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播磨陰陽師の独り言・第三百六十一話「高校野球のスコア」

 夏になると、従姉いとこが毎年、ラジオで高校野球を聞きながらスコアをつけていました。私は野球のスコアブックなるものを、他で見たことはありません。
——従姉はどこであのような物を手に入れたのだろう?
 と、いつも不思議に思っていました。
 当時、高校生だった従姉は女子校だったため、学校に野球部はありません。野球とは無関係な生活をしていた筈です。
 中学生の頃、この家に引っ越しました。もちろん、近所に知り合いはおらず、唯一、隣りが親戚だったので従姉妹たちが住んでいました。祖母も従姉妹の家にいたため、従姉妹と弟との四人で、いつも祖母の部屋にたむろしていました。
 従姉が部屋を出る時は、私が代わりにスコアをつけていました。スコアつけは、ほぼ強制みたいなものでした。
 あの頃はコピーとは言え青焼きでした。青焼きと言うのは、昔のコピー機で、半透明の容姿に原本を描き、黄色い紙に挟んで機械に通して使います。最終的に原本の黒い部分が青く残って、機械から出て来るものです。説明が難しいですね。ゲームを開発していた頃も青焼きで企画書を作っていたので、多分、1980年代前半くらいまでは使っていたように記憶しています。この青焼きは〈ブループリント〉と呼ばれていました。図面のことをブループリントと言うようですが、元々は青焼きされた設計図を意味する言葉です。
 幼い頃、祖母の家に行く途中の道にバット工場がありました。削りかけのバットがたくさん積んであったのを覚えています。この頃は、祖母は実家の隣りではなく、別な家に住んでいました。
 工場は有名なメーカーだったようで、かなり多くの選手たちに使われていました。たしかスキー工場とも併用されていたようで、制作途中のバットとスキー板が並んでいたのを覚えています。
 あの頃は、
——こんなにたくさんのバットは、いったいどこへ行くのだろう?
 と思っていました。
 と言うのは、この頃は世界の広さを知らなかったからです。
 しかも、
——甲子園は東京の近くにある。
 と思い込んでいました。
 まだ、本州には行ったことがなかったので、
——多くの都市は東京近くのどこかにある。
 としか認識していなかったのです。ちなみに宝塚も東京にあると思っていました。
 関西に流れて来た時、甲子園や宝塚が大阪の近くであることを知って驚きました。まだ、子供だった頃は、東京も大阪も遠すぎる未知の世界でした。目の前にある北海道の景色の広さがすべてであり、それ以上に広い世界のことなど想像もつかなかったのです。そのことがあったからか、大人になってから世界中を旅しました。広い世界を見てみたかったのです。

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