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クリスマスツリーの香り

今週は、ちょっとというかかなり落ち込んで悩むことがあって、なかなかnoteを書く気になれなかったのだけれど、今日、ようやく前を向く気になれた。今ある状況を受け止めて、感謝して、できる範囲で進んでいこう、いくしかない、という気持ちになれた。そう思えるようになったのは、クリスマスツリーのおかげ。

え?クリスマスツリー?新年迎えて、公現祭も終わって、なんなら小正月も終わったのに、なんで今さらクリスマスツリー?という感じなのだけれど、イギリスに住んだことがある人ならば、この時期(1月半ば)にクリスマスツリーを見かけることがよくあるだろう。クリスマスツリーと言っても、オーナメントがつけられ、窓辺にきれいに飾られたツリーではなく、全ての飾りが取り払われ、役目を終え打ち捨てられたモミの木のことである。

キリスト教圏において、ツリーを含めたクリスマスの飾りは、1月6日の公現祭まで飾られる。1月6日を過ぎると、近所の公園にはクリスマスツリーの回収場所を案内する看板が立てられ、クリスマスをモミの木の生木ツリーで楽しんだ人たちが、飾りを全て外したツリーをそこへ持ってくる。公園の回収場所には何本ものツリーが打ち捨てられ、なんだかやさぐれたような雰囲気で横たわっている。そのやさぐれツリーたちは回収されて堆肥などにリサイクルされる、と聞いていた。しかし、どこでどのようにリサイクルされるのかは知らなかった。あえて調べたこともなかった。

しかし昨日今日と、偶然それを知る場面に出くわした。近所の公園の入口を入るとすぐに、清涼感あふれる香りが漂ってきた。その香りとともに、バリバリバリという音も聞こえてきた。なんの香り、なんの音だろうと思って見てみると、そこはクリスマスツリーの回収場所で、打ち捨てられたツリーの横にトラクターが停まっていた。黄色い作業服を着たおじさんが、そのトラクターの後方へツリーを次々と投げ込んでいる。トラクターは大きな口を開け、ツリーをバリバリバリと噛み砕いていく。音の正体はトラクターがツリーを粉砕する音で、爽やかな香りは粉砕されたクリスマスツリー、つまり、モミの木の香りだったのだ。辺り一帯がその香りで満たされていたけれど、だれもそれを気に留める様子はなかった。こちらの人たちにとっては見慣れた嗅ぎ慣れた1月の風物詩といったところなのだろう。しかし、イギリス生活3年目にして、ようやくその場に出くわした私にとっては新鮮な光景だったので、立ち止まり、しばらくその様子を眺めていた。胸いっぱいにその香りを吸い込みながら。

粉々に砕かれたモミの木は、その後どこへ行くんだろう?と思ったのだけれど、その時はただひたすら粉砕されていく様子しかわからなかった。作業をしているおじさんに尋ねてみようかと思ったけれど、トラクターの音がうるさすぎて、尋ねられる雰囲気ではなかった。仕方なく、疑問を残したままその公園をあとにした。帰宅後にその行方を調べてみようと思っていたのだけれど、家につく頃には他のことを考えていて、調べることはすっかり忘れてしまった。

そして今日、また同じ公園まで散歩にでかけた。今日は、残念ながら昨日のような爽やかな香りは漂っていなかった。しかし、昨日、ツリーを粉砕していた場所の少し先に、昨日のトラクターの姿が見えた。昨日は何かを吸い込んでいたトラクターが、今日は何かを吐き出していた。何をしているのだろうと近づいてみると、昨日と同じ香りがした。粉砕されたモミの木が、いくつもの小さな山になって積まれていた。なるほど、粉砕されたモミの木屑は公園の堆肥になるようだ。イギリス中の公園で回収されているモミの木全てが、その回収された公園に撒かれるわけではないようだけれど、私が訪れた公園の場合は、その場で粉砕し、堆肥にするという流れになっているようだった。こうして、昨日の疑問は、1日であっけなく解決した。

そのモミの木屑の山を横目に、私はそのまま公園をぐるりと一周歩いた。そしてまた木屑の山まで戻ってくると、トラクターはいなくなり、小さな木屑山脈だけが残されていた。私はその山に近づいてみることにした。昨日のように辺り一面に広がるほど強くはないけれど、やはりモミの木の香りがした。私はまた昨日と同じように、何度も何度もその空気を吸い込んだ。鼻の穴を親指が入るくらいに膨らませながら。

粉々になった枝や葉を眺めながら、この子たちは近辺の家々の一番良い場所に置かれ、色とりどりのオーナメントや電飾で飾り立てられ、足元にはたくさんのプレゼントが置かれ、クリスマス当日の朝、こどもたちが目を輝かせながら足元に駆け寄り次々とプレゼントの包みを開けていく様子を、どんな気持ちで見つめていたのだろうか、と思った。モミの木たちは、人間のエゴのために育てられ、切られ、売られ、飾られ、捨てられ、砕かれる。文句のひとつやふたつくらい言いたいだろう。しかし、言葉を持たない彼らは、もちろん何も言わない。何も言わない代わりに、最後の彼らの意思表示として、あの香りを放っているように思えた。その香りからは、人間のエゴに対する文句ではなく、「良いクリスマスだったね。みんなと一緒にクリスマスを過ごせて楽しかったよ。ありがとう」という気持ちが聴こえた気がした。モミの木たちは、最後の最後までみんなを笑顔にする“クリスマスツリー”であり続けようとしたのではないだろうか。そんな気がした。その時、染織家の志村ふくみさんの言葉を思い出した。

色はただの色ではなく、木の精なのです。色の背後に、一すじの道がかよっていて、そこから何かが匂い立ってくるのです。
(中略)
色の背後にある植物の生命が色をとおして映し出されているのではないかと思うようになりました。

「一生一色」志村ふくみ

志村ふくみさんは染織家なので、植物から色を染め出す際の経験を通して「色はただの色ではなく、木の精」なのだと綴っておられる。志村さんは、植物の持つ色の中に、匂い立つもの、“木の精”を感じ、私は直接的な香りの中に“木の精”を感じた。木の精が存在していたことの最後の証として、あの香りを放っていたのだと。私は志村さんのように植物と真摯に向き合い語り合っているわけではないので、そんな私が志村さんの言葉を引用することはおこがましいことではあるけれど、粉々に砕かれたモミの木を見つめながら最後の香りを嗅いでいると、「あぁ、志村さんが仰っていた“木の精”というのは、こういうことなのかもしれない」と感じたのだ。

それを感じたことで、なんだか急に世界が変わったように思えて、しばらく落ち込んでいたことも、なんとかなるか、と吹っ切れるような気がしたのだった。我ながら、なんて単純なのだろうと思う。けれど、私はそういう人間なのだ。その単純さが、私の魅力でもあり、欠点でもあるのだろうけれど。香りが脳に大きく影響を与えるということは、広く知られている。嗅覚からの情報は、大脳新皮質を経由せずに大脳辺縁系へと直接送られるため、直感的に本能を動かす、などと言われている。詳しいことはわからないが、私は今日、自らの体験として、それを実感したのだ。うん、前を向いて進んでいこう。

最後に余談になるが、今日覚えた言葉を備忘録として。モミの木(モミ属)の学名は「abies(アビエス)」と言い、ラテン語で“永遠の命”という意味だそうだ。