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【小説】神社の娘(第20話 葵、橘平を大いに利用し、橘平、友達の話をする)

「冷静冷静、いつも通りいつも通り、笑顔笑顔、デカい声デカい声…」

 向日葵は通勤中の車内で呪文のように唱えていた。眉間に皺寄せ、苦い顔。呪いをかけているようだ。

 土曜日、葵に抱き寄せられてしまった向日葵。職場の前の席に座る彼に、おかしな態度を取らないよう自分を落ち着けるのに必死だった。無視はお互いに利益のないことで、今回は「いつも通り」を演じようと昨日の就寝前に決めたのだ。といっても、全く寝つけず、朝まで考え続けてしまったのであるが。

「主演女優賞、助演女優賞…」

 彼女はずっと演じてきた。自分の内面をさらさないように、弱さをみせないように。

 特に「なゐ」の消滅を決めた時からは、調べていることや封印を解こうとしていることを誰にもばれないよう、より演じている。

 今日だって、うまく演じられるはずだ。向日葵は自身に強く言い聞かせる。

 呼吸で心を落ち着けながら向日葵が役場の玄関を入ると、葵と兄の樹が作業服を来て早速出動するところだった。

「え、もう行くの!?」

 樹は葵よりもさらに背が高く、アメフトやラグビー選手のようなしっかりした体格。ぼろぼろの役場が特撮のミニチュアセットに見えるほどだ。

「おはよ、ひまちゃん!遅刻してるのはそっちよ」

 向日葵並みの大きな声で超低音、字に起こせば柔らかそうな喋り方なのに、実に漢らしかった。

「じゃあねん」

 二人は早足で現場へ向かっていった。

「ちこく…しちゃったのか、私…」

 落ち着くことに気を取られ、向日葵は時間を失念していた。もう始業から15分経っている。走って課へ向かった。


◇◇◇◇◇

 

「あら向日葵、遅刻なんて珍しいわね」

 席に着くと、さっそく桔梗がそこを指摘した。

「すいません、最近あまり眠れなくて…」

「疲れてるのかもね、無理しないで。寝る前にお風呂入るとか、あったかい飲み物飲むとか、工夫してみたら?」

 桔梗はあくまで優しく注意を促す。

 ところが課長は、「ほんとだよ。体調管理しっかりしてよね?社会人の基本じゃん?シゴト忙しいんだよ?定時で帰りたいよね?え?」と、詰めてきた。

 遅刻に関しては100%自身に非があるのに、課長に指摘されると拳が飛びそうになる。向日葵はいつも抑えていた。

 体調管理が社会人の基本であるなら、その腹と糖尿予備軍はいかがなものか。と言いそうにもなるが、これも抑える。

「そうそう、今日の午後から新しい子来るんだ。みんな仲良くね。伊吹君、面倒みてあげて」

「分かりました。誰が来るんですか?」

「それがさ、誰かまで教えてもらえなかったんだよね~。使える子だと定時に帰れるなあ」

「一体誰が来るんでしょうね。男子か女子か?強いのか?」

「ここに配属されるくらいだから、そこそこじゃないですか。ほんと、使えるといいな」課内一の小柄、二宮蓮が答える。

「てことは、誰かは限られてくるわね。あのあたりかしら」

 午前中いっぱい、葵と樹は駆除に追われ役場へ戻ってくることはなかった。新人の話題などもはさみながら、向日葵は「いつも通り」を演じる必要なく過ごすことができた。

 午後の始めのうちは、新人のこともあり課内は騒がしかった。

 また向日葵は課長から雑務もドッサリと頼まれ、忙しくて葵の事を気にする暇もなかった。やっとトイレに立ち、手を洗っている時にふと、「忙しいのもたまにはいいな…」彼女は思ってしまった。

 仕事に追われていれば、プライベートに思考を割く必要がない。

 でも結局、忙しさは今日をやり過ごす手段。この気持ちを解消する根本的な方法にはならないのだ。

 向日葵は水玉模様のタオルハンカチを握りこみ、課に戻ったのだった。

 

