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私小説 仮想の善人

「善意の搾取」という言葉を聞いたことがある人もいると思う。「やりがい搾取」ともいう。善意に付け込み「やりがい」という言葉で釣って、低賃金重労働、サービス残業ありで働かせるやり口だ。そんなことをするのはブラック企業だが、福祉業界にも多く存在する。というか、福祉業界はまったくブラック企業並みである。だから当然、「善意の搾取」も「やりがい搾取」もいたるところに転がっている。
 福祉業界は、お人好しか社会的経験が未熟な者を、「やりがい」を餌に釣って、ブラックな働かせ方をさせている。そう考える人もいるかもしれない。
 しかし、断言するが、福祉業界に善意の人などまずいないと思っていい。全くいないというわけではないが、いても希少種だ。そして、善意の人はたいていの場合、自分が社会的弱者に善行を施しているという自己陶酔感に浸っているか、あるいは善意の人を演じなければならない理由があるかだ。
 そして、ここにもうひとつ加える。真実をみとめれば自尊心が傷つく。そういった場合だ。
 社会的に見て、底辺の仕事と思われている福祉関係の仕事をしている自分を、意義のある仕事をしていると自分自身に言い聞かせたり、そもそも低い賃金に我慢して働いたり、賃金も支払われない時間外労働を利用者のためだとむりやり考えたり、不当な人事評価や底意地の悪い職員や上司のハラスメントに耐えたりするのも、社会に貢献しているのだからと自分を誤魔化す。
 現実を見れば、耐えられなくなることはわかっている。だから現実を見ないために、「やりがい」であるとか「いきがい」であるとか、「社会的貢献」であるとか、そういった空虚な美辞麗句で自分自身を酔わせ、今日も、利用者から殴られたり蹴られたり、噛みつかれたり、首を絞められたりするリスクのある職場に出かけていくのである。現実を見れば、そんなところには一秒だっていたくない。福祉関係で働いている職員に心を病む者が多いのもそういった理由からだろう。まともに考えれば、自分たちは救われない境遇にいることはすぐにわかる。
 しかも、この仕事は決して簡単な仕事ではない。それなりの仕事をしようと思えば、実は相当な勉強が必要なのだ。しかしそれをしても報われることは少ない。というか報われない。自分はこれだけの勉強をしたという自負だけが財産だ。
 自分はこれだけの勉強をした。するとプライドが肥大化する。できない奴や意見の違う奴が、親の仇のように憎くなってくる。わたしはこれだけのキャリアがある。わたしはこれだけ勉強をしている。あの人と一緒に仕事をするのはいやだ、すぐに手を抜くから。あの人はオムツの巻き方が下手だから、いつも漏れて汚れている。腰が痛い、肩が痛い、腕が痛い、いつもそんなことを言って仕事をさぼろうとする。あいつの顔をみているだけで苛々してくる。あんなやつ辞めさせればいい。
 施設の中では、利用者の叫びよりも、職員の怨嗟の声の方がはるかに大きい。職員同士がいがみ合い、憎しみをぶつけ合い、その隙間を縫うように色恋沙汰がある。
 いったいどこに搾取されるような「善意」や「やりがい」があるというのだろう。
 福祉の世界にそんなものは最初からなかった。あるのは貧困と憎悪と深すぎる諦観だけだ。自分たちのいる糞みたない世界を変えようという意思もなく、仲間を憎み続け、その結果、利用者を憎み、その権利を侵害し、さらに虐待を行なう。
 わたしもそのなかのひとりだ。泥沼の中であがき、もがいている救われない人々のひとりだ。
 何度も言うが、これは小説である。現実の話ではない。

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