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自分自身のアドバンテージについて考える。 - "最後"の学芸員スクーリング日誌②

 前回の続き。

 今回、ある美術館の「引っ越し」を巡って、その具体案をプレゼンテーションすることになったんだけど、自分の所属するグループの案が建物の新築を伴う大掛かりなプランである分、抽象性も相当高い。
 他の方が仰るように確かにビルのテナントに入るという方法が無いわけではないし、現実的にはそこに収まる可能性もあるが、建築やデザインにもこだわっている美術館の例を見せられたあとでは、ちょっと面白みにも欠ける。

(これはイメージを固めないと破綻しそうだな…)

 と感じ、手持ちの鉛筆と教壇にあったコピー用紙を使い、話の内容をもとにサササと、美術館の具体的なイメージを描きはじめる。

 これには苦い経験がある。
 前回のスクーリングの時、私の所属していた班(今回とは全く別の班)が展覧会のディレクションをやることになった。私も主導的な立場として、あたふたしながらなんとか完成までこぎつけることはできたんだけども、完成した展覧会を鑑賞した教官が一つの作品を指差し、
「あの作品は外したほうが良い」
 と、厳しい指摘を受けてしまった。改めて展覧会全体を観てみると確かにその作品だけが明らかに色彩的にも、作品の品質としても「浮いた」作品だったのは明白だった(私だって伊達に美術館巡りをしているわけではない)。他の人がこの指摘についてどう感じたか、正直わからないが、私としては「やっちゃった…」と思っていた。
 反省点は作品を直接的にしっかり観ず、「画像」を観て決定してしまっていたこと、作品の持つ「意味」を重視するあまりビジュアル面に気を配っていなかったこと。これ以外にも微妙なライティングの違和感、頭の中で描いたイメージのギャップと現実に頭を抱えることになる。私自身が2Dで、ファミコン時代のドラクエのようにしか展覧会をイメージしきれていない。そして、私の頭の中にあるイメージがアウトプットされず、他者に共有されていないことも「まずい」と感じた。

 そういう経験を経て、今回も筆を走らせたわけだけど、それを観た周囲からは「加藤さん、絵が描けるんですね(笑)」と、変に不思議がられてしまった。私以上にこういうことのできる人はいるし、言っても芸術大学のスクーリングなので、別にそういう人がいても不思議ではないはずだけど…こういう場に来ることで、期せずして自分と他人の違いに気づかされることがある。

 色も塗られておらず、余計な線も消しきれていない、未完成感の強い絵がどれだけプレゼン案に貢献できたかはわからない。ただ時間の都合上いくつかの班をピックアップして講評となったとき、自分たちのグループが具体的な運営プランについて講評を貰うことはできたので、全く意味が無かったわけではない…と信じたい。

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