連なりにある。では、人がなにかを「問う」とき、その意味はどうなるだろうか?その時、「意味」は変容の契機にさらされる。

 「問う」とは、様々な階層の比較尺度を差しあてること、それに答えることは新たな選択をそこに付け加えることである。問答において、意味には新たな関係が加えられる。

 意味の本質が「選択の連なり」にあるなら、そこに新たな「連なり」が付け加えられたとき、変容ないし、最低でも一つ階梯が上がらざるを得ない。

 言い換えれば、人が何かを問うとき、その意味は変化するか同一のままか、「比較と選択」にかけられる。そして、その問いに新たな答えを出したとき、新たな側面(比較尺度)との関係が付け加わった一つ上位の意味が生まれる。

 関係を紡ぐということ、問うということ、それは何かの意味の変容の契機であり、それにさらされるたびに対象の意味は「比較と選択」にかけられる。

 あるものの意味は全体と部分との関係のなかに存在する。両者の意味はそれぞれその関係のなかにある。逆に言えば、両者を切り離せばそれぞれの意味はまた変容の契機に晒される。

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