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初めてのお誘い

多くの人がスマホを持ち、LINEやSNSで連絡を取り合う令和の現代において、お茶に誘うためだけに相手の家を訪れることがあろうとは思ってもみなかった。しかし、私がお茶に誘いたい隣人のメアリーはスマホを持っていないようだったし、電話番号も聞いてはいないし、彼女を誘うには、直接訪ねて行くしかなかったのだ。
留守だろうか、突然お伺いして迷惑がられないだろうかと、ドキドキしながら、メアリーの家のインターホンベルを鳴らした。すぐに、息子のマークが出てきてくれた。初めて会った日と同じように、不審そうな顔をしていたが、ベルを鳴らした相手が私だとわかると、Hello と笑いかけてくれた。「来週時間があれば、うちにお茶に来てもらえないかと思って誘いに来たんだけど」と私が言うと、マークは私の手を取り、アパートの中へと迎え入れ、そのまま彼らの部屋へと連れて行ってくれた。私は、エントランスで約束を取り付けたら、すぐに帰るつもりにしていたのだけれど、まさかの展開。突然訪ねてきた、知り合って間もない隣人をためらいなく家の中へ迎え入れてくれるとは思ってもみなかった。「突然お邪魔したら迷惑じゃないですか?すぐに帰るつもりだったのだけど…」と私が言っても「いいからいいから」と短く応えるだけだった。

マークが部屋の扉を開けると、メアリーが「まぁショーコ、よく来てくれたわね。嬉しいわ」とハグで迎えてくれた。前と同じく、メアリーは温かく柔らかい。メアリーに手を引かれながら、私はリビングへと進む。「ほらこれ、この前あなたがくれた折り紙、ここに飾ってるのよ」と彼女が指差した先に、折り紙の鶴と鹿が控えめに並んでいた。もともと並べてあったであろうMの形のウッドブロック(メアリーとマークのMだろうか)、小さな猫の置き物、キャンドル、観葉植物などと一緒に、ごく自然に、折り紙はそこにあった。メアリーが私をこころよく家の中に招き入れてくれたように、折り紙もまた、飾り棚の一員として、こころよく受け入れられたのだろう。

リビングの隣りにあるキッチンの窓際まで招かれて、「ほら、ここからあなたの家の窓が見えるわよ」とまた例によって、少女のようないたずらっぽい顔をした。人の家の窓から自分の家の窓を眺めるって、なんだか変な感じだ。自分がその窓の中にいる様子を想像してみた。メアリーに向かって手を振り、投げキッスをする私。だれかの日常風景の中に自分の姿があることを認識したことで、不思議な安心感のようなものを感じた。何も飾らずそこで暮らしていていいんだよ、と言われているような、大きくて温かいものに見守られているような安心感を。でももしこれが、見知らぬおっさんだったら、むしろ恐怖しか感じないのだろうけれど。

「あなたの家の庭に、いつも3匹の猫がいるでしょう。あの子たちは親子なのよ。フサフサの毛が母親で、真っ黒いのと足先だけが白いのがこども。私が飼っているのではないんだけれど、エサをやったり、あそこに寝床も作っているの」とメアリーが窓の外を指さしながら教えてくれた。窓の外の中庭には、横にして置かれたプラスチックケースの中に深さのある皿がいくつか置かれていた。中には水とキャットフードを入れているという。そして、窓から顔を出して覗いた右の壁際には、小さな犬小屋の中に毛布が敷かれていた。

そう、わが家の庭には、私たちがここに住み始めた頃からいつも猫がいた。日によっていろんな猫を見かけるけれど、ほとんど毎日必ず見かけるのが、メアリーが言っていた3匹の猫だ。ふわふわでこげ茶と黒と白の毛が混ざっている子は“ムーン”(映画「耳をすませば」に出てくるムーンみたいな雰囲気だから)、真っ黒の猫は“クロ”、ほとんど黒だけど足先だけが白い猫は“ソックス”と、私たち家族は勝手に名前をつけている。彼らはうちの庭が日当たりの良いことを知っていて、天気の良い日はいつも庭の芝の上でひなたぼっこをしている(のみならず、排泄もしている)。また、庭にある物置の上も、彼らのお気に入りの場所のようで、そこに座ってまどろんでいることもよくある。うちの庭で堂々とくつろいでいるけれど、私たちが窓を開けたり外に出たりすると、そそくさと逃げて行くので、私がムーン、クロ、ソックスと呼びかけたところで、彼らはなんの反応もしてくれはしない。

