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『一九八四年〔新訳版〕』 ピンチョンの解説について

※『一九八四年』の結末に触れている記事です。

『一九八四年』は英国において読んだフリをしてる本ランキングで堂々のベスト1らしい。やっぱり人間見栄を張りたくなる生き物で、それは「読書」という文化が一般的に浸透している国なら大体どこでも共通にある感覚なのだろうな、と思う。だって日本で同じような集計を取ったら『こころ』や『人間失格』が上位に来ることは予想できるもんね。読んでいることがいわば「ファッション」と化しているというのは、この『一九八四年』という小説の中身を模したジョークみたいに感じて面白いのだけど、そのせいでちゃんと内容を理解しきれていない人も多そうだ。

1949年の出版以降、社会が変革するたびに何度もブームが起こり、模倣作品、論文、映像作品も数多く出回るという文学史に名を刻む小説。全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描き、後続作品への影響は計り知れない。日本でも過去に何度かブームになっており、村上春樹の『1Q84』が出版されたときや、2016年にアメリカ大統領がトランプになったときも話題となり、最近だとコロナ禍まっただ中の2020年くらいにも軽く流行っていたのを記憶している。

いきなりだが、この小説の結末を話そう。主人公ウィンストン・スミスは様々な拷問の末ビッグブラザーに屈し、ジュリアを裏切り、かくして情熱と暴力と絶望に満ちた物語は救いの無い形で幕を下ろすのでした。ちゃんちゃん。……これが私が初めて『一九八四年』を読んだときに受け取った物語。

でも早川書房の文庫版に収録されているトマス・ピンチョンの解説を読むと、その悲惨な結末のイメージはだいぶ印象が変わってくる。

小説の終わりには「ニュースピークの諸原理」という学問的な付録がある。トマス・ピンチョンの解説によると「ニュースピークの諸原理」は一貫して過去形で書かれており、まるでこの付録が1984年よりずっと後の、ニュースピークが過去の遺物となった時代に書かれたもののように読めるというのだ。つまり、この文章が書かれていること自体が、ビッグ・ブラザーによって形成された社会の終わりを意味し、いずれその支配体制が破られることを暗示しているのだとピンチョンは喝破する。そのようにして読むと、救いのない悲惨なバッドエンド、という印象から一変して(ウィンストンとジュリアが直接救われないことは変わらないにしても)、かすかな希望を感じる小説となる。

さすがはピンチョン、目が覚めるような明快で面白い解説だ。これが正しい読み解きなのかどうかは置いておくとしても、表面だけをなぞっていては見えない部分が小説にはあるのだと実感する。私個人がこの小説を初めて読んだのはずいぶん昔で、しかもテリー・ギリアムの映画『未来世紀ブラジル』を観た後だったこともあり、「だいたいこんな話なのだろうな」と何となくのイメージがはじめから自分の中にインストール済みだった。そしてそのイメージは大きく覆ることが無かったのだけど、ハヤカワ文庫に収録されているこのピンチョンの解説を読んで以降は「全体主義の支配体制から脱却する希望の物語」という印象になっている(というかもう少し突っ込んだ話をすると、「支配」というより「言葉」による思考の規定についての話なのだけど、軸がぶれるので今回は割愛)。”読んだフリ”も”読んだつもり”も結構似たりよったりで、「読む」という行為はある面でどうしようもなく一方通行にならざるを得ない。だからこのように私たちは常に「誤読」をする可能性があるのだろう。「誤読」自体はその作品にとってプラスにもマイナスにも成りえるものなのだけど、自分が「誤読」をしている可能性があることを意識することはとても大事なことだ。そしてそのことに自覚的であることが小説との、そして作者との誠実な向き合い方だと私は思う。

コロナ禍の2020年ころに書いた文章……を掲載するつもりだったのだけど、noteに載せるにあたって色々手直ししていたら元の影くらいしかない文章になっていた。まあこれはこれでいいか。あー、というかピンチョンの小説まだまだ積んでるのたくさんあるんだよなあ。いい加減読まないと。

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