 今日はもう、葵と関わる事はなさそうだと思った矢先。

 夕日が挨拶する時間に課長が感知した。伊吹と樹は新人とともに駆除、桔梗は他の仕事があるため必然的に外された。

 残るは蓮、向日葵、葵。しかし、

「蓮君は!?なんでいないのー!?」 

 ずるがしこい蓮は、課長が感知したことを「感知」し、どこぞへと逃げていた。必然的に残り2人。

「相変わらずクズね。向日葵、今日、残業になっちゃうかもしれないけど…」

 向日葵は葵との仕事が気まずい以前に、押し付けられた雑務を消化しきれていなかった。桔梗の言うように、今日は残業決定である。

 また出現場所は東南地域。北西地域にある役場からだと正反対。単純に遠かった。


◇◇◇◇◇

  

 現場まで、役場の白い乗用車で向かう。運転は葵だ。

 車内は終始、無言だった。

 「あのこと」について、どちらも触れない。ラジオから流れる男女のパーソナリティのお喋りのおかげで、この場が保たれていた。

 向日葵は運転中、好きな音楽を流すタイプだ。ラジオから最新の音楽も流れてくるけれど、それよりも雑談の方が、気まずさを中和してくれていた。意外とラジオもいいかもしれない。そう思った向日葵だった。

 現場は遠かったけれど、妖物自体はそこそこに手ごわい程度。仕事自体は簡単に終わった。

 山の中はすでに暗く、向日葵が懐中電灯を点けている。

 葵は刀を鞘に納め「向日葵」と呼び掛けた。

「何でしょうか」

「…土曜日は、その…」

 次の言葉がなかなかでてこない葵を、向日葵は懐中電灯で照らす。

「早く言いなさいよ何」

 まぶしくて顔を逸らす葵を、向日葵は逸らした方向から照らす。また逸らした方向から照らす。執拗に照らし続ける。

「やめろそれ!」

「言わないからでしょ。土曜日は何?」

「も、もしかしたら、あれも向日葵を怒らすかもしれないと思って、確認を……」

 向日葵は懐中電灯を自分の顎の下に当てる。

「確認?」

「また無視されると困るから。怒らせたなら、謝らないと」

「怒らせるかもって自覚あるなら、しなきゃいいでしょ」

「…誰も見てないからいいと思ったんだ。それで……怒ってる?」

 手をぶらりとさげ、懐中電灯の明かりを下に向けた。

「別にあれくらいじゃ怒りません。だいじょーぶです」

「なら良かった」

 そう言って、葵は向日葵を抱き寄せた。彼女はもちろん抵抗した。

「言ったそばから…!!」

 本来の彼女の力なら、葵の腕から逃げることなど簡単だ。「私が葵を片手に抱えて逃げまくって」と吉野たちに話していたが、あれは嘘ではない。それくらいできる。それなのに、どうしても、本来の力で抵抗できなかった。

