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お百度参り・spiritual・不思議と一緒の子ども時代

前回は生きにくさ完結、愛の原点の話について
それは父でしたというお話を聞いていただきました。

今日は spiritualや不思議と自然につきあえた原点の話
また個人的なお話になりますが
よかったらおつきあいください。

お話する経緯

以前、私の仕事のひとつとして
生きにくいと感じている人に
同行することができたらいいなと考えているとお話しました。

その「生きにくい」には前回のようなことも含まれますし
例えば不思議な現象や
スピリチュアルと呼ばれるような感覚や
思ったことを口にすると
親から「そんな変なことをいうもんじゃない」などと
言われ続けて、苦しかったというようなことも含みます。

記事はこちら↓


そして前回は私にあった生きにくさを語りましたが
今回は私自身はこれは全く感じたことがなく
「我が家はそうじゃなかったから楽だった
それについては、また今度話しますね」と言って
そのままだったから
前回からの家族の話ついでに
実家での この手の話をさせていただこうと思います。

お百度参りと緊急手術

前回も少し話しました
わたしが手術のタイミングが難しい病気になった時に
母が なんとお百度参りをしてくれた
このお話からしたいと思います。

前回のお話はこちらでよかったら↓


そのご祈祷後のことです。
母は お守りかお札だったかを
入院している私の所にもってきました。
そして「これを患部にあてておいてね」といって
帰りました。

わたくし小学校2年生のことでした。

するとその翌朝です。
朝の検診にきた先生と看護婦さんが
なんだかばたばたして
「今日 すぐ手術をします」と…

そこから勿論、
病院の方は母に電話を入れてくれたようですが
家から少し遠い病院だったので
その時間には間に合わずです。

今の時代だと、誰か親族が待機していないと
いけないのではないかなと思いますが昭和のお話。
そしてタイミングが難しい手術だったので
もしかしたら、あらかじめそんなお約束をしていたのかもしれませんが。

ともあれ、そんな次第で
小学校2年生、ひとりで手術につれていかれて
ひとりで帰ってまいりました。

手術室からもどったのと同じくらいに
母が病室に来た気がしますが、
わたしの心情としては
「ご利益ありましたけど、ちょっと急でびっくりでした」
いう感じだったような記憶があります。

当の母も
本人もこれほど早く願いが聞き届けられるとは
思っておらずだったのか
「ごめんね、手術についていてあげられなくて」
とやたらと謝っていましたが
わたしとしては
別に手術に向かう時に怖いとも思わなかたので
「お母さん、間に合わないからなんか言うだろうなあ」と思いつつ
あやまられても
「お母さんが手術するわけじゃないんだし。
どっちみちひとりだから気にしなくていいのに」
などと思っておりました。

ともあれこんなことを取り上げても
信心深いといいますか
強い念を持つといいますか
色々カンの強い母なのでした。
いくらこの時代とはい
お百度を踏む人って
そうそういない気がするのですよ。

子どもは困る…見抜かれたり予知されたり

また母は、予知というと言葉が正しいかどうか
わかりませんが、いろんなことを
先に告げてくれることもありました。

ただどれも押しつけがましくない
ちょっと心に留めておくくらいのことですけれど。

勿論、もしかしたら
これは母として子どもを思った時に
通常以上に働くセンスがあるとも思うので、
実際にはどのご家庭でも
それほど珍しくはないかもしれませんが。

ただ、それは無関係な出来事でも時々起こるので
そればっかりとも思えない我が家だったのですけれど。

音声配信はこちらから聞いてください↓

例えばある日、川沿いをお散歩していました。
向こう側、かなり遠くを自転車で走っていた子どもがいました。
母はそれを見て「あ、あの子、落ちる」
と言ったのです。

わたしは小学校高学年だったと思います。
その子どもは、そんなに危ないようには
わたしの目には映らなかったのですが、
あれよあれよという間に
するするっと、川に寄って、
ぽちゃんと落ちてしまいました。

結構、距離はあったので慌てて走りよりまして
ちょうど近くにいた男性が手伝ってくれて
みんなでひっぱりあげた
そんな出来事がありました。

もしかしたら私の眼には見えなかったけれど
微妙にハンドルが川の方に向いていたとか
どこかしらその子どもの自転車を操作する感じが
あやうかったとか、
潜在知覚も含めての観察眼の賜物だったのかもしれませんが
それが鋭いのもまた不思議な力と言えるとは思います。

