各務原富貴子

絶望まみれ アイコンとヘッダーはPixAIで作成しました。

各務原富貴子

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最近の記事

誰も推せない

 推し活という言葉が広く知られている。誰かを推しとして応援する活動のことだ。推し活は知られているどころか、やろうぜと推奨するような向きさえある。ところが私はどうしてもこれが出来ない。  なぜかというと推しを選べないのである。コンテンツが数多くあるのもそうなのだが、なんというか、対象に自分の都合を全力で押し付けているような気がしてならない。推される側はそんなこと織り込み済みだろうから気にしないのだろうが、私の方が気にする。  何をそんなに気にしているのかというと、推し活をし

    • 絶望とか虚無感とか諦観とか黒くてふわふわしたもの

       最近ずっと、「なんでここにいるのだろう」とか、「なんでこんなことをしているのだろう」と考えている。考えているというよりは、ふとした瞬間にそんな風に思うというのが正しい。当然のことながら、答えは出ない。でるわけがない。常に堂々巡りである。ただ少なくとも、絶望というと大げさかもしれないが、希望を持てないでいる。  抱えている。抱え込んでいる。背負っているわけではないと思う。抱えているだけなら手放せないかと思うが、しかしながらそれは出来ない。そういうことを考えずにはいられないか

      • 生きているという感覚が、錯覚だったらどれほど良かったろうか。

        • 他人の不幸は蜜の味なんて言うけれど

           職場で同僚が陰口を叩かれているのを目にすると、どうしても他人事とは思えない。何故なら、自分もそんなふうに言われているのかもしれないからだ。被害妄想だと言い捨ててしまえばそこまでなのだが、バイト先での勤務日を週3日に減らされていた時期がある身としては、他人が言われているのであっても、自分が言われている気分になってしまう。それに、他人が何を考えているのかなんて、わかりはしない。自分の考えを包み隠さず表明するような者は、めったにいない。私はある意味、他人の目に怯えているのだ。

        誰も推せない

          働く理由なんて人それぞれだ。自分の場合は、自分の無能を証明するためがその理由のひとつだ。

          働く理由なんて人それぞれだ。自分の場合は、自分の無能を証明するためがその理由のひとつだ。

          私が知りたいこと

           私には知りたいことがある。具体的には以下の通りだ。 生と死 時間 実存 存在理由 世界 空間 自我 意識  これらのうち一番知りたいのは、時間だ。普段当たり前のように接しているが、私は時間について何も知らない。なので、時間の正体を生きているうちに知りたいと思っている。知ってどうするなどは特に無いが、とにかく知りたい。  ところで、どこかでこういったことを、議論とまでは行かないが、語り合う事ができる場はないだろうか。なんとなくこういった話は深刻に捉えられる

          私が知りたいこと

          自分が今までに投稿してきた記事をふりかえってみて思ったが、こういうのも痴態を晒していると言うのだろうか。

          自分が今までに投稿してきた記事をふりかえってみて思ったが、こういうのも痴態を晒していると言うのだろうか。

          自らの不可能性について

           今の勤務先で働きはじめて、もう5年ほど経とうとしている。社員登用制度もあるが、声がかかったことはない。そりゃそうだ。勤務日を週3日に減らされたことがあるようなスタッフに、そんないい目があるものか。  未だに実家暮らしであるが、いい加減にしてひとり暮らしをはじめたいと思っている。しかしながら今の勤務先では、給与が低くいくら働いてもひとり暮らしをはじめる事ができない。つまり、どうにかして稼ぎを増やす必要があるわけだ。  そうなるとまずはじめに思い浮かぶ手段は、転職だろう。仕

          自らの不可能性について

          もしも私が宗教団体を立ち上げるとしたら、信じないことを掲げるだろう。

          もしも私が宗教団体を立ち上げるとしたら、信じないことを掲げるだろう。

          思考の方向、あるいは自分を信じるということ

           私は基本、ネガティブ思考である。加えて、自己評価も低い。自分を信じると書いて自信と読むが、私にはそんなものは無縁である。むしろ、この世で一番信用ならないのが自分自身だと思っている。こんな人間が自信を持つことができるだろうか?  なんて自己を否定してみたものの、自分を弁護できるのは自分のみである。そして弁護するならば最低限、自分で自分を信じている必要がある。自分の敵も味方も、結局はひとりしかいない。  何かを信じるにあたって、必要となるのはやはり根拠がだろう。例えば神の存

          思考の方向、あるいは自分を信じるということ

          名前も変えてみた。

          名前も変えてみた。

          アイコンを変えてみた。しばらくはこれで。

          アイコンを変えてみた。しばらくはこれで。

          アイコンを変えたいが、適当な画像がない。スケブかなんかで描いてもらおうか?

          アイコンを変えたいが、適当な画像がない。スケブかなんかで描いてもらおうか?

          行先不明ということ

           最近、人生が詰みの状態にあるのではないかという考えが脳裏に浮かんでいる。仕事をしているときは特にこういった考えが浮かびやすい。そしてこの考えは、いくら振り払ってもしつこくまとわりついてくる。  状況を軽く振り返って見よう。いま私は30代だが、フリーターであり正社員ではない。一時期は正社員として働いていたが、あまりの忙しさに、「仕事に殺される」と思うようになって辞めてしまった。今の勤務先は前職ほどの忙しさはないが、一体いつまでこの仕事を続けられるだろうかとふと考えてしまう。

          行先不明ということ

          考えてしまうこと

           詮無いことだが、どうしても考えてしまうことがある。それは自分の存在理由だ。何もできない自分に、存在理由があるのだろうか。以前にも同じような内容で記事を書いた。  あれからずっと、考え続けている。当然のことながら答えは出ない。以前に書いた記事の通り、本当はこの疑問にたいして答えを出すことを望んでいないのだろう。  ではなぜ此処に存在しているのだろうか。この疑問にたいし、ラウ・ル・クルーゼは「生まれたものはやがて死ぬ、ただそれだけ」と示した。そして常に不明の未来に向かって進

          考えてしまうこと

          自分の存在意義について考えることがある。結論はいつも、『そんなものは無い』となる。では何故私は存在しているのだろうか。

          自分の存在意義について考えることがある。結論はいつも、『そんなものは無い』となる。では何故私は存在しているのだろうか。