「…誰も見てないよ」

 確かにここは、村人の立ち入り禁止エリア内。風や草木のそよぐ音、鳥や野兎たまに害獣…そんな薄暗い山の中。彼ら以外にヒトはいないのだった。

 葵の体温は心地よく、これ以上距離感を崩されないように踏ん張れるのか。向日葵は自信が無くなってきていた。

 彼女らしくないか弱い声で反抗する。

「誰も見てないときの態度が、普段出ちゃうんだよ。葵、だから…」

 どうも、橘平と出会ったあたりから、向日葵も葵も調子が「狂い」始めているような気がしている。

 葵がさらに抱きしめてきた。その腕の締まった瞬間に、向日葵は橘平が「葵と仲直りする」お守りを書いたことを思い出した。

「そういうことか、きっぺー…!!」

「え?橘平?」

「きっぺーのバッカヤロー!!こーいうことじゃなーい!!」

 そういって葵の腕を思い切りはがし、向日葵は走っていった。

「また橘平君!?なんなんだよアイツ!!」

 葵も全速力で走り、向日葵を追いかけた。車のキーは葵が持っているわけで、逃げることはできないが。

 駐車していた場所につくと、向日葵はドアハンドルに手をかけ、座り込んでいた。葵はしゃがんで、彼女に問いかける。

「どうしたんだ、いきなりまた橘平君って」

「ゆう、じゅつ…アイツに有術、使われたあああ!!!私も葵も術にかかってたんだよ!!」

「何言ってんだ、かけられた記憶無いぞ」

「土曜日!!手にお守り書いてもらったの、見てたよね?」

 葵はうなずく。

「アイツ、書いた時に言ってたんだよ。『葵さんと仲直りできるように、お守り書きました』って!!」

「橘平君の有術は、トラをとめたやつだろ。関係ないじゃないか」

 ドアハンドルにかかっていた手は地面に落ち、向日葵は草を掴む。

「でも、そう考えないと説明がつかない!だっておかしいじゃない!葵が私の事抱きしめるのも、私が抱きしめられたままなのも!!いままで指一本、近づかな」

 突如、葵が爆発したように笑い始めた。大きな口を開け、大きな声で、腹を抱えて笑う葵。こんなにも感情が解放された葵を、向日葵は初めて見た。

「何がおかしいのよ!?」

「俺、橘平君の事、大好きになったよ」

「いきなり!?意味わかんない!!」

「いいじゃないか、その有術。意味はわからんけど、俺みたいに『破壊』しかできない力なんかより、よっぽど使える」 

 葵は橘平の有術だとは思ってはいない。少年の有術は妖物をある一定のエリアに踏み込ませない、そのようなものであると考えている。

 向日葵のことは自分の意志。けれど彼女がそう思っているならば。

 葵はボストンメガネを外し、「俺は術にかかってよかったよ、向日葵」と彼女に顔を寄せた。

 今日だけは、すべて術のせいに、橘平のせいにできる。

 存分に、橘平を言い訳に使わせてもらう葵だった。

◇◇◇◇◇

 祖父が渡してくれた古い本。これの解読のために、今夜はみなで葵の家に集まることになった。

 昨日、向日葵が八神家まで迎えに来ると連絡があった。橘平はそれまで、友人から借りた漫画を自分の部屋で読むなどして過ごしていた。

 玄関のチャイムが鳴った。

 向日葵がやってきたのだろうと、橘平はスマホと財布を持って部屋を出る。階段を降りていると、「ぎゃー!!」という母の声。驚いた橘平は急いで玄関に向かった。

「どうしたの母さ…」

 玄関に立っていたのは葵だった。

「迎えにきたぞ」

 自分が言われた訳ではない。わかっているのに、実花はその一言で卒倒しそうになった。


◇◇◇◇◇

 

「なんで葵クンが迎えに来るって教えてくれなかったわけ?!メイク落としちゃったじゃない!髪もぼさぼさだし!もー!あんぽんたん!」

 実花は「ちょっと息子の準備があるので」と葵には車に戻ってもらい、またしてもすっぴん、そしてくたびれた私服をみられた屈辱を橘平にぶつけた。

「俺だって知らなかったんだよ!」

「うわあああ、ジャケットかっこよすぎい!!私も迎えに来て欲しい!!きっぺーが羨ましい!!」

 玄関マットの上に四つ這いになり、実花はどんどんと床を叩く。ちなみに、父は風呂、弟は自室にいるが、橘平は聞こえているのでないかと感じた。

 母の気が済んだところで、橘平は庭に出て、葵の黒の乗用車に乗り込んだ。

「向日葵さんが迎えに来る、って聞いてたんですけど」 助手席に座り、橘平は早速尋ねた。

「桜さんと飯作ってるんだけど、ちょっと残業して時間がな。だから俺が代わりに」

「はー、そうですかあ…」 

葵と二人きりは初めての橘平。無意識の緊張のためか、シートベルトを締めるのに手間取る。見かねて、葵がバックルに差し込んでくれた。

「…あ、ありがとうございます…」

 仕事が終わってすぐ来たのだろう。葵は見慣れたカジュアルな私服ではなく、黒っぽいジャケットにYシャツ、薄いグレーのスラックス。髪もちゃんと梳かしている。今まで見てきた彼はよく言えば自然な、悪く言えば起き抜けの無造作感だった。服装のジャンルが違うだけで、見知らぬ人と会っている気分になる。

 一方、橘平といえば。上は学校のジャージ、下は学ランのスラックス。普段着よりもダサいかもしれない。

 余談だが、実花は「ネクタイも見たいわ…」と呟いており、息子は胸やけな気分だった。ただ、母のつぶやきも分からなくはなかった。真に見てくれの良い人は、同性からも異性からも何か想像させるのである。「メガネを取った素顔も…」とも言っていたが、「それは俺みたぞ」とちょっと自慢気な気持ちになった。橘平としてはサムライ姿が見たい。