それから母は
なくしものがどこにあるかもわかることが多いようでした。
ただこれに関しては
無意識の働きが大きければ比較的出来ることだと
私も解る分野なので
これをお読みの皆さんの中にも
そう感じる方がいるかもしれないと思いますが。

そして例えば先の出来事があっても
それは我が家では
凄いね、びっくりだねとはならないわけです

仮にわたしが
「お母さん、どうしてあの子が落ちるってわかったの?」と
聞いたとしても、おそらく母は
「落ちると思ったから」と答えたと思います。
そんなことより「無事でよかったね」で話が終わるので
わたしもそれ以上何も考えることは少ないのです。

従ってこんな風だということは、
私が何か特殊なことをいったとしても
母が驚かないのもお解りいただけると思います。

そういえば 私は小学校の頃から
星占いに興味を持ち
中学1年生からカード占いを始めたのですが、
「ちょっと観てくれる?」と
一番初めに言ってくれたのは母だったかもしれません。

友だちより先に観た気がします。

解るはずの母が わたしのカードの
メッセージを聞いていました。

血統的なもの?

母は、もう他界しています。
母の姉や妹
つまり叔母たちがはまだ
元気でいてくれていますが。

そしてその叔母たちがまた
似たような傾向にありまして
叔母たちも、かなりいわゆるカンの鋭い人たち
夢みも活発なタイプです。

だからここでも普通のことなのです。
見えないものや伝わることや知らせなど
そんな話はも遠慮なくできます。

わたしが今の仕事を始めたことも
勿論知っていて、なにかあった時には
「ちょっとみてくれる。
もし何か観えたら教えてね」
と言ってくれます。

もう上は80代だったりしますけど
こんな風に尋ねてくれるのは
信頼してくれているようで
ありがたいことでもあります。

ということは母や叔母たちの家庭環境がまた
影響しているだろうと思われます。
そこには私の祖母、
彼女たちの母からの流れがあるはずです。

実際に祖母がどうだったかは
はっきり聞いていないので解りませんが
明治の時代の終り頃、
生まれたのは善通寺、四国香川
弘法大師が生まれたといわれてるお寺の近くで
小さい頃にはその境内で遊んだとか。

ですからわゆるお大師さん、四国遍路のような考え方や
祈る気持ちなどは日常だったようです。
そしてそこにずっといたわけではなく
大陸で暮らしたり、祖母の実家の仕事などもありまして、
本人もなかなかの人物だったようです。
ですから、もし仮に不思議なことを
何も感じない人だったしても
そんな話を聞いたら
「ああ、そう言うこともあるでしょうね」と
受け入れた人柄に思えますが。

宗教ではなく信仰として

このようにお寺にも縁が深い我が家だったようです。
でも敬虔かというと
そこは一般とかわらず
普通にお葬式や法事の時にくらいしか
お寺さんには参らないようなレベルでした。

初詣もたとえば横浜の時は
お寺は川崎大師
神社は多分鶴岡八幡宮
東にいって西にいってという立地に暮らしていましたが…
関西に越してからも神社とお寺と両方いってますし…

山や自然の中にいけばそれはそれで
八百万も含めて畏敬の念を抱くとか
祈る気持ちが当たり前ではあったと思います。

日曜学校に通わせた母の言い分

宗教といえば思い出すのがこの話ですが
先ほどお寺でお百度を踏んでいる話をしました
そんな母ですが、
わたしが小学校の3年生だったと思います。

その入院生活から復帰して
小学校生活をしているころですけど
ある日、急にわたしに言い渡しました。
「あなたもアイちゃん(仮名)と一緒に教会にいってらっしゃい」と

アイちゃん(仮名)というのは
クラス替えがあっても卒業までずっと同じクラス、
小学校の間中、一番の仲良しだった女の子です。

母が言う通り、とても優しくて可愛らしい
お淑やかな女の子で、わたしも大好きなおともだちでした。

そして彼女のおうちは敬虔なクリスチャンでした。
近くに、とても歴史が長い教会がありまして
毎日曜日にミサに通っているのです。

そして日曜日の朝、8時だったか
時間はちょっと忘れましたが
30分くらいだったのでしょうか、
その時間帯だけは子ども用の日曜ミサがあったのです。
そしてそのあとに日曜学校にも参加するのですが
このミサがまたユニークでした。