そんな彼らも、メアリーの呼びかけには反応しているようだ。メアリーはムーンを“マミー”、黒を“ガーリーキャット”、ソックスを“ボビーキャット”と呼んでいるらしい。私たちのつけた名前とその意味を伝えると、「確かにソックス履いてるみたいよね!」と気に入ってくれたようだった。「5年前くらいだったかしらね、あの子たちが生まれたのは。それからずっと、彼らはあなたの家の庭と、このアパートの中庭で暮らしてるわ。(あなたの家の庭に)塀を乗り越えてやって来るときもあれば、塀の下の穴をくぐって来ることもあるでしょう?あの穴はきっと、キツネが掘った穴だと思うのだけれど、あの子たちの通り道にもなってるわね」と教えてくれた。そして「あなたたちは、猫が好き?」と尋ねられたので「もちろん!自分たちでペットとして飼いたいくらいだけど、それができないから残念。だから猫たちが毎日庭に遊びに来てくれるだけでも嬉しい」と応えた。するとメアリーは「よかったわ。前に住んでいた人はどうやら猫が好きではなかったみたいで、あの穴を埋めてしまっていたのよ。でもいつからかまた塀の下を通るのを見かけていたから、その頃からあなたたちが住み始めたのね。あなたたちが来てくれてよかったわ」と満足そうな笑顔で言っていた。

ひとしきり猫について話したところで、私は自分がメアリーをお茶に誘いに来たことを思い出した。「もしよかったら、来週うちにお茶にいらっしゃいませんか?座ってゆっくりお話したいと思っています。もちろんマークもご一緒に」と単刀直入に尋ねると、「まぁ嬉しい。ぜひお伺いさせてちょうだい。私はいつでも空いているけれど、マークは仕事でいない日も多いから、私ひとりでお邪魔するわね」とのことだったので、メアリーと私の予定の合う翌週木曜日14時に約束をした。初めてのお誘いに成功した私の胸は高鳴った。ほら、やっぱり青春物語風。そんなことを内心密かに思っていたら、「でもね、実は私、紅茶は飲まないのよ」とメアリーが言ったので、私は思わず、「え?ほんとに?ステレオタイプかもしれないけれど、イギリス人はみんな紅茶を飲むんだと思ってました!」と言ってしまった。するとメアリーはあははと笑いながら「そうよね、そう思うわよね。私も昔は飲んでたんだけどね、いつからか飲まなくなったのよ」とのことだった。じゃあ、何を飲むのだろうかと尋ねたら「アップルジュース、オレンジジュース、あとホットチョコレートも好きよ」とのこと。こどもか!と思わず突っ込んでしまいそうになったが、そこはギリギリぐっと飲み込んだ。「わかりました。ジュースとホットチョコレート、用意しておきますね」と私が言うと「ありがとう。楽しみにしてるわね」と言ってくれた。

こうして約束を取り付け、メアリーの家を出る前に、なんとなく家の中の様子を見回してみた。ものが少ないわけではないし、深緑の壁紙にカラフルなフォトフレームが飾られていたりして、割と賑やかな室内ではある。けれど、散らかっているということはなく、きちんと整理されて、それぞれが決まった場所にちゃんと収まっているという感じだった。ただ片付け上手というだけではなく、置かれているもの、飾られているもの、全てに対するメアリーの愛着が感じられるような雰囲気が漂っていた。帰り際に、廊下から見えたメアリーの寝室は、ベッドカバーがピシっと敷かれ、その上にお行儀よくクッションと小さな猫のぬいぐるみがひとつ並べられていた。彼女の丁寧な人柄が、寝室の様子からも伺えた。

突然の訪問にも関わらず、温かく家の中へと迎え入れてくれたメアリーとマーク親子。彼らの生活の一部を垣間見たことで、さらに二人のことが好きになった。素敵な隣人ができたことが、本当に嬉しかった。