 車が八神家を出た。

「すまんな、本当は金髪の隣が良かっただろうけど、しばし我慢してくれ」

 葵は運転しながら淡々と話す。おそらく冗談だ。

「び、美形の男性とのドライブデートもいい経験だと思います?!」

 意味不明なことを口走って焦った橘平であったが、意外にも葵は笑った。無表情やむっとした顔ばかりみてきたので、新鮮だった。

「面白いな、橘平君」

「お、おほめにあずかりこうえいです…」

 またも意外な葵の一言に、橘平は頭を掻く。

「帰りも送るから」

「い、いや、あの帰りこそ向日葵さんで!母さんが怒るから!!」

「俺、お母さんに嫌われてる?何か気に障るような」

 葵が言い切る前に、橘平が言葉をかぶせる。

「ち、違うんです!全然違う、むしろ逆で!」

「逆?」

「その、葵さんがかっこよすぎてですね、会う準備が……」

「よくわからん……お母さん、気は確かか?」

 自分の長所は自分が一番、分かっていないものだ。特に葵は自身の見た目に興味はないし、周りからどう見られているかもよく理解していないように見受けられる。冗談なのか本気なのか受け取りにくいときがあるし、会話のかみ合わせも間も、多少ずれていることがある。葵は良くも悪くも天然なのだった。

 きっと、向日葵も無意識に振り回されているのではないだろうか。彼女に失礼だと思いながらも、橘平はそう想像した。

「お、大人に聞いてみたいことがあるんですけど、いいですか?」

 せっかく二人きりになれたこの機会、橘平は彼から何か話を引き出せないかと考えた。

「いいけど」

「友達が…友達が、国宝級天然女子のこと好きになっちゃたんですよ!」友達は向日葵、天然は葵のことを指す。「仮にAちゃんとしますが、Aちゃんは友達の好意に気付いてないと思うんです。しかも、超もてるんです。友達は恥ずかしがり屋で思いを伝えられなくて」

 橘平は、彼を抱きしめ「今日の私おかしいでしょ?」と言った彼女を思い浮かべる。

「でもAちゃんとは仲良くしたいから、えっと…頑張って話しかけたり!その、ええと、なんとかして隙を見つけて一緒に帰ったり?はするんですけど…」ちらと、運転する葵を見やる。「Aちゃんの言葉や行動に振り回されてるっていうか。あ、どっちもすっごく優しくていい人なんです、だから二人を応援したいんだけど、どう応援すれば効果的なのか…わかります?」

 天然の人はうーん、と軽く唸り「それ、自分の事?」と逆質問をしてきた。

「え?」

「だいたい、友達のことは自分の話と相場が決まってる」

 橘平は心のなかで舌打ちし、きっぱり否定した。

「いえ、友達です。これはマジです。本当マジ真実」

 声にも、ミラーに映る少年の姿にも、本気で友を想う気持ちが伺えた。

「Aちゃんは誰か気になる人、いる?」

「…不明です。天然でなかなか読めなくて。でも、俺は思うんですよ」

 葵に少しでも何か伝わってほしい。その思いで橘平は語る。

「Aちゃんも友達のこと、嫌いじゃないって。むしろ好きだって。だから一緒に帰ったりするんですよ」

 彼が向日葵をどう思っているか、橘平には今のところ分からない。しかし、これだけ長く一緒にいられるのは、桜のことだけじゃないはずだ。

 長い長い、間があった。

「……Aちゃんも恥ずかしくて言い出せないのかもな。わざとそう振舞ってるのかもしれない」

「ふるまう…」

「着いたぞ」

 古民家に着き、話はそこで終了した。

 葵の最後の言葉は、誰かを想像して話しているようだった。自分なのかそれとも。

 玄関の引き戸をがらりと開けた瞬間、いい匂いが漂ってきた。橘平の頭からAちゃんの話は消失した。

「お帰りなさい!」

 桜が出迎えてくれた。帰宅すると大豆が嬉しそうに近づいてくる風景を連想させた。

 葵が仕事スタイルだったように、桜も私服ではない。チャコールグレーのブレザーとスカート、薄ピンクのYシャツにリボン、白のハイソックス。他校の制服をあまりみたことない橘平は、単純に珍しかった。

