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人間関係の不整合

女性同士――と書き始めて、それじゃいけないのか、と止める。
自分としては多様性を認めていないわけではないので(なんだかわけがわからないような婉曲な言い方になってしまうが)、そういうつもりはないのだが、たしかにまあ、そうやってカテゴライズするのもよくないのだろう。

というわけで書き出しが遅れる…………。

これは、自分でなんらか消化していく一助にするために、ただただ書き留めておくという身勝手な投稿である。

書こうとしているのは、人間関係の中で、自分にはないスキル――それがもたらす不整合について、とでも言えばよいだろうか。

まあ、実際はそんなまとまったことでもないし、カッコよくもまとめられない。ただただみっともなくも、もやもやをさらけ出して記録しておく、
という心の一ページになるだけ(のちのち嫌になるのでは?と思いつつ)。

社交的ではないので、そもそも人付き合いは得意ではない。
ひとりでいることの不安を抱える子どもたちの気持ちはわかるつもり。
進学するたびに、ここで友だちはできるだろうかと不安を覚えてきたこともたしか。
転校にはしり込みをする部分もある(とはいえ、幸いにも転校せずに済んだ)。

ひとりでいることは決して嫌いではないが、ずっとひとりでいたい・ほうっておいてほしいというわけでもない。
ただ、本来はひとりでいても気にならないのに、それを「かわいそう」に思われるような「場」にいると、なんだか窮屈で居心地の悪さを覚えてしまう。
社交的に振舞えないこともない。
一期一会、今日この時間、このときだけのことと割り切れれば、それなりの姿勢と態度で臨むことはできる――できているはず、と思う。

ただ、恒常的にかかわりのあるコミュニティでは、なかなかそこが「いつも自分らしくいられる場所」とは言い切れないでいる。
人間だれしもそうなのかもしれないが。

恒常的にかかわりのあるコミュニティとは、職場とか、お稽古事やボランティア先とか――なんだろう、自分らしくいられないわけでもない、けどいつもどこかで距離をとろうとする自分がいる。
いつでもひとりがいいと考えているわけではない。所属するのにあたって、大きなくくりでいいなと思う場もあるというだけだ。

コミュニティの中でグループをつくる、というのは生き物ならではの一種の本能だろう。
しかしながら、その仲間づくり(あるいは友達づくり)のプロセスで、ちょっと苦手だなと思う様相、場面がある。

自分のグループの人たちが、異動や退職で物理的に身近なところからいなくなってしまい、一人になったとき、別にあらたなグループを形成しようとしたり、すでに存在する別のグループに混じろうとすることは、別に不思議もないことなのだけれども……なんだかもやもやすることがある。

陰口をたたくわりには、表ではにこやかに接するような様子を見ると居心地が悪くなるのと同じ。
もちろん、実は批判的であるのだが、努めて公平に接しようとすること――仕事ではそういうことも大切だ。自分もそうしていることがある。

たとえば、それまで相容れないと公言してやまなかった相手なのに、状況から仲間になる、という場面に出くわすと、一瞬たじろぐことになる。
まぁ、そういうこともあるだろう……でも、あのときのあれはなんだったのだろう、と感じてしまう自分がいる。
ちなみに「あのときのあれ」――というのは、あからさまな拒絶反応があった、ということ。
そんなことがなければ、別にどうということもなく、そういうものだと思えただろうけれど、たまたま相手のことを快く思っていないことを知ってしまっているという状況だ。

なのに、それなのに、ひとりになるよりはと、そういう相手にもすり寄っていくということに、なんとなく違和感を覚えてしまう。
そういうことが自分にはできない。
できない自分でいいと思っているし、できるひとはそれはそれなり、自分を守るため、自分の必要のためにやっていることだとわかってもいるつもり。

それなのに、実際にそれを目の当たりにするとなぜだか気持ちが悪くなってしまう。

不整合というのか、矛盾というのか――――それが苦しい。

また、そういう行動をとるのは比較的女性に多いように思い、そういうのもなんとなく湿度が高まってくる感じがしていやだなあ、という前振りで、冒頭「女性同士」と書き始めたのだった。
そうして書き始めるのは止めてはみたものの、おそらく、偏見に満ちているのは自分のほうなのだろう。

そう。
相容れない――かつてはたしかにそうだったが、今は違う心持ちで接せられるようになったのだ、ということかもしれないではないか。
相容れないと思っていたことは誤解で、友人関係を結べるようになったというならば、それはむしろよいことだ。
この1,2週間のうちに、目覚ましい変化があったのかもしれない。
お互いの気持ちが寄り添うような、共闘意識を持てるような何かがあったのかもしれない。
そうだそうだ、きっとそうに違いない――。

でも……それでも、消化しきれない自分がいる。
自分がおかしいのかもしれない。自分が単純にいわゆる”コミュ障”ということのあらわれなのかもしれない。

そんな事情、裏話、事実を知らなければよかったのか。
目撃しなければよかったのか。
だって、知らなければ、何も気にせずにすんだかもしれないから。

それでも、なぜだかここ数年は、そういうオモテウラを目撃することが多くなっている。
もっとも、だれにでもそういうものなのかもしれない。
おかげで、最近は苦手というよりは、もはや気味悪さ(などと言ってはいけないのだが)を覚え――いまさらながらに、「人間関係の不整合」に戸惑っている。

まだしばらく目にするだろうし、感じ続けることになるのだろう。

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