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『ノルウェイの森』再読

学生のとき以来久々に読んだ。
むかしの私はこの小説に対してどんな感想を抱いていただろう。主人公のことをどう思っていただろう。直子と緑どちらに惹かれていただろう。あまり上手く思い出せない。ただ、やわらかな毛布に包まれている感覚と、冷たい夜風に独りで耐えているような感覚と、そんなふたつの相反する感覚を知り、ラストにおいて投げ出されたような気持ちになったことは覚えている。

村上春樹の小説を読んだせいでいつもより、ポエミーな出だしになってしまった。まあこういう風に読んだ本から影響を受けて感想を書くのも読書感想の面白さのひとつなのだろう。というわけで、やれやれ、僕は感想を書きだした。

小説全体を「膜」のようなものが覆っている。たぶんそれは主人公の主観で語られた話だという点や、現在進行形ではなく「回想」という意味合いをこの小説が持っているからだ。
主人公である「僕」=ワタナベ君は37歳の"いま"飛行機の中で過去のことを思い返す。17歳から20歳のころの自分にあった出来事を。
そこであったひとつひとつの出来事は、ひとつひとつが何かしらの意味がありそうにも見えるし、大した意味のない出来事の羅列のようにも見える。言ってみればこれはワタナベ君の独り語りであり、物語というよりはエッセイに近いのだ。小説や文学という手触りよりも、キラキラとした春の景色や、寒々しい冬の記憶を、「こんなことがあったんだ」と聞かされているような、そういう語り口。だから必ずしも登場した人物がそれぞれ何らかの重要な役割を持っているわけではなく――例えば最初の数章でのみ登場する突撃隊とか、永沢さんの恋人であるハツミさんとの一夜の出来事とか、意味がありそうで別にない(意味を読み取り、意味を与えることは可能だろうから反論はあるだろうけど、私には”必然性”は感じられないものばかりだった)。しかしそのリアリズム小説のような書き方だからこそ、読者それぞれに多様な受け取り方を許し、ワタナベ君の一人称「外」で起きていた出来事・感情についても想像の余地ができる。その点で、必然性のないエピソードを適当に羅列しているように見えて、実際には周到に、精巧に形成された作品だ。

にしてもこんなにセックス、というか「性」にまつわることばかり書かれた小説だったっけ。むかし読んだときとはやっぱり印象が異なっている。さらにいうと、エロスのシーンはもっと哀しさに満ちた場面だと当時の私は感じていたはずなのだけど、いま読んでみるとむしろそれ以外の感情——「可笑しさ」とか「いじらしさ」とか「恥ずかしさ」みたいな感情が湧き上がってくる。
ひどく美しく、とても切ないシーンに感じられていた、草原で直子に手で抜いてもらうシーンは、痛々しく感じるとともに「何してんねんこいつら」という冷めた視点を持ってしまったし。
永沢さんとハツミさんと一緒に夕飯を食べた後、ワタナベ君が放った「いいですよ、僕は。食事はうまかったし」という台詞は、初読のときはいたたまれない気持ちになったはずなのに、いまはコミカルというか間が抜けて見えてしまう。
なんというか自分の視点が変わっている。青年のワタナベ君に自分を同一視してどこかで共感しながら気持ちよく読んでいたのに対して、いまは、そんなかつての自分を懐かしく感じるような、どちらかと言えば飛行機の中のワタナベ君の視点の方に寄っている。年をとったのだな、と思う。
そしてそれはこの小説の主題となる「生と死」「人間関係」「感情」「喪失感」と繋がる(てか無理やり繋げて書いてみる)。
わかりやすくまとめるならこれは「複雑な感情」と「コミュニケーション」の話なのだ。誰かと出会い、会話をする。会話の先には常に性行為に関する何らかのイメージがあり、ときにそれは実現して誰かとセックスをしたり、誰かに性欲を処理してもらったり、ひとりでマスターベーションをしたりする。基本的にワタナベ君が女性と会話するとき、ずっとそんな「性行為」への”予感”が『ノルウェイの森』にはある。村上春樹特有の、主人公に対して異常に理解と献身と愛情のある女性ばかりが登場し、気持ちよさと気持ち悪さを同時に覚えるのだが、ここで私が言いたいのは(感じるのは)、本小説において性行為はイコール「生」を象徴する行為なのだということ。そして性行為の前に必ず「会話」があることから、わかりやすくワタナベ君が会話する量が多い相手ほどその人物は「生」の象徴となる。つまりは緑のことなのだが、対して身体の関係を一度だけ持ち、その後精神病院に行ってしまう直子とは、会話の量も圧倒的に少なく、手紙でさえ交流は上手くいかない。直子とは「死」の象徴なのだ。しかしだからといって、どちらが良いとか悪いとか、そういう安易な方向には話は進まない。
小説内の台詞にある通り、

「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」

それは私たちが死にながら生き、死にながら年を取り、死にながら誰かと繋がっているということ。つまり生きるとは「失う」ことなのだと私はこの小説を読んで思う。
人は、さまざまな経験を通して自己を形成し、そうして積み重なって出来たものが「いまの自分」だと思っている。そんな風に自分の存在を自覚している人が大半だ。しかしそうではない。『ノルウェイの森』のラストシーンで電話ボックスにとらわれたワタナベ君のように、人は経験を通して、誰かの生や、誰かの死にふれることによって、”自分をどこかに置いてきている”のではないだろうか。
置きざりにした自分を取り戻す方法は無い。得た経験を無かったことにすることが出来ないのと同じくらい、それは不可能なことだ。できることと言えば「失ったことを思い返す」ことくらいなもので、私たちはいつも自分を「すり減らし」ながら生きている。
その、「失くした瞬間」を描いて物語は幕を閉じる。37歳の「僕」に時間が戻ることは無い。今と過去を繋げてしまった時点で『ノルウェイの森』は敗北する。描こうとしたものを描けなかったという宣言にしかならないから。
そんな、誰しもが知る「喪失感」についての物語。失くした先にしかいまの自分が無いのだという圧倒的な生と死についての実感。ラストの電話ボックスにはそのような、かけがえのない「何かを失ってしまった」という感覚が、投げ出されたその先に「いまの私」がいるのだという感覚が、そのような"実感"がある
……ように思う。



なんか思ったより長くなってしまった。しかも感覚的な言い回しが多くなった気がする。きっと村上春樹のせいだ。
たぶん人によっては全く逆の感想を抱いたりするのだろう。実際、かつての私といまの私はものの見方が若干違っていて、その差異がこの感想にも反映されている。その意味で、年齢・性別・国籍・精神状態で感想が違ってくるであろうこの小説は、やはりとても「文学的」だ。

でも同時に、こんな感じのエモーショナルな感想はビリビリに破いて今すぐゴミ箱にポイした方がいい気もしている。たぶん『ノルウェイの森』の悲劇は(あえて悲劇と言わせてもらいます)、マスターベーションについて緑に報告するワタナベ君を見て「うははは、赤裸々すぎるだろ!」と笑ってくれる読者があまりにも少なかったことにあるんじゃないか。そういう読み方でぜんぜんいい気がするし、そのバカっぽさみたいな部分まで高尚なものとして捉えられてしまうのは、この小説にとって悲劇なんじゃないかと、そんなことを最後に思う。
やれやれである。


今回の記事は相互のr_asatukiさんの感想に触発されて書きました。初読の新鮮な気持ちが、感度の良い視点と言葉で綴られています。再読の機会をありがとうございました。よろしければこちらの記事もぜひ。




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