 向日葵がお盆に夕食を載せて、居間にやってきた。その姿はベージュのテーパードパンツにVネックの白ニット。私服からは想像できないほど、

「フツー!」の会社員だった。メイクは相変わらず濃いめだ。

「さすがに仕事じゃふつーのかっこするわ!」

「そ、そっすよね。職場で蛍光ピンクは着ないですよね」

 そのシンプルさが、向日葵のスタイルの良さを強調している。橘平は「こっちのほうが良いのに」と思ったが、セクハラかもしれない口にチャックした。

 そして本日の夕飯は、生姜焼き。柔らかく、味付けタレも絶品だった。

「う、うまい…なんだこれは、生姜焼きなのか!?」

「生姜焼きだよん!朝から漬け込んだのを持ってきたのよ。私の手にかかれば、安い肉も高級レストラン級になるのさ」

 これが生姜焼きなのであれば、橘平がいままで口してきた生姜焼きは、タダの肉醤油炒め。彼女の料理にどんな秘密が隠されているのか、興味が湧いて来た。

「今度料理教えてくれませんか!?」

「あ!私も教えてほしい。そういえば、ひま姉さんのお手伝いはするけど、教えてもらったことない!」

 料理上手の秘密。実は彼女の母が料理上手なのだ。そのおかげで、二宮家の舌は肥に肥えている。美味しいの基準が高い家庭に育ち、自然、向日葵の料理レベルは上がっていった。もちろん、母から教わったというのもある。

 しかしそれは悲劇も呼ぶ。義姉は母に「塩味が」「酸味が」「樹ちゃんの好みはね」とちくちく言われ、日々かなり苦労している。

「ひま姉さんみたいに、美味しく作れるようになりたいなあ」

「俺も!!料理の神っすね、向日葵さん」

 もしかしたら、彼らはお世辞がうまいのだろうか。などとということも向日葵の頭よぎったが、濁り無き瞳は真実を語る。

 彼女の料理は「美味しい」のだ。

「じゃあ、向日葵の料理教室開講しましょ!やろうやろう!」

 高校生たちと向日葵はハイタッチし、料理教室開講を約束した。

◇◇◇◇◇

 夕食後のお茶とともに、桜と葵が古文書を読みはじめた。

 役立たず二人は、二人用の赤いソファでこそこそ雑談しながらその様子を眺めていた。

「向日葵さん、読めないんですか?」

「いみふめー。今日は料理人だよん」

「ふーん、勉強しなかったんすね」

 ふと、真顔になった向日葵だったが、すぐにいつもの明るい笑みに戻る。

「私は頭より体を使う方が得意なの!」

「そーっぽいっすね」

「なにそれ、バカにしてるう?」

「ち、違いますよ、頭脳神経より運動神経の方が良さそうだなーって」

「聞いたことないよ頭脳神経。そーだ!」向日葵は橘平の肩を抱き、「料理のついでに強くならない?」と誘った。

「つよく?」

「そそ、武道。躰道」

「ぶどう?たいどう?」

「陸上部だっけ?走るのももちろん、逃げるってスキルには必須だけど、それに加えて身を守る方法も覚えたらってこと」

 以前に桜が、「強くなりたいなら、向日葵が喜んで教えてくれる」というようなことを言っていた。あの時はスパルタそうで怖いと思っていたけれど、実際にバケモノと向き合ってみて、逃げるだけでなく「守る」にも技術がいると橘平は実感していた。