普通は多分、オルガンで賛美歌を演奏して歌うのでしょうし
実際に教会の中にも勿論オルガンがありました。
でも子どもミサの時間だけは
大学生が数人でフォークギターをもって
じゃかじゃかギター伴奏で賛美歌を歌うミサになります

そしてまた神父さんが
今思えば、多分まだお若かったと思います。
カッコイイ方で、笑いもたっぷりで
重々しくないけれど心に残るお話をしてくれて
とても楽しい時でした。

結局、小学校の間中、
私は毎日曜日にアイちゃんと一緒に出掛けました。

小学生のわたしとしては、
日曜日にいつもより少しきれいな
よそ行きのとお洋服をきて
大好きな友だちと
しかも子どもだけで出かけられて
ちょっとした朝食も教会内の食堂で食べたりして
更に、おとなや大学生と
親ぬきで話したりして…と
世界が広がって面白いわけです。

ただ母はこんな風にわたしの社会を広げるために
教会に行きなさいと言ったわけではなかったのです。

「なんで行ってみればって言うの?」と
その理由を聞いたところ母はこたえました。
「だってアイちゃんは、
とても優しくて女の子らしくて、良い子でしょ。
教会にいって一緒に同じことをお勉強したら
あなたもそうなるかなと思って」

凄い理由じゃないですか?!
結果的に、わたしは見識がひろがって
宗教とは何ぞやと
子どもながらに考えたりして
それはそれは貴重な体験となったのです。

でもこれが楽しいと思う以前に
「わかった、いってみるよ」とわたしが言えたの
前回書きました「わたしはわたしでそのままでいい」
これがあるからであって、
もし、これがなかったら
「わたしって優しくないからいけない子なのかしら」と
へこんだのかもしれませんが。

もしくは、「わたしはわたしだからいいの」という
考え方が行きすぎていて
小学生のわたしはすでにもう
結構自由すぎたのかもしれません。
だからこれでちょうどバランスを整えようと
母が思ったのかもしれませんが
真偽はわからぬままですけれど、
ともかくこの経験も
今のわたしを創っている
大切な要素であることは間違いありませんから
感謝しています。

そのままを認めてくれるおとなたち

ただ、教会の中には色々な人がいて
その中で違和感を覚えることもありました。

例えば
「マリア様がこうしてくださるから」とか
何も考えていないようにして「だから祈ればいいの」
と言っている人がいました。

その人への大いなる反発は
今もはっきり覚えています。

ただ祈ればいいわけじゃないでしょう?
することしてから祈るんじゃないの?
言われるままに言うこときいていたら、
いい子にしていたら願いを叶えてくれるって
条件付きの愛じゃないか、
神様ってそんなに
了見がせまいの?!


小学生が思うことですから
少し極端で、それぞれに事情や
本当その人が何もしていないかどうかなんて
はっきりわかりもしないのに
こんなことを思ったりもしました。

そんな流れもあったのだと思います。
ある日教会で「右の頬をうたれたら左の頬を差し出せ」
という聖書のお話が出た時のことです。
わたしは神父さんに言ったのです。

一つの罪で済んだところを
罪を重ねさせてどうするんだ、
差し出すほうが意地悪でしょう
それはおかしい


弁が立つ生意気な小学生です。
そしてその時、何を言われたかは
正しくは覚えていませんが
神父さんの第一声は
「おお、そういう考えもあるね、
それはすごい所に気づいたね」と
まず褒められました。


それから、実はこれにはね、と
何か理由を教えてくれた気がするのですけど
そこは忘れてしまいました。
神父さんごめんなさい。
でもここでも素敵な神父さんだったのですよ。

だからこんな子になりました

と、少し話がそれましたが
こんな子ども時代をすごしていると
そりゃあ何でもあるよね、
見えないことも不思議なことも
ごく当たり前でそれも自然なことだね

という状態になったというお話でした。

それが不思議な事に関してだけでなく
どう感じたかをそのまま話せる環境と言うのは
ありがたいことです。
だから私もできるだけ
そんな環境を作っていきたいなと思っています。


ということで今日は
前回のオマケのようなお話ですが、
神秘とかが当たり前だから
生きにくいと言っている人の応援したいと
思っていた理由のお話でした。

















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