「ほんとに強くなるには時間かかるけどもさ、基礎だけでも今、覚えといて損なしだと思うよ~。子供たちに教えてるから来れば?」

 有術のような特殊な技がない自分にできることは、桜をとにかく守ることだ。聞いたこともない武道だが、良い機会かもしれないと橘平は思い直した。

 ぱさ。

 葵が一冊目を読み終えた。次の本を手に取る。

「何書いてありました?」

「借金日記」

「借金…」

「まあ日記なんだけど、書いてあることは借金のことばかりだったから。随分、借りてたみたいだな。村中から借りてる。借りてない家はなさそうなくらい」

「あ、ああ…そうなんだへえ…」

 八神家が他の家よりも地味で財産めいたものがないのは、そんな歴史があったからなのかもしれない。子孫は先祖に思いを馳せた。

「けっこうな土地を担保にしてて『いつか取り戻せるさ』っていう楽観的な記述が多くあるけど…見る限りは取り戻してないだろうな」

「でしょうねえ。土地って言っても、ってくらいですよ。かろうじて今は山があるけど」

 桜の方もおおまかに確認し終えたようで、内容を発表する。

「こちらも日記みたい。だいたい借金の話」

「そうなんだあ…解読ありがとう…」橘平は礼をいい、桜は「じゃあ次の読むね」とまた解読に取り掛かる。

 橘平は両手をあげ、どん、とソファにもたれかかる。

「まさかのご先祖、借金まみれ」

「自分の家の事ってさ、意外と知らないもんよね。私もわかんない」

「向日葵さん本家でしょ?」

「実はね」

「二宮さんちって結構でかいっすよね。歴史も財産もいっぱいありそう」

「興味ないわ。跡取りじゃないから知らなくてOK。ねえ、料理って何作りたい?」

 と、向日葵は橘平の脇をくすぐる。ぎゃーやめてと大笑いする様子を葵は横目で一瞬見る。

「あはははは!あああ、か、かかか唐揚げ!あれを自分で作れたら最高ですー!」

 彼女はくすぐりをやめ、「おお、じゃあ唐揚げ教室開こう!買い出しからね。そーいうの大事だから。いつがいいかな~」スケジュール帳を確認した。

「スーパー行くんすか?」

「そだよん。材料を選ぶところから、私の料理教室ははじまるのよ~」

「へー、おもしろそ。料理の材料なんて買ったことないや」

「ママとスーパー行かないの?」

「たまに行くけど、野菜とか見ないし」

「見て見て!よし、いろいろ教えてあげるからね~」

 話題が唐揚げ教室の内容から、「そういやさ、バレンタインって女の子からたくさんもらったの?」「義理チョコをたくさん」とこの間のバレンタインに移ったころ、桜が「あら」と声を出した。

 もう一人の古文書読みは手を止め、桜の史料を覗き込む。

「何か見つけたか?」

「家系図なんだけど…」 

 桜は比較的近代に近い箇所を指で示す。

「ここ。幕末、明治?八神家から一宮家へお嫁に行ってるの。珍しい」

「珍しい?なんで?」

「うちね、お嫁さんは外の街から娶るって決まってて。村の女性とは結婚させないって決まりがあってね」桜は首を傾げ、「知らなかったなあ。家系図見たことあるけど、村の人は居なかったはず」

「お妾さんかもよ。そーいう人は一宮の記録には残らないでしょ、多分だけど」

「あーその可能性もあるね。へえ。まもりさん、だって」

「その人が嫁に行った時期って、妖物が凶悪化した時期と重なるな」

 妖物は過去に一度、現在のように活動が活発化したことがあった。

 その時代に、八神家の女性が一宮家に嫁、もしくは妾として入っている。

 そして現代。また妖物の脅威が増している今、八神家の少年が3人の前に現れた。

 これは偶然なのか、意味があることなのか。葵は橘平に視線を移す。

「ああ、まもりさん!聞いたことあるよ、ひいじいちゃんから」

「ちょ!有力そうな情報じゃない!話して話して」

 有術は残っていないはずで、歴史ある資産も土地もない。昔は借金だらけだった八神家。まもりとは一体どんな人物だったのか、3人は興味津々で橘平の話に耳を傾ける。

「まもりさんは一度お嫁に出たけど晩年?に出戻って、それから亡くなるまで八神家にいたんだって。ひいじいちゃんは子供のころ、その人に面倒みてもらってたんだってさ。まもりさんの書くお守りはよく効いたらしくて、幸せな気持ちになれる、心から守ってもらえるものだったって。ああ、あと手先がとても器用だったとか。なんでも作れるって」

「ふーん。そういえば、きーちゃんのお守りもほんとよく効くもんね。その人の血を色濃く継いでるのかも~あ、また書いてよ!」

「そんなに効くの?私も書いてもらおうかな。安全運転守り」

「喜んで!」

 八神のお守りはよく効く。橘平は人の役に立てたことが嬉しかった。

 確か向日葵は前回も「なんかね、いいよあれ」と話していた。ただの「おまじない」の類だと軽く考えていた橘平だが、現代まで残り続けているということは、なにがしかの効果や意味があるのだろうと思った。

 そういえば、この間のお守りは効いたのだろうか。橘平は聞きたくなった。

「ねえ向日葵さん、この間のお守りも効いた?」

「この間?ああ、あれは……」

 向日葵は橘平の呪文とその後を思い出し、顔も首も耳も、全身真っ赤になってしまった。

 その様子に、橘平は自分の口の軽さを呪った。葵と何かあったのだろう。

 しかし、すでに皆の前で質問してしまったあと。時間を戻すことは不可能だ。

「あ、あ、あの」

 向日葵は口を滑らせた少年の腕を引っ張り、そのまま部屋の外へ引きずっていった。

「…何があったのかしら…」

「便秘が治りますように、って書いてもらったんだよ」

 史料を読みながら、赤面の原因はさらっと答える。

「あ!そ、そうなんだ…それは…恥ずかしいよね…出ました、とか、まだ詰まってるとか言えないしね…」

 桜も素直なので、その嘘のような冗談のようなウソを簡単に受け入れてしまうのであった。

◇◇◇◇◇

 橘平は台所に連れ込まれ、そこで腕を解放された。

 解放と同時に土下座し、小声で「ああ、さっきはほんとごめんなさいごめんなさい」と平謝りした。

「ちょっとやめてよ、土下座って。顔上げて、立ってよ!」

 向日葵は橘平の肩と腕をつかみ、立つように促す。

「痛い!!」

「ああ、ごめんごめん…」とっさに橘平から手を離す。

 少年は恐る恐る顔を上げる。

 向日葵はまだ恥ずかしそうな顔だが、橘平の耳元でささやいた。

「効いた…と思う。変な効き方な気もするけど」

「へ、変? 大丈夫なんですか、変って」

「大丈夫だよ、変だけど」

「変でも、その…仲直りできたんですよね、葵さんと」

「仲直りっていうか、まあ、ふ」

 向日葵は「普通に戻った」、そう言おうとした。

 けれど、橘平の術中にはまり、彼女の保ってきた「普通」を壊されたのである。普通ではないかもしれない。向日葵は別の言葉に置き換えた。

「大丈夫、無視はしてないから。安心して」

 その言葉に橘平はほっとした。

「良かった。お役に立てて!」

 橘平のせいで、彼女の心は夏の台風のようにかき乱された。それを知らない少年は「あーほんと良かったあ」と心から安心しきった、緩んだ顔をしている。

 葵の行動が仲直りにあたるのか、これから彼とどう向き合っていくべきなのか。距離感をまた戻せるのか。

 真剣に悩んでいる向日葵は、橘平の頬をつねる。

「いって!」

「きっぺー、ヤカンに水」

「はい。へへへ」

「なに笑ってんのよ!!」

「笑顔は世界を救うんすよ」

 橘平は彼女の手を握ってそういうと、立ち上がってヤカンを手に取り、水を入れ始めた。

 作り物ではない、自然な笑顔。これまで外の顔を作り続けてきた向日葵には羨ましいもの。自分にはないものだと思っている向日葵だが、彼の笑顔に触れると、彼女も自然な笑顔になっているのだった。

 自然な笑顔のまま、向日葵は茶箪笥から茶筒を取り出す。

 葵との距離感、戻す必要もないのでは。そう思い始めていた。


◇◇◇◇◇

 

 夜も更け、「高校生はそろそろ帰れ」と古民家の住人から指令が下った。古文書の残りは明日以降、葵が順次読んでいくということだ。

「じゃあ、私、明日も来るね」

「いいよ桜さん、俺一人で」

「メモしたいこともあるし!」

「…わかった」

 自分の知らないところで、親友が他の友達と仲良くしている。

 あの気持ちが橘平の心に再来した。橘平も「明日来る」と言いたいが、文字が読めない。役立たずゆえに、そんな発言はできなかった。

「そかそか。じゃあ二人は明日も頑張ってねん」

 向日葵が手を振り帰ろうとすると、「夕飯作りたかったら来ていいぞ」葵がそう呼びかけた。

「はあ?専属の飯炊き係かっつーの!明日は躰道のせんせーだから来れませんよ!」

 その言葉に、橘平は自分でもびっくりするくらい、大きな声で、一も二もなく反応していた。

「それ、何時からっすか!?」

 突然の橘平の大声に、3人はびっくりした。

「それってつまり、きっちゃん、躰道のお稽古来るってコト?」

「はい!と、とりあえず体験?見学?行ってもいいですか?」

「もっちろん!」

 向日葵はぎゅううっと橘平を抱きしめた。

 葵と桜を守る仲間が増えて嬉しい。その気持ちに向日葵は気づいていないけれど、心では感じていたのだった。

「ち、ちっそくする」

「ああん、またもごめん!じゃあ、明日、また会おうね」

 橘平にほおずりし、向日葵はスキップでピンクの車に乗り込んでいった。

<参考>


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